私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

対話の重要性

京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者、公益財団法人稲盛財団理事長、日本航空名誉会長である。
1932年(昭和7年)、鹿児島県鹿児島市薬師町に7人兄弟の二男として生まれる。父畩市は「稲盛調進堂」という名で印刷工場を経営していた。1955年(昭和30年)、鹿児島県立(現・国立)大学工学部を卒業後、有機化学の教授の紹介でがいしメーカーの松風(しょうふう)工業に入社したが、当時の松風工業は、倒産寸前で退職が相次いでいた。稲盛の開発した技術を生かすため、3年後に退社する。

そして1959年(昭和34年)、松風から行動を共にした同志8人で京都セラミツク(現・京セラ)を設立し、結束のため8名の血判状にも署名した。そしてわき目もふらずに働き続けて1年目から黒字決算を果たす。ところが創業3年目の1961年(昭和36年)、前の年に入った高卒社員11人が突然、「定期昇給とボーナス保証」の要求書を提出してきた。そして「この要求を認めてくれなければみんな辞めます」という。
小さな会社であり、彼らのまじめな勤務ぶりを稲盛は知っていた。就業時間は朝8時から午後4時45分となっていたが、実際には深夜まで残業が日常化していた。松風以来のメンバーは徹夜もいとわずという社員ばかりで時間の観念がなかった。
ただ、中卒の社員は夜間高校に通うため定時に帰らせる。それが高卒になると、当然のように何時間でも上司に付き合わされ、時には日曜まで駆り出される。そんな不満が積み重なっていたようだ。
彼がいくら説得しても、「毎年の賃上げは何パーセント、ボーナスは何カ月と約束してくれなければ辞めるだけだ」と譲らない。

そこで幹部とひざを突き合わせての交渉が3日間にも及んだ。稲盛は「来年の賃上げは何パーセントというのは簡単だ。でも実現できなければウソをつくことになる。いい加減なことは言いたくない」と誠意を込めて説得する。すると一人、そして一人とうなずき、最後に一人だけ残った。「男の意地だ」となお渋る一人に、「もし、お前を裏切ったら俺を刺し殺していい」と迫ると私の手を取って泣き出した。この時、はじめて会社責任の重さと経営責任の永続性に気付いたのだった。それを次のように述懐している。

そもそも創業の狙いは自分の技術を世に問うことであった。この反乱に出会って私の考えは大きく変わった。こんなささやかな会社でも、若い社員は一生を託そうとしている。田舎の両親の面倒をろくにみられんのに、社員の面倒は一生みなくてはいけない。これが会社を経営するということなのか。
この体験からこんな経営理念を掲げるようになった。「全従業員の物心両面の幸福を追求する」。私の理想実現を目指した会社から全社員の会社になった。生涯かけて追及する理念として、この後にこう付け加えた。「人類、社会の進歩発展に貢献すること」と。(「私の履歴書」経済人 36 194~195p)

これがのちに「京セラフィロソフィー集」に結実する。「人間として何が正しいのかで判断する」「公正、公平、誠意、正義、勇気、愛情、謙虚な心を大切にする」などを決めた。その後も新しい事業に取り組む前に、「国民の利益のためにという使命感に一点の曇りもないか」「動機善なりや、私心なかりしか」を自分に厳しく問い詰めて着手し、多くの人の支持や協力を得て、事業成功に導いたのだった。


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