私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

上司の度量

岡崎は戦後、池谷鉄工、丸善石油の社長として再建に貢献した。昭和27年(1952)、恩師の美土路昌一の要請で民間航空会社の日本ヘリコプター(現:全日空)設立に協力して、同社の取締役となる。
 昭和36年(1961)全日空社長に就任し、37年に訪中、「日中長期総合貿易に関する覚書」(通称:LT協定)によるLT貿易では中心人物になり、日中国交回復実現にも多大の貢献があった人物である。
明治30年(1897)岡山県生まれの岡崎は、大正11年(1922)東京大学を出て日銀に入るが、昭和14年(1939)、上海に渡り終戦まで在留した。
入行間もない昭和2年(1927)の金融恐慌のとき、彼は日銀本店の営業局勤務だった。静岡の新池田銀行から3万円の特別融資申入れを調査役と相談のうえ、受入れてしまった。
 ところが、決済を求めて池永局長に書類を出すと不許可だった。そのまま帰宅した翌日曜日、「局長も委員会も判を押さないものを貸してしまった、大責任だ」と思うと、さすがに心配になり、食事ものどを通らない。胃が重苦しくてやりきれなくなった。
 思い詰めて尊敬する先輩に相談に行くが、重病の奥様を看病している病院の病室では切り出せず、あきらめて帰宅してしまう。夜、ついに退職の決心をして辞表を書き、翌日に備えた。
 次の日、池永局長にこの案件処理を聞かれ、「貸してしまった」と言うと、「そうか、貸したのか、貸したのならいいじゃないか」と言い、あっさり判を押してくれた。
 岡崎はそのとき、3日間の進退問題の悪戦苦闘を振り返り、辞めずにすんだというだけではなく、心が救われた感じがしたという。彼はこのときの経験を、次のように教訓として肝に銘じている。
「あのときの永池さんの態度は、生きた教訓として私の一生を大きく左右しています。辞表を書くまでに参っている人間を暖かく包んで希望を与えて下さる態度が、自然ににじみ出ていたのです。間違ったことをした人間に勇気を与え、より向上させてやろうというやり方は、ことばで聞いただけではどうもわからないようです。私は自分で大きな体験をしたものですから、会社の若い人が失敗したようなときには、その体験をもとにしかれるわけです。またこの体験が、今日まで大きな失敗なしに過ごせ、多少でもお役に立つ仕事をさせてもらえる一つのカになっていると思います」(『私の履歴書』経済人10巻 414p)
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 このエピソードに似た経験を、私ももっています。
 営業所長のとき、一定の市場を早期確保するため予算申請をしますが、回答期限が過ぎてもなかなか許可がありません。周囲の状況もあり仕方なく予算の先行投資を部長決裁が下りる前に実行したのです。
 ルール違反ですから、実績が出なければ辞表を覚悟していました。そのときの部長が「おれの決済が遅れたから、責任の半分はおれにある」と言って、不問に付すようまわりに掛け合ってくれました。
 このとき私は、「同じ間違いはするまい。この上司について行こう」と固く決心したのでした。上司には、部下を包む度量があってほしいものです。


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