私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

二度の大病で動物的な勘が

1911年、和歌山県に生まれる。1933年、兵庫県立神戸高等商業学校卒業後、野村證券に入社。戦後は、1949年取締役大阪支店支配人となり、1968年11月に社長に就任するまで瀬川美能留社長とのコンビで公社債市場から株式市場への資金調達を主流に成長させ、野村證券の発展に大きく寄与した。1978年には当時54歳の田淵節也に社長職を譲り、自らは会長となった。

彼は16歳の時、神戸高等商業学校に入学する。その当時、予科一年、本科3年の四年制高商は、神戸高商(現神戸大学)、東京高商(現一橋大学)の二校であった。予科を終え、本科一年に進んだ夏の終わりごろに突然、大喀血を起こす。校医の診断は結核であり、「君の生命はあと半年」と宣告された。当時の結核には薬はなかった。自然療法、安静療法だけであったので、光と水と空気のみで立ち向かった。しかし、母親の献身的な看病もあり、この肉の一片は母のため、この一片は自分のためと自分に言い聞かせ療養に努め、二年半で療養生活を終えることができた。この療養中に、神戸高商は神戸商業大学となり、彼の復帰すべき学校がなくなっていた。そこでこの有名校の名を引き継いだ県立高等商業学校の専門学校(現兵庫県立神戸高等商業学校)に当時の神戸高商の校長らが彼の才能を惜しみ推薦状を書き、転校することができたのだった。

野村證券に入社後、広島支店勤務から昭和13年(1938)大阪支店への転勤となり新設の株式係りに配属された。ここの上司に奥村綱雄瀬川美能留がいて、この黄金コンビで野村證券の基盤を築くことになる。時代の要請で、今までの公社債資金調達だけでなく、株式市場を通じての資金調達が重要視されるようになり、株式市場が活況を呈するようになっていた。このため、株式係りが株式部に昇格、本格的な株式業務への進出となったのだった。

問題は、昭和19年(1944)秋、彼が順調に業績をあげていたとき、二度目の大喀血に見舞われる。妻と子供を実家に預け、彼は和歌山の生家に身を寄せ、再び水と空気と光のなかで、半年におよぶ自炊と禁欲生活が始まった。何もすることがない。山の中腹に寝転んで、遠くの平野を眺め暮らす毎日だった。頼山陽の「日本外史」21巻、「里見八犬伝」など父の残した古書を読んだという。
そんなある日、はるか向こうの山の端に黒点が見え、だんだん近づいて来る。勘でこれを女だと定めて見ていると、近づくにつれ女である。男だと定めて見ていると男になる。この勘が百発百中当たるようになった。禅僧が深山にこもり、独坐して心魂を練るという理りも、ここにあると思った。この心境を次のように述べている。

人間、半年も禁欲、独坐すると、まず動物的な勘が鋭くなる。ついでこの勘は、社会的な勘に移っていく。昭和20年の春、鈴木内閣成立を見て、これで戦争は終わりだなと、ピーンときた。

戦後大阪支店に復帰し、彼は陣頭に立ち街頭に繰り出して民衆に新株の引受先を呼びかけた。そのときの反響がすばらしかったので、勘を働かせ「投資家大衆は街頭にあり」と確信した。これは、二度目の大喀血で失意の時、「古典の読書と坐禅」で得たものだった。これで得た自信から、この後いち早く百貨店内に投資相談所を設け、臨時資金調整法による丙種扱いの業種で、借り入れ、社債発行がほとんどできない百貨店に協力、わが国初の公募転換社債を取り扱ったのは、大阪支配人時代だった。また、東京オリンピック開催後の昭和40年不況以降、婦人証券貯蓄、従業員持ち株制度や財形貯蓄など、一連の累積投資業務で野村證券が業界トップの座を固めたのであった。


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