私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

営業体制の在り方

武田は「創業家の厄介な三男坊として社内でも鼻つまみ者であった」と述懐するが、思いもかけない人生の転機から社長となり、古い体質の老舗企業を世界企業に大成長させた。

昭和15年(1940)、兵庫県生まれの武田は、同37年(1962)甲南大学を卒業し、武田薬品に入社する。同39年(1964)フランス、イギリスに留学するが、同48年(1973)食品事業部に配属となる。
昭和53年(1980)、父親の6代目・武田長兵衛が後継者として最も期待していた長兄の彰郎が46歳で急逝した。それまで、会社でも傍流の事業部に預けられ、部屋住みのように扱われてきた武田に、長兄の死から13年後の平成5年(1993)、社長のお鉢が回ってきた。
医薬事業本部の本流ではなく、研究所や食品事業部、海外事業部など傍流ばかり経験していたため、彼には老舗会社のダメなところが手に取るようにわかっていた。
創業200年にもなる老舗企業は、いつしかぬるま湯の中での仲よしクラブや、部門エゴにうつつを抜かし、上司に追従する社員しか出世しない体質になっていたのである。万事ドンブリ勘定で、責任の所在などあってないようなものだった。
そのため彼は、日本の製薬企業で「トップだ」と威張っていても、世界を見渡せばけし粒みたいなものだ、という辛らつな認識をもっていた。
そこで、医薬事業部長になってすぐ全国の支店を回り、ぬるま湯的体質やドンブリ勘定感覚を指摘し、改革していく。
そのとき彼は、営業体制について次のことを痛感し、「営業体制の基本は営業と研究開発の一体化」という組織づくりを実行していく。
「支店長に『ここの利益は』と尋ねると『売り上げはつかんでいますが、利益についてはざっとこんなものだろうという数字しかありません』と平然としている。金銭感覚のないことおびただしい。
利益が増えたら何が貢献したのか、減ったら何が足を引っ張ったのか、これまたあいまい。すべて惰性で動いている無責任組織に映る。だいたい営業計画は事業部内の一応の高い目標と、会社に提出する安全な計画の二通りあると言うのだからおかしい。
もっと大きな問題があった。医薬品事業にとっての生命線である研究所だ。まるで象牙の塔にいるかのように論文を書くのに忙しく、企業の研究所として最も大事な売れるくすりづくり、『創薬』という意識がないのだ。
質量ともに国内最高水準のスタッフを抱え、しかも潤沢な研究開発費を投じながら目立った新薬が出ない。研究のための研究というわけだ。この非効率な研究体制を他社から〝武田病〟と揶揄されていた。
知れば知るほど危機感が募ってくる。これが大企業病かと思った。この体質、風土を打ち破らないと、グローバルな競争相手ととうてい戦えないと痛感した」                     (「日本経済新聞」2004.11.22)

武田は営業と研究開発の一体化を成功させたのち、全社の機構改革を次々にやってのけ、世界企業へと大成長させた。
平成15年(2003)、会長となるが、21年(2009)に退任し、相談役や顧問にも就かない潔さで見事に引退する。
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武田は創業家出身のトップになったため、歯に衣を着せない表現で内情をさらけ出し、大改革を成し遂げた。それにしても型破りのすごい経営者で、サラリーマン経営者ではなかなかここまでできない決断と実行が「履歴書」では随所に見られました。


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