売れる仕組みづくり
営業部門において(体制、価格、製品、流通、販促)
営業業務は「企業の花形」といわれています。私も人と接することが好きで、入社面接では営業部門を希望しました。
営業という仕事には喜びも悲しみもありますが、自分の計画通り売れたときの喜びや達成感は格別のものがあります。それを求めて仕事にのめり込んでいったといっても過言ではありません。
一方、個人ではなく企業サイドに立ったとき、自社が扱う商品を売り、適正利益を稼ぐことが経営ではいちばん大切になります。
企業が利益を出す源泉は営業力です。よい商品を開発しても、そのよさをアピールして売り切る販売力がなければ、企業を成長させることができません。
そのため企業は、常に販売力の強化を考え、実行しているのです。
武田は「創業家の厄介な三男坊として社内でも鼻つまみ者であった」と述懐するが、思いもかけない人生の転機から社長となり、古い体質の老舗企業を世界企業に大成長させた。
昭和15年(1940)、兵庫県生まれの武田は、同37年(1962)甲南大学を卒業し、武田薬品に入社する。同39年(1964)フランス、イギリスに留学するが、同48年(1973)食品事業部に配属となる。
昭和53年(1980)、父親の6代目・武田長兵衛が後継者として最も期待していた長兄の彰郎が46歳で急逝した。それまで、会社でも傍流の事業部に預けられ、部屋住みのように扱われてきた武田に、長兄の死から13年後の平成5年(1993)、社長のお鉢が回ってきた。
医薬事業本部の本流ではなく、研究所や食品事業部、海外事業部など傍流ばかり経験していたため、彼には老舗会社のダメなところが手に取るようにわかっていた。
創業200年にもなる老舗企業は、いつしかぬるま湯の中での仲よしクラブや、部門エゴにうつつを抜かし、上司に追従する社員しか出世しない体質になっていたのである。万事ドンブリ勘定で、責任の所在などあってないようなものだった。
そのため彼は、日本の製薬企業で「トップだ」と威張っていても、世界を見渡せばけし粒みたいなものだ、という辛らつな認識をもっていた。
そこで、医薬事業部長になってすぐ全国の支店を回り、ぬるま湯的体質やドンブリ勘定感覚を指摘し、改革していく。
そのとき彼は、営業体制について次のことを痛感し、「営業体制の基本は営業と研究開発の一体化」という組織づくりを実行していく。
「支店長に『ここの利益は』と尋ねると『売り上げはつかんでいますが、利益についてはざっとこんなものだろうという数字しかありません』と平然としている。金銭感覚のないことおびただしい。
利益が増えたら何が貢献したのか、減ったら何が足を引っ張ったのか、これまたあいまい。すべて惰性で動いている無責任組織に映る。だいたい営業計画は事業部内の一応の高い目標と、会社に提出する安全な計画の二通りあると言うのだからおかしい。
もっと大きな問題があった。医薬品事業にとっての生命線である研究所だ。まるで象牙の塔にいるかのように論文を書くのに忙しく、企業の研究所として最も大事な売れるくすりづくり、『創薬』という意識がないのだ。
質量ともに国内最高水準のスタッフを抱え、しかも潤沢な研究開発費を投じながら目立った新薬が出ない。研究のための研究というわけだ。この非効率な研究体制を他社から〝武田病〟と揶揄されていた。
知れば知るほど危機感が募ってくる。これが大企業病かと思った。この体質、風土を打ち破らないと、グローバルな競争相手ととうてい戦えないと痛感した」 (「日本経済新聞」2004.11.22)
武田は営業と研究開発の一体化を成功させたのち、全社の機構改革を次々にやってのけ、世界企業へと大成長させた。
平成15年(2003)、会長となるが、21年(2009)に退任し、相談役や顧問にも就かない潔さで見事に引退する。
* *
武田は創業家出身のトップになったため、歯に衣を着せない表現で内情をさらけ出し、大改革を成し遂げた。それにしても型破りのすごい経営者で、サラリーマン経営者ではなかなかここまでできない決断と実行が「履歴書」では随所に見られました。
価格施策では
マーケティングとは「売る仕組みづくり」ではなく「売れる仕組みづくり」である、と慶應大学の嶋口充輝名誉教授が単純明快に定義づけをしてくれています。「売れる仕組み」は営業部門だけでなく、全社的な経営課題として取り組むものです。
ここでは、営業部門で重要なマーケティング・ミックス(4P)の価格(PRICE)、製品(PRODUCT)、販売促進(PROMOTION)、流通経路(PLACE)の施策を取り上げます。
企業は、これらの4つの施策をベストミックスさせて総合的営業計画とし、打ち出しています。そこで、すぐれた経営者がどのように価格政策に取り組んだか、紹介したいと思います。
生産者の立場(PRODUCT OUT)からの価格設定に対し、消費者の立場(MARCKET IN)からの価格設定に行き着くまでの経営者の苦労が、ここには記されています。
樫尾の4兄弟の存在は業界でも有名で、長兄の忠雄は主に財務担当、次兄の俊雄は開発担当、三男の和雄は営業担当、四男の幸雄が生産担当し、この兄弟の協働が事業を急成長させる原動力となった。
大正6年(1917)に高知県で生まれた樫尾忠雄は、早稲田工手学校(現:早稲田大学)で技術と知識を習得し、昭和21年(1946)樫尾製作所を創業して社長となる。そして、電子計算機、電卓、デジタルウォッチ、電子楽器、デジタルカメラなど低価格で販売し、一企業を大企業に発展させた。
