私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

名誉挽回は急いではいかん

1919年神奈川県生まれ、1940年上海にある官学校の東亜同文書院を卒業し、同年大同貿易(丸紅の前身)入社。主に食糧畑を歩いたが、経済界きっての中国通で知られ、中国との様々な商談を手掛け、丸紅の対中ビジネスの礎を築いた。また、アジアを中心とする海外と日本との橋渡し役として、数多くの国際会議やミッションに参加し、交流に貢献した人物である。

彼は東亜同文書院の学生時代から、中国各地を旅行し中国人の生活や文化に親しんでいたので卒業後も、東南アジア、特にフィリピンに強い営業基盤を持っていた大同貿易に就職する。最初の任地はマニラ支店で仕事は通信係りであったが、仕事の合間をみては華僑の実態について勉強をしたのが、後に大いに役立つことになった。
フィリピンは当時、米国の支配下にあり、マニラ麻、コプラ、砂糖、鉱山物などを主要産物として世界中に輸出していたが、この時のマニラ支店は年間で大同貿易の資本金(4百万円)にほぼ匹敵する利益をあげていた。彼も一員として大活躍していたが、昭和16年12月8日太平洋戦争が始まり、陸軍報道部員として徴用された。そしてフィリピンの地域や内情をよく知っている人間としてマニラ司令部に派遣された。彼は華僑対策に従事し華僑から軍に対し協力ももらうことができたが、この期間にフィリピン華僑論をまとめあげていた。

戦後、食料・油脂関係の仕事に就く。国内の菜種、魚油の買い付けに全国を歩く。食糧難でもあったので買い付ければ売れる時代でもあった。そして昭和25年(1950)6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、国際商品は一挙に値上がりしたが、翌年に入って停戦の兆しが出たとたんに反転し、ガターンと半値に下がってしまった。四苦八苦の努力をしたにも関わらず、結局、彼の担当部は2億5千万円の損失を出してしまった。この損失は当時の丸紅本社の資本金が3億円だったので、上司から始末書を出せといわれ、彼は大阪本店の油脂課長でもあったので、「損失を招いたおわび」としてこれを提出した。

ところが後日、副社長から「本日の役員会で君の懲戒解雇処分を決定した。ただし情状を酌量して即日、嘱託に採用する」と宣告された。彼は驚愕し「会社に迷惑をかけたことには十分責任を感じるが、法規、社規に違反したわけでもなく、まして不正は何一つない。相当の覚悟はするが、サラリーマンにとって極刑の懲戒解雇は納得できない」と食い下がった。彼は会社には持論を展開して粘りに粘ったところ、6ケ月後に一応処分は取り消された。
処分は撤回されたとはいえ、昇給は同期から大幅に遅れ、ボーナスももらえなかった。身の不遇を嘆き、会社の片隅でしょんぼりしているとき、自宅の近所の人で仏教の熱心な信者の人が、次のような助言をくれた。

あわてちゃいかん。名誉を挽回しようと急いではいかん。こういう時はじっとしていることだ。そうすれば必ず運は後からついてくる。じっとしていれば運が君の肩に乗る。乗ったら走れ。

この助言どおりに焦らずに時期を待つのはつらかったが、その「運に乗る」捲土重来の時期が来た。翌昭和29年に日本の食料事情の悪さを考慮した中国から「配慮物資」として、中国産大豆10万トンの輸入契約に成功した。これが食品業界から大変喜ばれ、期待以上の利益もあげることができ、以後彼の大活躍が始まったのであった。「名誉の回復は急いではいかん」の教訓が生きたのでした。


Posted

in

by

Tags: