私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

左遷の対応

土川は「労務の土川」として知られ、犬山モンキーセンター、明治村など中京圏振興に大きく貢献した人物である。

 明治36年(1903)、愛知県生まれの彼は、昭和3年(1928)京都大学を出て、旧名古屋鉄道に入り、将来を嘱望されていたが、合併後、愛知電鉄側から就任した社長に睨まれる。その上不運は重なり、妻、そして父を失う。
 会社ではいろいろ努力し実績も挙げるが、理由をこじつけられて閑職の厚生部長に左遷させられた。この厚生部長は、青年たちの心身鍛錬も受け持つ所長でもあった。
 鍛錬所は東濃地方の山深い温泉地にあったため、毎月2週間はここで暮らした。配所の月をながめるには格好の場所だし、青年の起居をともにする生活は、剣道選手時代の合宿生活の続きのようだった。
 暇はあるし、書物も読める。青年と歴史を語り、人情を語り、精神修養について語り合える場所でもあった。その後も左遷はあったが、このときの青年たちとの交流で、人情の機微や青年たちのものの見方や考え方を勉強することができたという。
 昭和20年(1945)、運輸部長の職責のまま名鉄労組の初代執行委員長となる。 その後、社長になった彼が提唱し、主導する「労使一体感」は経営の根幹につながったが、左遷の連続で苦しかった当時を振り返り、「左遷哲学」を次のように語っている。

「こう左遷が連続すると私にはおのずから左遷哲学が生まれてきた。左遷、栄進なんてものはいろいろな見方がある。いかに左遷されてもそれによって世間の同情が集まるような時は五分と五分でたいした左遷にならぬものである。左遷のたびに易々とこれに従い、会社発展のために努力すると、これ意外な同情を得られるものであることがわかってきた」(『私の履歴書』経済人十三巻 272p)
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 この「左遷でも会社発展のために努力すると、意外な同情をえられるものだ」は大変な達観の境地です。
 私も地方に左遷され、その恨みから半年ほど仕事の手抜きをしたことがあります。手を抜いた遅れを取り戻すのにずいぶん苦労をしました。具体的には職場の人間関係、仕事の精通度などがスムーズにいかないのです。手抜きは自分が一番よく知っているものです。ヤケを起こせば自分に必ず跳ね返ってきます。心ある人は、必ずどこかで見てくれています。それを信じて、自分のために努力する必要があります。


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