一歩下がって努力

日本を代表するコメディアンである。タレント、司会者、ラジオパーソナリティー、演出家。日本野球連盟、茨城ゴールデンゴールズの初代監督でもある。
彼は1941年東京で生まれる。高校卒業後にコメディアンを志した。浅草の演芸場からストリップ劇場に移り、裸の踊り子が交代する空き時間を埋める存在だった。紆余曲折を経て、1966年に以前から面識があった坂上二郎と「コント55号」を結成し、舞台上を所狭しと縦横無尽に駆け巡るコントで一気に人気者になる。


彼は小学校では級長をしていたが、強い生徒の後ろに隠れたり、女の子と遊ぶような少年だった。引っ込み思案の性格であったが、あるとき、授業で勢いよく手を挙げたのはいいが、答えを思い出せず、「え~、わかりません」と行ったところ、どっと笑いが起きた。それがなんだかうれしくて、何度もやった。そのうちに「笑われる」から「笑わせる」性格に進化していったという。


しかし、コメディアン修行を始めて3カ月ほどたったとき、演出家から「君は才能がないからやめたほうがいい」と言われて落ち込み諦めようとした際、親切な仲介者が演出家を説得し、「大丈夫、演出の先生に言ってきた。ずっといていいよ」と彼を引き止めてくれた。その後、先述の演出家から「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する。もしかしたら、お前を止めさせないでくれという応援者がいるはずだ。お前は成功するから頑張れ」と激励された。そのとき、彼の芸の水準に、はっと気づく。

僕はだめな男なんだ、才能がないんだ。優れた人はもちろん、普通の人より一歩、いや二歩下がったところから人一倍、努力しなけりゃいけないんだ。光るものがないなら、誰もやらないことを地道にやって先を走る人たちをじわじわと追いかける。それしか方法がないんだと覚悟を決めた。

この「誰もやらないことを地道にやる」気づきの以後、誰も居ない劇場で早朝8時から大声を出す練習をし、先輩芸人の芝居を一人で演じるなど毎朝休まず何度も必死で繰り返した。そうしているうちに思いのほかチャンスが訪れた。主役の先輩が体調を崩して休演、その代役を彼が抜擢されて彼の躍進が始まることとなった。


以後、70年代後半以降は坂上二郎とのコンビを解消し、それぞれの活動に専念した。そして80年代に一般人の出演者や欽ちゃんファミリーへの「素人イジリ」を武器に『欽ドン!良い子悪い子普通の子』『欽ちゃんの週刊欽曜日』などヒット番組を多く手がけ、出演する番組3つの合計で「視聴率100%男」との異名をとる人気者となった。
いじめられても諦めず真面目に努力・精進をしているとどこかで誰かが見てくれている。このチャンスを生かすことで自分に自信がつき、次の飛躍へと結びついたのでした。彼の控えめな性格と恩人への感謝と行動は周りの人たちの多くの応援を貰らって成功となった。