しかし、昭和35年(1960)後半から昭和45年(1970)代にかけ、苦難の時代がやってくる。日本では電卓(電子式卓上計算機)産業が盛んになり、最盛期には参入企業が50社以上に達した。各社入り乱れての開発競争、価格競争があまりにも熾烈であったため、「電卓戦争」と呼ばれたときであった。
昭和39年(1964)、シャープが先陣を切って電卓を発売したときの値段は53万5000円で、重量は20kg程度と重く大きなものであった。当時の大卒者の初任給が2万1500円という時代である。それから5年で、トランジスタ、IC化、LSI化され、部品点数が少なくなるにしたがって、小型化、軽量化、低価格化が進み、電卓の値段は10分の1にまで下がった。
当時、電卓市場はビジコン、システック、カシオなど専業メーカー5社のほかに、日立、東芝、ソニー、リコーなどの総合電機、家電、精密機械メーカーなどが参入し、OEM(相手先ブランドによる生産)専業メーカーなどを入れると、50社近くが競争していた。
5万円を切る電卓を発売したのは、立石電機(現:オムロン)だったが、それまで電卓は企業と官公庁の需要先だけが利用する業務用であった。
それを一般大衆に算盤がわりに使ってもらいたいと考えたのが、樫尾であった。5万円を切れば個人でも電卓を購入でき、市場は一気に拡がると読んだのである。
チャンスと到来として、1万円電卓を実現するために、機能も最小限に絞って開発したのが1チップ6ケタ計算の「カシオミニ」だった。
「企業が買う」価格から「大衆が買える」発売価格は1万2800円。このカシオミニが大ヒットし、カシオの業界地位を固めることになった。この後も電卓の小型軽量化、半導体技術、生産技術、省力化、低価格化など、あらゆる面で行き着くところまで行った結果、電卓業界に残ったのはシャープとカシオだけだった。
アメリカではもっぱら軍事・宇宙開発に使われていたICを、日本では電卓という民生用に大量に使い、半導体産業を育て、同時にマイクロプロフェッサや液晶ディスプレイを生み出したことは、コンピュータの歴史に大きな影響を与えた。
彼はこの熾烈な価格競争を勝ち抜く逆転発想の原点を、次のように証言している。
「いま・改めて電卓戦争を振り返ってみて、よくぞ開発でリードし続けられたものだと思う。新製品の開発を始めて、まず設計図が出来上がる。そのまま、生産の準備にかかるのでは、競争に勝てない。出来上がった設計図をもとに、『部品の数をもう二割減らせないか』『値段をもう三割安くできないか』とい具合にもう一度設計し直してコストを下げる。それを半年ごとに、場合によっては三カ月おきにするのだから、しんどい話だった。
しかし予想に反して、電卓の値段が四万円を切るところまでいっても、個人は買ってくれない。これは、何か発想を変えないと無理だぞということになった。では、いくらだったら個人が買ってくれるかー。私たちは発想を逆転させた。
四十六年当時、大学出の初任給は四万円前後だった。その四分の一、一万円ならなんとか買ってもらえるんじゃないか、と開発部門の若手が言い出した。全くのカンだったが、彼らの金銭感覚が一万円なら、と言わせたのだろう」(『私の履歴書』経済人28巻 305p)
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この文章を読んだとき、商品の市場価格を決めるのにここまで努力しなければ通用しないのか、と驚いてしまいました。
メーカーは価格の決定権をもち、利益を流通業よりも多く得られますが、競合他社との熾烈な価格競争に加え、消費者に受け入れられる価格にまで引き下げ、生き抜くことは大変です。「価格決定は企業経営そのもの」と言われますが、この価格決定で企業の浮沈が決まるのもよく解ります。
さらに現在は国内だけでなく、海外企業との競争もありますから、なおいっそうの開発力・技術力が要求されます。
「大正15年(1926)東京生まれ。小学校卒で家業の建具店を手伝う。昭和24年(1949)日本建具工業(現:住生活グループ)を創設し、社長。同46年(1971)トーヨーサッシへ商号変更、平成4年(1992)トステムへ商号変更。同10年(1998)会長。同13年(2001)INAXトステム・ホールディングスに商号変更し、純粋持株会社に移行。同16年(2004)住生活グループに商号変更。同19年(2009)会長退任。)
*昭和40年(1965)代の日本は住宅景気に沸き、同47年(1972)度には新設住宅着工戸数が史上最多の百八十六万戸に達した。アルミサッシ業界も増産を重ねていたが、大きな落とし穴が待ち構えていた。同48年(1973)の第一次石油ショックである。原油相場につられるようにアルミ地金などの原材料価格が急騰した。するとサッシの値上がりを見込んだ卸や小売業者が買いだめに走る。最初は実需と思い込みみんなが一斉に在庫を増やすことになった。
ところが、仮り需要が膨れ上がった後に、住宅着工が落ち込み、同49年(1974)度の着工戸数は前年度比で約三割減になってしまう。このため膨れ上がった在庫は減らず、業界全体が在庫を減らすために熾烈な安売り競争が起こった。その結果、翌年度には業界のほとんどの企業が赤字に転落してしまった。このとき潮田は価格競争の対応について次のような転換の決断をしたと語っている。
「泥沼の乱売合戦を経験した私は「無益な価格競争はもうやめよう」と決意した。コスト競争力で勝っている分を、顧客の役に立つサービスやシステムの構築に振り向ける戦略を打ち出したのである。
その一つがTFC(トーヨーサッシ・フランチャイズ・チエーン)と名付けた販売店の経営支援策だ。加盟した販売店には会計や在庫管理、営業手法などの経営ノウハウを提供した。販売店の決算書も当社で作成し、利益率や経費率は加盟店中の何位か、改善すべき点は何かを伝えた。
