私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

売る価格から大衆が買える価格に

 樫尾の4兄弟の存在は業界でも有名で、長兄の忠雄は主に財務担当、次兄の俊雄は開発担当、三男の和雄は営業担当、四男の幸雄が生産担当し、この兄弟の協働が事業を急成長させる原動力となった。
 大正6年(1917)に高知県で生まれた樫尾忠雄は、早稲田工手学校(現:早稲田大学)で技術と知識を習得し、昭和21年(1946)樫尾製作所を創業して社長となる。そして、電子計算機、電卓、デジタルウォッチ、電子楽器、デジタルカメラなど低価格で販売し、一企業を大企業に発展させた。
 しかし、昭和35年(1960)後半から昭和45年(1970)代にかけ、苦難の時代がやってくる。日本では電卓(電子式卓上計算機)産業が盛んになり、最盛期には参入企業が50社以上に達した。各社入り乱れての開発競争、価格競争があまりにも熾烈であったため、「電卓戦争」と呼ばれたときであった。
 昭和39年(1964)、シャープが先陣を切って電卓を発売したときの値段は53万5000円で、重量は20kg程度と重く大きなものであった。当時の大卒者の初任給が2万1500円という時代である。それから5年で、トランジスタ、IC化、LSI化され、部品点数が少なくなるにしたがって、小型化、軽量化、低価格化が進み、電卓の値段は10分の1にまで下がった。
 当時、電卓市場はビジコン、システック、カシオなど専業メーカー5社のほかに、日立、東芝、ソニー、リコーなどの総合電機、家電、精密機械メーカーなどが参入し、OEM(相手先ブランドによる生産)専業メーカーなどを入れると、50社近くが競争していた。
 5万円を切る電卓を発売したのは、立石電機(現:オムロン)だったが、それまで電卓は企業と官公庁の需要先だけが利用する業務用であった。
 それを一般大衆に算盤がわりに使ってもらいたいと考えたのが、樫尾であった。5万円を切れば個人でも電卓を購入でき、市場は一気に拡がると読んだのである。
 チャンスと到来として、1万円電卓を実現するために、機能も最小限に絞って開発したのが1チップ6ケタ計算の「カシオミニ」だった。
「企業が買う」価格から「大衆が買える」発売価格は1万2800円。このカシオミニが大ヒットし、カシオの業界地位を固めることになった。この後も電卓の小型軽量化、半導体技術、生産技術、省力化、低価格化など、あらゆる面で行き着くところまで行った結果、電卓業界に残ったのはシャープとカシオだけだった。
 アメリカではもっぱら軍事・宇宙開発に使われていたICを、日本では電卓という民生用に大量に使い、半導体産業を育て、同時にマイクロプロフェッサや液晶ディスプレイを生み出したことは、コンピュータの歴史に大きな影響を与えた。
 彼はこの熾烈な価格競争を勝ち抜く逆転発想の原点を、次のように証言している。
「いま・改めて電卓戦争を振り返ってみて、よくぞ開発でリードし続けられたものだと思う。新製品の開発を始めて、まず設計図が出来上がる。そのまま、生産の準備にかかるのでは、競争に勝てない。出来上がった設計図をもとに、『部品の数をもう二割減らせないか』『値段をもう三割安くできないか』とい具合にもう一度設計し直してコストを下げる。それを半年ごとに、場合によっては三カ月おきにするのだから、しんどい話だった。
 しかし予想に反して、電卓の値段が四万円を切るところまでいっても、個人は買ってくれない。これは、何か発想を変えないと無理だぞということになった。では、いくらだったら個人が買ってくれるかー。私たちは発想を逆転させた。
 四十六年当時、大学出の初任給は四万円前後だった。その四分の一、一万円ならなんとか買ってもらえるんじゃないか、と開発部門の若手が言い出した。全くのカンだったが、彼らの金銭感覚が一万円なら、と言わせたのだろう」(『私の履歴書』経済人28巻 305p)
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この文章を読んだとき、商品の市場価格を決めるのにここまで努力しなければ通用しないのか、と驚いてしまいました。
 メーカーは価格の決定権をもち、利益を流通業よりも多く得られますが、競合他社との熾烈な価格競争に加え、消費者に受け入れられる価格にまで引き下げ、生き抜くことは大変です。「価格決定は企業経営そのもの」と言われますが、この価格決定で企業の浮沈が決まるのもよく解ります。
 さらに現在は国内だけでなく、海外企業との競争もありますから、なおいっそうの開発力・技術力が要求されます。


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