私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

主張から傾聴へ

 青木は東電社長のとき、政治献金の廃止を決めた。それを発端に、政府から冷遇を受けたため、その責任を取って1961年に会長に退き、木川田一隆にあとを託した。青木は国家公安委員長、日本社会人野球協会の会長も務めた。

 明治31年(1898)静岡県生まれの彼は、一橋大学を出た大正11年(1922)、未来の「毛織物王」を夢見て東京毛織に入る。1年後、抜擢され販売課に毛織部を新設する。
 いかにコストダウンするか研究熱心のあまり、工場内部に入っていき、工場長、技術者、現場担当職長などに直接話しかけて解決策を研究し、問題点をどしどし常務に報告した。常務はそれを元に工場長などを詰問するため、青木は現場からは迷惑がられた。彼の仕事熱心さが、逆にたくさんの敵をつくることになったのだ。

 関東大震災(大正12年)後、鈴木商店が東京毛織の経営に参加することとなり、毛織部の彼は失職する。そして小規模な日本陶管に入るが、1つしかない愛知の田舎工場に赴任させられてしまう。
 しかし心機一転し、朝早くから工場に行って職長たちと親しみ、夜は彼らを茶菓でもてなし、話を聞いた。経営の核心を知るために、原価計算も研究した。彼のこうした仕事ぶりは、職長たちからも「今度の人は前の人たちとは違う、話のよくわかる人だ」とほめられ、周囲から好感をもって迎えられた。
 青木はこの工場へ来て以来、いっさい自己主張せず、ひたすら人の言うことを聞いた。それがかえって彼の信頼を増し、人望をつくることになった。彼は自分の今までの失敗の原因を理解し、克服して大きな収穫を得たのだった。
 この気づき以後、昭和3年(1928)品川煉瓦支配人となり、同13年(1938)には社長に選ばれる。そして同26年(1951)電力再編成のときには東京電力取締役に迎えられ、同33年(1958)に社長になった。後年、彼は当時の心境を次のように語っている。

 「いままでは自己を主張しすぎて、人にいれられなかった。こんどは人のいうことを聞くことによって、自分というものをうけいれられた。いままでは事ごとに敵をつくったが、こんどはことごとく味方となった。世の中とはこうしたものだ。自分一人で生きているものではない。大勢の感情のあつまりが世の中だ。しからば自分の意見を通そうと思うなら、まず聞いてやるのが順序だ。こうして私は半年足らずして、胸中の悶々たる思いをぬぐいさることができ、ふたたび世の中に希望を持つようになった」(『私の履歴書』経済人四巻 237p)

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 日本社会では「和の精神」を尊ぶ傾向がありますから、ビジネス社会でも、まわりに配慮した自己主張が必要となります。
 私の場合、同期入社に営業成績が抜群の人物がいました。彼の家庭が事業をやっていた関係で、彼は商売のやり方、人との接し方が同期や1、2年先輩よりはすぐれていたのです。
 彼は自分の商売のやり方、取り組み方を先輩や上司に採りいれるよう強く進言していました。「この方法は、会社にとって良かれ」と思っての進言ですから、正義感に燃えて行動したのです。
 しかし次第に上司や先輩からは疎んぜられるようになり、異動が繰り返され、ついに彼は会社を去ってしまいました。会社は彼の才能を生かし切れなかった損失、彼は自分の才能をうまく組織の中に生かせなかった損失が残りました。


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