当時は営業マンも置かず、工務店からの注文を待っているだけの販売店が多かった。TFCへの加盟で攻めの営業に転じる販売店が増え、当社のシエアも高まった。」
(日本経済新聞 2008.3.22)
製品施策では
昭和12年(1937)長崎県生まれの江頭は、同37年(1962)一橋大学を卒業して、味の素に入社する。そして62年(1987)取締役に昇進するが、評価される分岐点は次の大事件だった。
昭和50年(1975)にサラダ油などの食用油脂業界に大事件が起きた。それはアメリカの港湾ストをきっかけに原料価格が暴騰したからだ。その結果、その年度の決算は業界全体で800億円の赤字となった。味の素も油脂部門も80億円の赤字を出す惨状となった。
油脂業界は、日清製油、豊年製油、昭和産業、吉原製油、味の素などメーカー数は多いが、製品の品質はほとんど違いがなかった。したがって行き着くところは当然価格の勝負になり、原料価格が上がると各社はたちまち大赤字になる体質だった。
江頭は、原料の大豆は大部分を輸入に頼っているが、運賃をかけて運んできて絞ってつくった油が、ミネラルウォーターより安くなる業界体質から抜け出さないと企業の安定はないと考えた。
そこで次のように「高い値段で売れる付加価値のある油を売る」と決心し、大勝負をかけ成功する。
「食用油脂の原料は大豆、菜種、トウモロコシ、ゴマ、紅花などいろいろあるが、サラダ油は大豆と菜種をブレンドするのが一般的だった。
トウモロコシにはコレステロールの低下作用を持つ成分が他の油脂原料よりはるかに多く含まれていることは知られていた。しかし価格が他より高いため、これを主原料にした製品をつくろうと考えた人はいなかった。
原料コストは高くても、健康に良いという付加価値をアピールすれば、高い値段で売れるかもしれない。私はそう考えてコーン油を製品化し、通常のサラダ油より五割高い値段で販売することにした。私の「再建屋」としての評価を賭けた大勝負だった。成否は消費者に「コーン=健康に良い」イメージを浸透させることができるかにかかっていた」(日本経済新聞2006.11.2)
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商品のよさとは、素材、デザイン、香り、味、サービスなどいろいろな要素がありますが、ヒット商品が出ると、各社の生産技術は平均して優れているためすぐ類似品が市場に出回り始めます。
いかに自社商品を付加価値づけて消費者に提供できるかで、優劣が決まります。付加価値付は、顧客ニーズや消費者動向を見極めながら、自社品の特徴をタイミングよく打ち出す必要があります。「言うは易く行うは難し」ですが、この競争で企業は日夜骨身を削っているのです。
流通施策では
「昭和2年(1927)ドイツ・アイゼンハーツ生まれ。昭和21年(1946)19歳のとき父と一緒に働いていた生乳会社がネスレに買収される。そのネスレに勤めながら、フランクフルト大学を卒業。後にビジネススクールでマスターを取得。昭和43年(1968)スーパーチエーンのコープ社長。同50年(1975)ドイツ・ネスレのトップとなる。同60年(1980)ネスレ全体のトップ(CEO)となる。平成9年(1997)会長を引退し、名誉会長。スイス人以外として初めて、スイスの大企業の重要な役職と名誉を与えられた。」
*ドイツ人・マウハーの青年時代は第二次世界大戦の混乱期だったため、就職の選択肢がなく地元にあったスイス企業ネスレのミルク工場に徒弟として入社した。彼はネスレの日常業務をこなすかたわら、フランクフルト大学を卒業、その後ビジネススクールでマスターを取得する。しかし、上司と経営戦略上の相違があり退職し、大手スーパーチエーンのコープ社長となる。ここで小売りとメーカーの市場認識の違い、すなわち、小売りの「短期的な消費者動向思考」とメーカーの「製品の長期的展望と品質思考」の違いが認識できるようになる。このコープで実績を上げたことで、彼は古巣のネスレ・ドイツ社長に迎えられることなる。
昭和40年(1970)代後半、ドイツの食品メーカーがそろって頭を痛めていたのは、「小売業者の権力」であった。小売業界の再編が急速に進んだ結果、小売りの発言力が増し、メーカーと小売りの力関係が大きく小売り有利に傾きつつあった。
小売りとの新たな関係作りが急務と感じた彼は、社長になるとまず、小売業者と積極的にコンタクトを取り、「対決ではなく、共存を」と訴えた。また、ハンブルグでのコープで実際に小売業に携わった経験から、トップセールスの重要性も痛切に感じており、有力小売業者との個人的な関係を築くためにある試みをはじめた。それが通称「ネスレ夫婦セミナー」だった。これが大成功するがその詳細を彼は次のごとく紹介している。
「このセミナーは年一回、国内で最も力のある小売業者十人を夫婦同伴で旅行に招待する催しだ。しかし、ただの接待旅行ではなく、毎回仕事とは直接関係のないテーマを一つ選んで、皆が一緒に“勉強”をする。期間は八日間、行き先は仕事のしがらみから逃れるために外国、テーマは夫婦ともに興味の持てる内容、そしてそのテーマに関するドイツ有数の専門家を一人、必ず同行させる―この四点が原則だ。
例えばケニアを選んだ年のテーマは「動物行動学」。生物学者に同行してもらい、サファリツアーで野生動物の生態を観察した。クレタ島では欧州文明のルーツを探り、ギリシャのコルフ島ではギリシャ古典文字、ナポリやポンペイではローマ文化を研究するといった具合。もちろん、ネスレからも私を含む幹部五人が夫婦で参加する。招かれた方は観光しながら知的刺激が受けられ、同行する我々ともいや応なく親交が深まる。
