私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

嫌な部署配属

賀来はカメラの電子化を進める一方、複写機、ワープロ、プリンターなど製品の多角化をはかり大幅に業績を伸ばし、財界屈指の論客としても知られた。
大正15年(1926)、愛知県生まれの彼は、旧制五高を出て戦中、戦後の混乱期に学徒動員や浪人暮らしののち、九州大学を卒業し、28歳でキヤノンに入社。
ハッキリものを言う性格から、上司やトップと衝突することが頻繁にあったため、クビを覚悟したこともあったという。しかし最初の上司は、その性格を「面白い」とし、自分の管轄部下とした。
その経理部では原価計算課に回され、まる6年在籍することになる。ところが、ここの仕事があまり面白くない。分厚い棚卸表から、社内加工費、外注費、個数、単価などを計算し、それを縦横合わせて合計を出す。1枚やるのに1時間ぐらいかかり、毎月何百枚も計算しなければならない。
やっていることは計算機の代わりのようなものであり、せっかく卒業した大学での知識など、まったく必要としない。
「こりゃ、ひどいところに勤めたな」と思ったものの、新入社員の身で「つまらぬ仕事はできない」などと投げ出すわけにもいかなかった。
そこで、スポーツ好きで明るい性格でもあった彼は、次の名案を実行した。

「つまらないようにおもいながら仕事をしたのでは、自分が不幸になるだけである。つまらない仕事でもやりようがあるだろうと考えて、計算を“スポーツ化”することを思いついた。中学生のころ砲丸投げに熱中し、毎日少しでも記録を伸ばすのを楽しみにしていた。その楽しさを思い出し、毎日、仕事、仕事量を記録することにしたのである。そうすると、今日は六枚やった。明日は七枚に挑戦しようと、記録更新の意欲がわいてくる。(中略)。
工夫の末、計算の能率は三、四倍になり、そろばんにも熟達した。それに、いやな仕事でも時間が短く感じるようになったし、私を異常と見た人たちも、半面、真面目で裏表なく、よく働くと認めてくれた」(『私の履歴書』経済人二十九巻 278、279p)

このときの賀来の下積みの事務経験が、カメラ主体企業のキヤノンを、複写機、ワープロ、プリンターなど事業の多角化に成功し、業績を伸ばすことになったのです。
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いやなことでも面白くしようとするポジティブな発想が、仕事にも人生にも必要なときがあります。
仕事を楽しく、愉快に取り組めるよう努力する才能は素晴らしい。まず、自分の得意なこと、楽しめることを仕事に結び付ければ、気持ちが楽になります。それにより与えられた仕事に精通することで上司からの信頼を得、将来につながった好例です。


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