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広島県生まれ。東京大学卒業後、内務省入省。1945年4月から8月まで内務次官。戦後衆議院議員。厚生大臣、文部大臣(6期も努め文部の灘尾と言われた)、衆議院議長。
灘尾は1945(昭和20)年4月に内務省次官に任命された。直後に「国民義勇隊」の組織づくりを全国の知事の協力を得て行う体制となった。
ところがこの組織ができるにしたがって、軍部をはじめ各方面の関心が高まり、この総司令官に当時の単一政党であった大日本政治会の総裁・南大将を迎える話が出た。灘尾は内務大臣と一緒にこれを断った。灘尾は国内が物資の不足でどんどん疲弊している情況下で、次のように証言している。
「終戦直前に内務省が手がけた『国民義勇隊』は、未曾有の困難が日本に押し寄せるのを予想し、それに対処するための最後の国民の動員組織であった。戦場にすべてを駆り立てようとしたのではない。
地方では、所によって曲解され、竹ヤリ訓練あるいは軍事教練の真似事をするようなじたいはあったが、私どもの真意はそんなところにはなかった。勤労総動員的なもので国民の力を結集する純粋なものであった。(中略)
身びいきに聞こえるかもしれないけれど、なんとか戦争が続けられたのは、明治から培われた県庁などの行政組織があったためと思う。全国の人たちが、県庁を中心に一致団結して動くという体制があったればこそ、どうやらやっていけたのであろう。
しかし、ありとあらゆる統制法規がどんどん出されても、地方ではそれを消化するだけの力はなくなっていた。県庁ではどうやら処理できても、町村役場に回ったころは、通達は積んで置かれるだけになっていただろう。統制経済といっても、裏の方では自由経済であった」
「統制経済といっても、裏の方では自由経済であった」とは、日本経済全体が疲弊していて、食料も一般の生活物資も欠乏していた証拠だから、天皇の戦争終結のご聖断は、国民を救ったことになる。国民義勇隊は玉音放送がされた1週間後の8月21日に閣議で廃止が決定され、同年9月2日に解散された。