しかし、このセミナーの味噌(みそ)は勉強の内容にあるのではない。それぞれの夫婦が一週間以上、みっちり一緒に過ごすことが重要なのだ。普通なら複数の夫婦で旅行に出かけても男は仕事、女は家庭の話と話題が分かれてしまう。これではただ夫婦で招いても新味は出ない。とにかく男女双方が同様に興味を持って話ができるテーマを設定して、共通の話題を提供するように気を配った。
ゲストとして招いた何人もの奥さんが「ようやく夫と過ごす時間ができた」と言ってくれたが、これこそ私の狙いで、奥さんのネスレに対するイメージは相当上がったと思う。」
(日本経済新聞 1998.8.15)
アサヒビールの社長に就任した樋口が、社内の反対を押し切って売れ残っていた古いビールをすべて店頭から回収・廃棄し、それが結果的にアサヒ再興につながった話は有名である。
樋口は大正15年(1926)、滋賀県に生まれた。昭和24年(1949)、京都大学を卒業し、住友銀行に入行する。同57年(1982)副頭取になるが、磯田住友銀行会長との意思の疎通がうまくいっていなかった。
住友銀行からアサヒビールには、3代続けて社長を送り込んでいたが、業績は回復せず、当時のシェアは過去最低の9・6%まで落ち込んでいた。磯田会長からアサヒビール転出の話があったとき、樋口は自発的に引き受けた。
そして、住友銀行退職の別れの挨拶で、銀行の役員、支店長を前に「香典をいただきたい」と切り出した。「自分と働いて楽しかった人は3万円、この野郎と思った人は厄払いとして1万5000円、なんとも思わない人は1万円」と言い、アサヒビールと討ち死に覚悟の意気込みを銀行員に披瀝したという。
岐路に立っていたアサヒビールを再生するため、売れ残ったビールの在庫をすべて処分し、全国の取扱店、顧客をまわり、生の声を謙虚に聞き、納得すべき点は即、それを実行に移した。
13年後、アサヒビールは奇跡の復活を果たし、45年ぶりにビール部門でトップに返り咲いた。社長初年目の重要仕事がこの得意先回りから始まったと、彼は次のように語っている。
「私は全国の得意先を回り、就任二カ月でいただいた名刺が二千五百枚を超えた。そんな社長はビール四社の歴史には珍しいと言われた。私は商家に生まれたので、心から頭を下げるのは当たり前のことであり、話を聞いて直すべきことはすぐ直す。相手の目の前で担当者に電話して指示をする。
その場でお客様に『やります』と言えば、一発で納得してくれる。『では帰りまして相談して・・』などと言う必要は全くない。ただし、どう考えてもできないことは『すみませんが、いまの段階ではできません』とはっきり申し上げた。私は朝から晩まで会社にいなかった。しかも、毎晩十一時になると、雨が降っても、どんなことがあっても、必ず小売店さんを十五~二十軒ぐらい歩いて回った。トップになった時こそ一兵卒の心と動きをしなければダメなんだ。銀行では私は下っ端の時から、頭取になったような話ばかりしてしていたと冷やかされたが、今度は逆にしてみただけのことである。」(『私の履歴書』経済人三十六巻 99P)
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営業の基本は「足で稼ぐ」ことです。これは、現場に行き、顧客ニーズをつかみ、消費者動向を皮膚感覚で知ることで商機を探ることを意味します。
この基本を、樋口は社長就任早々から精力的に率先垂範で実施し、全国の顧客、取扱店および自社の支店・営業所の人たちの心をつかみました。現場で問題を発見し、その解決の答えを教えてくれたという、好例です。
「昭和17年(1942)米国ニューヨーク州生まれ。同38年(1963)にダートマス大学卒、1965年にハーバード大学ビジネススクールでMBA取得。米マッキンゼーに入社、その後アメリカンエクスプレス、RJRナビスコ会長を務めた。平成5年(1993)4月、IBMに初めての外部出身CEOとして招かれ、同14年(2002)12月の9年間の退任までに同社の再建に成功した。」
*平成3年(1991)第一四半期にIBMは17億ドルの赤字を計上した。これは超優良企業のIBMにとって創業以来初めてのことだった。原因はコンピュータのダウンサイジング化に乗り遅れ、メイン・フレーム中心のIBMは直撃を受けたたからであった。その経営責任からエイカーズ会長は更迭され、1993年当時RJRナビスコの会長兼CEOのガースナーが就任することとなった。
ガースナーはIBMが顧客の信頼を失っていると感じたので「顧客がIBMとは交渉しにくい」というイメージを少しでも減らしたかった。最初の経営会議で経営幹部50人に提案した顧客抱き込み作戦は、訪問する顧客数は五件に限らず、多ければ多いほど得点が増える内容であった。
この作戦はIBMの企業文化を変える第一歩となった。会社を立て直すには外部の力を得て、顧客の求める方向に早期に持っていくことが重要だった。この作戦が社内に浸透し波紋を投げかけ、彼が本当に彼らの報告書をすべて読んでいることがわかると、急速に動きが良くなり、反応も敏感になってきたと述懐している。
「一九九三年四月末、経営会議を開いた。CEO(最高経営責任者)就任を発表した日に出席したトップ五十人からなる会議だ。就任三週間で感じたことを話し、積極的に評価できる点もあるが、顧客の信頼を失っていること、会社がやみくもに分社化の方向に走りすぎていることなどの問題点を指摘した。そして「顧客抱きしめ作戦」を提案した。
