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小倉は、企業など法人対象の貨物輸送に見切りをつけ、家庭にいる個人対象の宅配便を開発する際、当時の運輸省や郵政省と闘った経済人として、また、引退後は福祉事業に尽力している信念の人として有名である。
大正13年(1924)、東京都に生まれた小倉は、昭和22年(1947)に東京大学を卒業する。同23年(1948)、家業の大和運輸(のちのヤマト運輸)に入社するが、創業者の父親が脳梗塞で倒れたため、昭和46年(1971)、46歳で大和運輸の2代目社長に就任した。
しかし、営業部長時代に近距離・小口貨物輸送にこだわった父親を説得し、長距離・大口貨物に切り替えたが、経常利益率は下がる一方だった。加えて同48年(1973)の石油ショックで荷動きが急激に落ち、最悪な事態に追い込まれていた。
そこで抜本対策として「全国どこへでも、どんな量の荷物でも運べる会社」というコンセプトの運送会社像を模索していたところ、その第一のヒントを吉野家の牛丼商売に見出したという。
吉野家が、牛丼メニューを絞り込んで利益を増やしたことを大和運輸に置き換え、取扱荷物を絞り込むことに思い至ったのだ。
第二のヒントは小口荷物を送る場合、当時の国鉄(現:JR)小荷物や郵便小包などは面倒で日数もかかり、特に主婦たちが不便な思いをしていたことだった。
第三のヒントは日本航空が売り出していた「ジャルパック」である。航空券、市内観光など、旅行に必要なすべてをパッケージにし、誰でも安心して海外旅行ができるという、「旅行の商品化」だった。
小倉はこれらのヒントを総合的に考えたうえで、会社コンセプトを具体的な商品化計画にまとめ上げ、次のように解説してくれている。
「客は主婦だから、サービス内容は明快でなければならない。地域帯別の均一料金、荷造り不要、原則として翌日配達、全国どこでも受け取り、どこへでも運ぶ。目指すサービスの方向性が見えてきた。頭の中で商品化計画が固まっていくのは楽しかった。(中略)
宅急便の商品化計画で最も重視したのは、『利用者の立場でものを考える』ということだった。主婦の視点がいつも念頭にあった。
例えば、商業貨物では距離に比例して運賃が高くなっていくが、宅急便ではブロックごとに均一料金とした。東京から中国地方行きなら、岡山も広島も同じ料金。どちらが遠いのかなど主婦の関心事ではない。分かりやすさを最優先した。
山岳地帯や離島でも割増料金を取らないことにした。割り増しにしたら『ウチの親せきは好んで山や島に住んでいるわけではない』と不公平さを感じる主婦も出てくるだろう。コモンキャリアーを目指す以上、あまねく公平なサービスを提供するのが義務だと考えた」(『私の履歴書』経済人三十七巻 130、133p)
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この、取扱商品の絞り込み方、窓口の至便さ、商品のパッケージ化、価格の単純化などは、顧客志向の好例です。会社都合(プロダクト・アウト)ではなく、市場ニーズを形成する顧客志向(マ-ケット・イン)を重要視したものです。
この事業コンセプトにより、小口宅配便は急成長する事業に育ったのでした。