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「瞼の母」の誕生秘話 ふたりの実話から 原作者・長谷川伸

神奈川県生まれ。実家が没落したため小学校3年生で中退。住み込みの使い走り、人足として働く間に、港に落ちている新聞のルビを読んでは漢字を覚えた。大工や石屋の見習いなどを経たあと、新聞社の雑用係として入社。横浜毎朝新報社、都新聞社の勤務後、作家活動に入る。「股旅物」というジャンルを開発した。
原作『瞼の母』のクライマックスは、実は彼の亡妻と父親の実話から生まれていた。特に、この亡妻と父親の対面した場面の描写は次のように迫力がある。

「亡妻政江には『瞼の父』があった。6歳のとき、生まれてそれまで育った、信州木曾の村を母と共に逐われて出た。その村の名家で豪農の当主の子に生まれながら、亡妻は、駐在所の巡査の子として戸籍に登録されていた。大正10年秋、彼女は父の夢を3晩も続けて見たので、不安に思い再会を決意した。そこで、信州の豪壮な屋敷を二人で訪ねていくと、彼女の父は胸まで垂れる髭のある、品のいいおやじであった。しかし、彼女がそのおやじと、客座敷で向き合って話すのを、脇で聴いているうちに私は、こんなところに来るのではなかったと思い、先方のスキをうかがって彼女に訊くと、やはり私と同じことを感じとっていたので彼女に代わって私が、T(父)とT家とに告別の言葉を述べて、外に出た。『瞼の母』の水熊の内で、忠太郎が立ち去って行くときの台詞は、そのときの言葉から出たものであった。つまり、『二度と再びおたずね申しはしませン、まあおたっしゃでお暮しなさい』とイヤ味とうらみと情けなさを一つにして言ったのである。ふたりは、この屋敷の女房娘が、納戸だか台所だかに立てこもり、一家一門の主なるものを呼び集め、相談をやっているのを、とっくに知っていたのである」

このときの情景が「考えてみりゃ俺もバカよ。幼いときに別れた生みの母は、こう瞼の上下ぴったり合わせ、思い出しゃあ絵で描くように見えたものを、わざわざ骨を折って消してしまった」の台詞になったのだった。
また、彼は4歳のとき実母と生き別れとなり、幼児からさまざまな辛酸をなめる。小僧、行商、出前持ち、土木業など次々と仕事を変え、最後は都新聞の記者を経て戯曲を書き始める。母と再会できたのは48年後の52歳のときであった。
彼の母を恋うる気持ちは強かった、が実母に会うのをためらったのもこの亡妻との一件が原因であった。やっと決心をして73歳の母を訪ねて、異父妹から「母は、無頼漢になった次男(伸)のために、縫物の針の手をとどめ、イエスに祈ることが何度もあった」と聞かされる。別れた児を思いやる母の気持ちを聴き、48年間のあいだの母の深い愛情に彼は男泣きに泣いたという。


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