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彼女は長らく上方漫才・喜劇界をリードした関西を代表するコメディアンであり女優。民間ラジオ放送草創期の人気番組『漫才学校』『夫婦善哉』の司会などで知名度を高めた。
1920年(大正9年)現・東京都中央区日本橋小伝馬町)生まれた。父は芸事が好きで新内節を唄い、寄席芸人を招いては宴を楽しむ趣味人だった。1927年(昭和2年)家具屋をたたみ、父親の思いつきで芝居一座を結成し、娘の彼女が座長になった。
彼女は苦しくてつらい想いを正直にこの「履歴書」で告白している。早くから舞台生活を送ったため、十分な教育を受けられなかった。早熟で駆け落ちを16歳でして失敗、落語家から漫才に転向し人気を博していた三遊亭柳枝師匠と結婚するも師匠の女癖の悪さから協議離婚。
こんなときは仕事もうまくいかない。疲労困憊していた昭和22,23年頃は、覚醒剤を疲労回復薬としてどこの薬局でも売っていたので、芸能人や受験生も気軽に注射をしていた。そこで彼女が気軽に始めるとあっという間に深入りし1日40本もうち、そのせいで眠れないと睡眠薬にも手を出してしまった。
こんな状態ではどの劇場も使ってくれず、仕事もまったく無くなり、どん底生活が始まった。その間に症状が次第に悪くなり、ちょっとした音にもびっくりし、電車の中でも道路でも、泡を吹いてひっくり返るようになった。時には舌を噛んで血の泡を吹く状態となっていたという。そこで父親や周りも彼女が極度の覚醒剤依存症になると放って置けなくなり精神病院に入院させたのだった。
その夜から禁断症状が襲ってきた。薬が欲しくてたまらない。眠れないし、胸苦しくて吐き気もする。入院したての患者は禁断症状で暴れるらしいが、私は必死なって我慢した。芸人としての誇りからだった。(中略)いっそ死んでやろうと、病院の中をさまよった。鉄格子にひもをかけようと思ったが、高いところにあって届かない。低いところはちゃんと看護婦さんが見ている。
ひもがかかるような角はすべて丸く削ってある。トイレも下半身は隠れるが、上半身は見えるので自殺など出来ない。よく行き届いているなと、妙なところで感心した。
結局、死ぬのをあきらめて、食べては寝、寝ては食べる毎日に戻った。この規則正しい生活のため、やせ細って30キロほどしかなかった私の体も、自分でわかるほど太ってきた。
彼女は比較的軽症だったので入院して20日程度で退院できたが、病院で重症の人の禁断症状やうつろになった顔を見て、つくづく薬物依存の恐ろしさを思い知った。「必死なって我慢した。芸人としての誇り」から二度としたくない、人にもさせたくない気持ちから、このように自己の暗い人生を正直に告白してくれたのだろう。ここを起点にして彼女は立ち上がったのでした。
このとき彼女の付き人になっていたのが鈴木(南都雄二)で、実質二人が夫婦になっていたため、漫才コンビを組むことになった。その後も曲折はあるが、ラジオやテレビの人気番組『漫才学校』『夫婦善哉』の司会などで人気を博し、映画や舞台で幅広い演技と芸風で多くのファンを魅了した。薬物依存の恐ろしさを家庭や職場の周りの親しい人が本人に忠告し、早めに医療機関や保健所など相談機関を利用して欲しいものです。