幹部五十人全員が三カ月以内にそれぞれの最重要顧客を最低五ヵ所訪問し、その要望や不満を親身になって聴き、適切な対策を取る。各人が直属の部下である部長クラス(合計二百人以上になる)にも同じことをさせる。訪問一件につき一、二枚の報告書を私と顧客の問題を解決できる者に届ける、というものだ。」(日本経済新聞 2002.11.21)
「昭和10年(1935)群馬県生まれ。同32年(1957)慶應大学卒、防衛庁入庁。同34年(1959)日本航空機製造入社。同52年(42歳:1997)島津製作所入社。平成2年(1990)取締役、同6年(1994)常務、同8年(1998)専務、同10年(1998)社長、同15年(2003)会長。」
*矢嶋は42歳のとき航空機部品が縁で島津製作所にスカウトされる。その航空機器事業で実績を上げ、11年後(1988)の53歳で営業本部貿易部に異動となる。航空機しか売ったことのない「飛行機屋」だったので、異動には驚き、不満もあったが、サラリーマンには上から降りてくる人事は天命だと自分に納得させる。多彩な製品群を持つ島津会社で航空機器しか知らないのは、やはりまずいと思い、社業全般に目配りする時期と割り切りことにして、そこで猛勉強をした。
貿易部は東京支社にあったが、京都の本社工場に足しげく通って島津製品の基礎知識を一から学んだ。分野ごとに先生役の技術スタッフが付いて懇切丁寧な講義を受けたのであった。
事業は大きく分けて航空機器のほか三つの分野がある。計測機器、医用機器、産業機器だ。主なユーザーは企業の研究所と工場、国や自治体の研究所と理工系大学、病院で、ほとんどがプロ向けばかりであった。
そして彼は第一線に出ると早速、島津製品に対する市場の評価を現場のトップから聞くことにした。そのときの模様を次のように語っている。
「代理店の社長たちの会議では、クレームが続出した。納期が遅い、値段が高い、部品供給体制が不備、などなどと散々。新顔の副部長に文句をつけやすかったのか、「悪の標本」という究極の悪口まで飛び出して、がくっときた。
私は言いたい放題言ってもらう作戦に出た。医用機器マーケットの実態や島津に対する率直な評価を知ることはいいことだった。クレームを聞きながら、私は悟った。
個別の商品を熟知するよりも、はるかに大事なのは市場や顧客のニーズをつかんで、いかに売るかなのだ。」(日本経済新聞 2004.7.21)
「昭和9年(1934)大阪府生まれ。同32年(1957)慶應大卒、東京日産販売に入社。同33年(1958)家業の島野工業に入社。同40年(1965)米国シマノの社長。同47年(1972)自転車事業に釣具事業を追加。平成4年(1992)専務。同7年(1995)社長。同11年(1999)ゴルフ事業に進出。同13年(2001)会長。」
*島野は昭和40年(1965)に30歳で米国シマノの社長になるが、米国の自転車環境は大きく変わりつつあった。それまで、自転車はどちらかといえば子供の乗り物だったが、これに大人が注目し始めた。アウトドアでのレジャーやスポーツを楽しむ道具として自転車に乗ろうという気運が高まっていたのだった。
このころ各地で慈善グループが主催する慈善サイクリングが流行っていた。チャリティ好きな米国人気質と、自転車を組み合わせたクラブが生まれ、全米に広がっていた。従来と違った自転車の楽しみ方が出てくると、自転車に対する要求も違ってくる。そこに自転車部品メーカーとして、ビジネスチャンスがあると確信したという。そして変化の中に新しい需要、オールアメリカンとなる製品を見つけようした。そのために、米国で有名な部品メーカー・シュイン社の前社長が実践した現場のニーズを知る方法を活用することであった。それは、「店には裏口から入り、メカニック担当者に会って不良品の具合、どの部分が弱いかなどを尋ね、改めて売り場に尋ねる」という方法であった。
そこで、彼は自動車部品の販売会社として全米専門店全ての巡回を決行し、次のように語っている。
「専門店や業界全体の動きを知りたいと思ったが、広い米国に六千店が散らばっている。私たちだけで回りきれない。本社から部門を問わず若い人を派遣してもらい、全米を巡回するキャラバン隊を編成した。メンバーはほとんどが二十代後半だった。
二人一組で半年ほどかけて各地を回り、次と交代する。目的は販売ではなく、アフターサービスやクレーム処理、製品紹介、修理の手伝い、そして情報収集である。
第一陣の出発は七一年一月。四千ccのステーションワゴンに、新製品から各種部品、工具などを積み込んだ。出発時には、重みで車が後に沈んだ。町に着くと、電話帳を開き、しらみつぶしに自転車専門店を訪れた。
現場では、学ぶことばかりであった。例えば、どの店でも一、二週間の間に壊れたり交換した部品を置いている。見せてもらうと「こんな壊れ方をするのか」とわかる。自分たちの製品の評価、色、デザインの大切さ、消費者がどんな風に乗り、何を求めているかを身をもって知った。」(日本経済新聞 2005.7.15)
販路拡大策では
「明治26年(1893)愛知県生まれ。同39年(1906)丸善入社。20歳代で朝鮮、中国東北、台湾市場開拓に従事する。昭和22年(1947)独裁を宣言して社長就任。同46年(1971)会長、同48年(1973)相談役。同61年(1986)死去、92歳。」
*司の生家は千年以上続いた伊勢神宮の神領の司であった。苦しい家計を察して明治39年(1906)高等小学校を退学し、丸善に「見習い生」として入った。彼は、新刊洋書が到着すると、得意先を開拓して片っ端から売りさばいて評判をとった。二年二カ月後、明治41年(1908)末に異例の昇進で手代となり、人力車がつく身分となる。その後、大正七年1918)には朝鮮と満州に市場開拓に単身で出かけ、大成功を収める。この実績が認められて、大正九年(1920)、27歳で大阪支店の販売課長に抜擢された。
