「瞼の母」の誕生秘話 ふたりの実話から 役者・島田正吾

島田は新国劇の大黒柱・辰巳とは「動の辰巳、静の島田」と好対照のライバルとして一世を風靡した。神奈川県生まれ。1923年(大正12年)に明星商業学校を中退後、澤田正二郎が率いる新国劇に入団。正二郎の急死後、辰巳柳太郎と共に主役級に抜擢され、劇団を解散するまで新国劇の大黒柱として活躍した。

彼は、優しかった生母が8歳のとき病死した。やがて継母が来てくれ我が子のように可愛がってくれた。しかし、この継母は彼と同い年の男児を前の婚家に残しての再婚であり、残してきた実子への思いで彼に愛情を注いでくれたのであった。
彼が12歳のとき、父親が死ぬと継母は家を去り消息を絶った。彼は天涯孤独となり、この母親を求めて涙にくれた経験を持つ。そして後年、彼が役者として名が出てきて『瞼の母』を演じたとき、実子に伴われてこの母親が芝居小屋を訪ねてきた。そのときの感慨を次のように書いている。

「私はこの芝居を演じるとき、ひとりでに足がわなわなと震えてどうしようもなかった。芝居が終わり、出口で対面したとき『お前、いい役者になったねぇ……』と褒めてもらったことを、千の劇評でほめられたように嬉しく感じた。」

また、彼の舞台の初演時、原作者・長谷川伸が来てくれ、2階の桟敷席から食い入るように観ていた。彼は忠太郎になって演ずるとき、芝居と現実がダブってしまい、涙ながらの演技となったという。

「2階を見上げると伸先生も豆絞りの手ぬぐいでなんべんもなんべんも涙を拭われた。それを見ると芝居半ばで、危うくセリフを絶句しそうになった」

と書いている。この描写を読んだとき、2人の実話に感銘していた私はこのシーンが目に見えるようで、思わず涙ぐんでしまった。両者の「私の履歴書」を読むことで知り得た、素晴らしい発見でした。原作者・長谷川が「履歴書」最後のページにいろいろな深い人生経験の中から次の「瞼の母」の人生訓を残している。

親に死なれた子には「血の濃さよりも優れた愛情の方が濃いのだ」と。「別れた親に会いたい子は人らしい人間になって待つのだね、別れた子に会いたい親は人らしい人になっていてやるのだね」と。