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明治31年(1898)熊本県生まれ。大正10年(1921)東京高商卒、東京瓦斯入社。現場営業部門を経て、昭和19年(1944)勤労部長。戦後志願して荏原所長。同22年(1947)常務、同26年(1951)副社長、同28年(1953)社長、同42年(1967)会長、同56年(1981)死去、83歳。戦後の首都圏の都市ガス整備を行なった。
*大正10年(1921)東京高商を卒業したが、第一次世界大戦後の好景気の反動で日本は深刻な不況に見舞われていたので、就職難であった。やっとの思いで本田は東京瓦斯に就職する。そして営業係りとして現場のガスの新設や増設、それに検針などを経験する。その後、都下の営業所長を数箇所経験して、昭和19年(1944)に勤労部長となった。そして、戦後の昭和20年(1945)には東京瓦斯産業労働組合ができ、その組合が会社に待遇改善の要求を提出してきたのであった。
しかし、第二次世界大戦で首都圏のガスは壊滅的な打撃を受けていた。戦時中百六万件を越えた需用者も三十数万件に激減したうえに、戦災によるガスの漏洩率が50数パーセントにも達していて、毎月赤字の連続だった。要求をうけいれることは、さらに赤字を重ねることにほかならなかった。
彼が、従業員の生活を調査してみると、ほとんどが飢餓線上にあって、食うや食わずの生活であることも判り、「要求も当然である」と思った。そこで彼は会社と組合の板ばさみにあって悶々としたが、組合幹部と対策を協議し、「ガス漏れを防ぐことによって浮く分を待遇改善に回す以外にない」という結論に達した。そして、そのときの団体交渉を次の如く感動的に語っている。
「やがて北林労組委員長が太田社長の前で決議文を読み上げる日がきた。「着るものは破れ、はくものは損じても漏洩防止は断じてやりとげます。その代わり会社はどうかわれわれ妻子が食えるだけの待遇をして下さい」。一語一語をうなずくように聞いておられた老社長の目がしだいにうるんで、ついに要求はききいれられた。
会社は赤字に赤字を重ねる待遇改善をうけいれたが、同時に金では買えない従業員の尊い協力と献身の気持ちを買ったのだ。この美しい光景をみて私は感激にふるえた。これで会社百年の計が成ったというような気がして、あふれ出る涙をとめることができなかった。いまから考えると、これが東京瓦斯の戦後の労使関係に一つの伝統を形づくった、と言えると思う。」(「私の履歴書」経済人十一巻:114p)
この直後から、労使協調でガス洩れ改善に邁進する。彼も国民服にゲートルばき、腰には手ぬぐいをぶらさげる格好で現場の陣頭に立った。当時はガス漏れを発見する機械もなかったので、荒ばくたる焼け野原を犬のようにはいつくばってにおいをかぎ回って漏れている個所をみつけては印をつけた。
そのころはGHQの命令で、一般へのガスの供給は午前五時から同七時までの二時間に限られていたので、この時間がすぎると印のある地点を掘り返して工事をした。いわゆる栄養失調時代だったから、立っているのがやっとという人もずいぶんいたが、人の一心はおそろしいもので、四カ月後の七月には漏洩率は30%も減って20%台になった。総動員はみごとにその実を結んだ。そして、それによる増収分はベースアップに充てられたという。