彼が部下を持ち職場を眺めてみると、販売部員は自分の記憶だけがたよりの、きわめて非科学的な販売方法であった。これをいかにして合理的、科学的な販売方法の体制に確立するかと思いをめぐらす。そして閃いたのが、顧客カードをきちんと整備することが販売の基礎だと気づいた。
そこで、三年間の売上伝票を一人で半年間かかって整備すると顧客単位の読書傾向を分析することができるようになった。これが科学的ダイレクトメールとつながり、大幅な販売効率化に役立ったのである。彼はこれを次のように説明している。
「そのようにして、調査した結果は文学、経済学、哲学、社会学、心理学……といった分類で名簿にする。医者が本業でありながら哲学も勉強しているような場合は副カードをつくって哲学と記入する。人によっては二つも三つものカードが必要なこともある。
この整理ができると、たとえば文学の新刊書がはいった場合、文学の部のカードを抜き出せばそれを必要とする人の氏名が即座にわかるということになって仕事がきわめて能率的にできるようになった。そればかりでなく販売の手数と経費のロスが省かれた効果も大きかった。従来は、極端に言えば医学書でさえあればその専門分野を問わず一様に通知書を発送するというムダもあったのである。」(「私の履歴書」経済人十二巻:201p)
江崎が、創意工夫のオマケ商法で大阪を中心とした関西圏でグリコ事業を軌道に乗せてきたことは前述した(〓ページ)。
東京進出にあたっては、静岡まで伸びた販路を一気に東京まで拡大せず、北陸から東北、仙台へと迂回し、東京を包囲しながら近寄っていった。
これは大阪での発売当時、まず三越から攻撃を始めたのと、まったく対照的だった。その理由は、それまでに多くの業者が東京進出を狙ったが、単なる押しの一手でいずれも失敗していたからだった。
そこで、わざと東京をいちばんあとまわしにし、近県の神奈川、埼玉、栃木などから一つずつ攻略する〝遠まわし法〟または〝周辺先取攻略法〟といった方法をとった。大阪市場で使ったアイデア商法にプラスするアイデアを、一つひとつ試しながら進めていったという。
彼はいろいろな苦労の末、東京進出に成功する。その理由は、広告宣伝から販売方法まで、独特のアイデアで次々と手を打ち、他社とは違ったグリコの特色を十分に生かしきることができたからである。彼はその販売促進策を、次のように披瀝している。
「まず東京進出を機会に、オマケサービスに徹底的改良を加えて特色を強化し、さらにこのアイデアを、クーポン券の収集による賞品提供にまでに発展させた。
クーポン券による賞品引き替えと同時に、教育当局の協賛を得て、市内小学校を教育映画で片っぱしから回ったこと、また数年間にわたって市内各所の公園で映画大会を開いたのは、地盤確立に大きな力となった。
さらにつぎの手は、日本で最初の自動販売機百台を主要デパートに設置したり、昭和六年浅草に動くネオンを建設したりした。どちらも今ではさほど珍しくはないが、当時はたいへんな人気と話題をあつめた。後年自動販売機は十銭入れると映画が見られ、音楽が聞こえ、そして二銭のオツリまで出るという日本最初の自慢の機械になった」(『私の履歴書』経済人七巻 179p)
* *
クーポン券がいまはスタンプサービスになっていますが、これは商店連合会や公設市場など各業界で広く応用され、その広がりの大きさに今さらながら驚いています。
そして、自動販売機、ネオン設置の広告など、斬新なアイデアを次々と打ち出す江崎の秘密は、先述したように、アタマとマナコを働かし五感をフル活用したものにほかなりません。
日夜、消費者の立場で神経を研ぎ澄ませて考え、喜ばれる施策を考えたに違いありません。
生産・仕入部門において
これらはサプライチェーン(商品の供給網)部門になりますが、顧客の求める商品が、必要なだけ安定的に供給できる体制をいかに築くかが、企業の重要な経営課題となります。
今回の東日本大震災で、企業は原材料の仕入先の被災、工場における生産工程の損傷、在庫品の損傷や払底、配送のストップなど、一連の供給網が寸断されて、市場に安定した商品供給ができなくなりました。
反対にリーマン・ショック時には、金融不安による急激な需要の減退で、過剰在庫の状態となり、企業は売上減、資金繰りの悪化、人員削減などで大変苦しみました。
この項では、需要減に対応する生産調整の仕方と効率生産のモデルとなっている、トヨタ・カンバン方式のルーツを紹介します。
本田は経営を副社長の藤沢武夫に任せ、自分は開発に没頭し、共にホンダを世界的な大企業に育て上げて、日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを認められた人物である。
明治39年(1906)、静岡県に生まれた本田は、昭和3年(1928)、自動車修理業で独立する。同9年(1934)、東海精機を設立するが失敗し、浜松高等工業学校で機械について基礎から勉強し直す。
戦後、自転車用エンジンで成功し、同21年(1946)本田技研を設立、社長となる。そして、オートバイの生産を開始し、「ドリーム号」「スーパーカブ号」のヒット商品を開発する。これが順調に発展したため、自動車生産に進出した。
岩戸景気とオリンピック景気の狭間の昭和37年(1962)には、景気がだいぶ悪化して日本の代表的な大企業までが生産調整に四苦八苦していた。しかし、彼はその1年以上も前の36年3月には生産調整を断行していた。
