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戦後日本を代表する経済人の一人。新日本製鐵会長、経済同友会代表幹事、日本商工会議所会頭などを歴任した。財界四天王(小林中・日本開発銀行総裁、水野成夫・サンケイ新聞社長、櫻田武・日清紡社長)の一人で、”戦後の財界のドン”ともいわれた。
彼は1900年島根県松江市生まれ、大正13年(1924)東京大を卒業し、浅井物産に入社するが1年後、倒産した富士製鋼を再建するため転社する。これには彼の長兄・護と長兄がお世話になった渋沢正雄の会社との義理があったので引き受けた。
会社再建のために、300人の従業員が一丸となって戦っているさなかに昭和初頭の大不況が襲ってきた。京浜工業地帯の煙突の煙が消えてしまうほどの古今未曾有の大不況だった。
当時トン当たり5,6万円していた鉄板が40円、丸棒が50円を割ったという。それでも買ってくれるところがあれば良かったが、買い手がつかなくなった。もう破産よりほかないというところまできた。工場の全設備は銀行へ担保に入れたから、借金の利子さえ払えないので銀行は1銭も貸してくれない。ついには従業員に賃金を払うことも欠くありさまとなった。
これを何度か乗り越えたものの、昭和6年(1931)の暮にはどうにも首が回らなくなり、ついに夜逃げをするよりほかなくなった。家には帰れないので、暮れから正月までの何日間か東京の安宿を転々とし、しまいには箱根から熱海の宿にも泊まることになった。その時の苦しい心境を次のように書いている。
正月の温泉町は静かな中にも新春らしい活気がある。通りには羽子板を持った子供たちの楽しそうな姿が見え、時折り島田に結った女が、男に寄り添うようにして通り過ぎてゆく。それに引きかえこのオレは・・・夜逃げの話を聞いていたが、こんなにたまらないものかと、身にしみて知らされた。柔道で首を締められる苦しさなぞ、それをおもえば物の数ではない。
けれども彼はいつまでも逃げおおせていられるものではないと思い、渋沢社長や300人の従業員のことを考えると川崎の会社に戻るしかなかった。そして銀行に倒産回避の必死の工面と交渉をして危機を脱出したという。このときの「夜逃げ」の苦い経験が彼を逞しい経営者に育て上げ、日本財界のリーダーに成長させたのでした。彼が”戦後の財界のドン”と尊敬された証拠を「履歴書」登場名前の索引数で次に示します。
昭和31年から日本経済新聞の文化欄に掲載された「私の履歴書」に登場した人物は、平成15年末(47年間)までで650名。今回、平成15年までに集計したのは経済人だけなので、それ以降の経済人、他の政治家や官僚、作家、芸術家などの登場者の引用数を入れれば、この順位は変わると思います。しかし、戦前・戦後の日本経済を牽引し、リーダーシップを発揮した人々が大きく影響を受けた各界のリーダーを知る1つの目安になるのは間違いないとも思い、まとめてみました。
(1)経済人の場合
順位回数氏名:132松下幸之助、永野重雄、229石坂泰三、327小林一三、松永安左エ門、426渋沢栄一、中山素平525稲山嘉寛、623佐藤喜一郎、722小林中、土光敏夫、821鮎川義介、920渋沢敬三、1019池田成淋、伊藤忠兵衛、植村甲午郎である。
苦労人で面倒見のよい松下幸之助と永野重雄がよき相談役としての筆頭に挙げられている。意外に思えたのは、明治初期の国立銀行や基幹産業および教育などに多大な貢献をして子爵となった渋沢栄一は第3位であり、また、東芝の再建や経団連会長として財界総理として評価の高かった石坂泰三は、新日鐵の永野重雄のそれに及ばなかった。
その理由を私なりに考えてみると、渋沢栄一や石坂泰三は政府系の仕事や産業全体の仕事が多く、企業単位の個人的な相談ごとは永野重雄や松下幸之助に及ばなかったのではないだろうか。特に倒産寸前までいき、夜逃げの苦渋を味わっている永野には相談に来る相手に適切な助言をすることができたからなのだろうと思った。