そのとき世間からは何かと非難されたが、彼はちゃんとした見通しをもって行なっていた。アメリカのドル防衛でアメリカ経済が変調を来たし、日本にも影響しそうな気配があり、それに昭和35年(1960)から36年(1961)正月にかけての大雪で、日本の3分の2が大規模な交通マヒを起こしたため、販売不振となっていたからである。
生産調整は、2月にやればまだ寒く、代理店に先行き不安を抱かせないように強気で押し通し、暖かい季節に向かい景気もよくなりそうな3月に実施した。あくまで代理店の気持ちを考えたうえでの決定であった。生産調整は5日間とし、実施までの約1か月間にどんなことを行なうか、綿密な計画を立てた。
本田技研は急成長したため、生産機械や部品にアンバランスが目立ち、下請けの能力差による精度の違い、値段の高低などが生じていた。
社員全員でそうした矛盾を洗い出し、不具合を是正した。このため、生産調整で操業をストップしても、社員は機械の配置換えや手入れなどで、休業どころではなかったという。
その結果、生産を再開したときには、以前より質のすぐれた製品が、しかも低コストでできるようになっていた。ほかの企業は一般に好景気で、生産増大の傾向が強かったため、ホンダが操業停止をしても下請け業者からはクレームがまったくこなかった。
生産調整に関する本田の次の言葉は、その判断力と先見力、決断力がすぐれていたことをあらわしている。
「このときの調整ですっかり体制を整えたため、いまの世の中が不況だといって騒いでいるさなかに、私のところは反対に増産に転じていられるのである。昔から言われているように、ヤリの名人は突くより引くときのスピードが大切である。でないと次の敵に対する万全の構えができない。景気調整でもメンツにこだわるから機敏な措置がとりにくいのだ。どんづまりになってやむをえず方向転換するのではおそすぎる」(『私の履歴書』経済人六巻 245p)
* *
本田の例は、過剰生産に対応する事例ですが、今回のリーマン・ショックでは、全世界で市場全体の需要が急減し、大不況となりました。
トヨタをはじめ、ほかの製造業者も在庫圧縮に大苦戦しましたが、鈴木自動車の鈴木修会長だけは前年からの景気後退を見逃さず、早めに生産調整を行なっていました。
各社の首脳陣も、前年から販売が思わしくなく、データ上ではわかっていたといいます。しかし、それを決断するタイミングと実行力に差が出たとしか思えません。
トップの先見性、判断力、決断力が被害を最小限で食い止め、会社の危機を救うことになります。
全世界の工場が、原料の仕入から商品の発送までのリードタイム短縮による生産効率の向上をめざし、トヨタのカンバン方式「ジャスト・イン・タイム」をモデル採用している。
大正2年(1913)、愛知県に生まれた豊田は、昭和11年(1936)東京大学を卒業し、伯父・豊田佐吉が創業した豊田自動織機に入ると、従兄・喜一郎(豊田佐吉の長男)から、自動車開発を命ぜられた。
昭和20年(1945)取締役、常務、専務を経て42年(1967)、トヨタ自動車工業社長となる。そして国際競争力を高めるため、神谷正太郎や加藤誠之らによって大きく成長したトヨタ自動車販売会社と、57年(1982)に製造・販売合併でトヨタ自動車を発足させ、会長として企業を大きく発展させた。
現在では世界中で採用されているトヨタのカンバン方式「ジャスト・イン・タイム」は、豊田喜一郎が考案したもので、挙母工場(愛知県豊田市)の移転時にこのシステムが導入されたものだと彼は次のように書き記している。
「いままでの刈谷工場では、鋳物からできた半製品をいったん倉庫に入れ、それから機械で削っていた。個々の部品についても、ピストンであれ、どんな部品であれ、「何個つくれ」という伝票が回ってきて、それが終わると次に「穴を開けろ」という指示がきていた。いわゆるロット生産だが、これを全部流れ作業にしたのである。
すると品物はたまらなくなり、倉庫もいらない。ランニングストックが減って、余分な金が出なくなる。逆にいえば、買ったものが金を払う前に売れてしまうわけで、この方式が定着すれば、運転資金すらいらなくなる。
喜一郎の考えた生産方式を要約すると、「毎日、必要なものを必要な数だけつくれ」ということになる。これを実現するには、全工程はいやでも流れ作業にならざるをえない。喜一郎は工場責任者として、この方式をいかに社内に定着させるか、知恵を絞った。(中略)
流れ作業の考えを、どうやって社内に定着させるか。なによりもまず従業員、とりわけ管理、監督にあたる人の教育を徹底させなければならない。画期的なことだから、旧式の生産方法が頭にこびりついた人から洗脳する必要がある。」(『私の履歴書』経済人二十二巻 447p)
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私の勤めた会社もトヨタ生産方式を導入しました。
トヨタの生産現場に詳しい専門家を招き丁寧に指導していただいたことで、2年後にはロット生産方式からランニング・ストックを大幅に削減できるリードタイム短縮(仕入‐生産‐発送するまでの時間短縮)方式で見違えるような生産改善ができました。
しかし、この成果が表れるまでに管理・監督にあたる管理職の教育にいちばん時間がかかりました。
研究開発部門において
これらはサプライチェーン(商品の供給網)部門になりますが、顧客の求める商品が、必要なだけ安定的に供給できる体制をいかに築くかが、企業の重要な経営課題となります。
今回の東日本大震災で、企業は原材料の仕入先の被災、工場における生産工程の損傷、在庫品の損傷や払底、配送のストップなど、一連の供給網が寸断されて、市場に安定した商品供給ができなくなりました。
反対にリーマン・ショック時には、金融不安による急激な需要の減退で、過剰在庫の状態となり、企業は売上減、資金繰りの悪化、人員削減などで大変苦しみました。
この項では、需要減に対応する生産調整の仕方と効率生産のモデルとなっている、トヨタ・カンバン方式のルーツを紹介します。
「明治33年(1900)熊本県生まれ。大正14年(1925)熊本高等工業(現熊本大学)卒。兵庫県庁などを経て、昭和8年(1933)立石電機製作所(現オムロン)を設立。昭和23年(1948)株式会社化し社長。戦後オートメーションに注目し、マイクロスイッチなどを自社開発。同30年(1955)初期には機能部品で国内市場をほぼ独占。40年(1965)代以降自動販売機や自動改札機など無人機械化に成功する。平成3年(1991)死去、91歳。」
*大正14年(1925)に熊本高等工業学校を卒業した立石は、兵庫県土木課の技師を経て京都の配電盤メーカー井上電機に入社する。そこで生産設計から試作検査まで任されるようになった。そのとき、米ウエスティングハウス社が開発した誘導形保護継電器の国産化を担当することになり、連日徹夜で試行錯誤した末に、一号機を完成させることに成功する。これで彼は研究開発先行の性格になれたという。しかし、同時にこの井上電機で苦くても貴重な開発技術に対する配慮の重要性を体験した。
ここには技師長の常務がいて、今までは井上電機の特許や実用新案はだいたいこの常務の創案であった。しかし、初めて立石の考案した新型の継電器を東京電灯が採用してくれ、大量の注文が一度に舞い込むと、常務が相当無理な構造の継電器を考案して直ちに生産に移し、彼の継電器の生産を中止した。彼は自分の開発品の成功で有頂天になっていたが、この常務の理不尽な行為で、仕事への意欲がすっかりそがれてしまった。そして熊本県人特有の「肥後もっこす」精神で反骨し、自分の創造性のはけ口を、本職を離れた台所用品など家庭用品ばかりを考案するようになった。このときの反省から、常務の理不尽な行為を反面教師として、彼は次のように開発者への配慮を説いている。
「これはまことにもったいない話で、企業の大事な技術をフルに活用する政策としては愚の愚なるものではないかと思う。私は自分で商売を始めてからは、この苦い経験を生かし、若い社員にはヒントを与えて考案・特許の手助けをしてやり、成功したら、その考案・特許は本人を考案者・発明者として出願させ、花を持たせるようにしている。この要領で、一度創造のだいご味を覚えると、もうしめたもので、はずみがついて次々と発明、考案するようになる。こういうふうにするのが人を育てるということだと思っている。」
(「私の履歴書」経済人十五巻:331p)
「明治32年(1899)静岡県生まれ。静岡師範学校を経て、大正10年(1921)東京高等工業(現:東京工業大学)の工業教員養成所を卒業し、神奈川県立工業高校教諭。同13年(1924)浜松高等工業高校(現:静岡大学工学部)助教授となり、「無線遠視法」(テレビジョン)の研究を開始。同15年(1926)同校にてブラウン管による伝送・受像を世界で初めて成功させる。昭和12年(1937)NHKに出向。同21年(1946)日本ビクターに入社。同45年(1970)副社長、同48年(1973)技術最高顧問。平成2年(1990)死去、91歳。「テレビの父」といわれた。」
*高柳は昭和21年に日本ビクターに入社以来、研究開発本部長として、あるいは技術本部長として未来商品の開発に取組んだが、後進の研究を指導、管理することも要請されていた。浜松高等工業の教授になってから後は、NHK、海軍の技術研究所、日本ビクターの各時代を通じて後進指導の立場にいたことになる。
毎朝、それぞれの研究担当者に来てもらいテーマごとにディスカッションを繰り返した。何を目標に研究を進めなければならないかを話し、それを達成するための手段、方法をみんなに考えてもらうためであった。これは自発的に彼らにどんどん提案してもらうためである。この考えは恩師の浜松高工の初代校長の関口先生が、「勉強は強制されてやるものではなく、学生の自発性が最も大切」という信念で指導されたのを実践していたのである。
こうような方法や体制だと、初めは研究者に戸惑いがあったが、いろんな経験を積み重ねていったん自信をつけると、今度は確実に自分で歩むことを覚え、思わぬところまで成長してくれたと述べている。彼の指導方法は具体的には次の通りである。
「若い研究員から「それはどうかな」と思われる提案があっても、頭ごなしに「それは私がやってみた時はダメだった。もっと他の方法を考えなさい」としかるようなことはしなかった。「それは結構だ。しかし、私は前にこういう経験をした。それを乗り越えて君のいい考えが実現するように努力しよう」と言って、自分で実験してダメだと知ったうえで、前に進ませるように指導した。
上の者だけが研究者のつもりで下の担当者を道具みたいに使うのでは、いい研究は出来るわけがない。これは研究組織に限ったことではないだろう。担当者自身がどこに問題があるかを知って、それを自分の責任で解決していくという体制が必要なのである。」
(日本経済新聞 1982.3.3)
山地はキャノンにおいて「ヤマジ式ズーム」レンズなど次々とヒット商品を開発し、理系社長となるが、退任後、世界企業のテトラパックより招聘されて日本企業の責任者になった人物である。
昭和2年(1927)愛知県生まれの彼は、同26年(1951)東大を卒業する。養父の鉄道土木請負業を引き継ぐつもりが、養父の急死と事業閉鎖で、自認する物理屋を大事にしてくれる会社を就職先に選ぶ。それがキャノンでした。ズームレンズの設計を任され、後に有名になる世界に類例のない「ヤマジ式ズーム」を開発する。そして、シネカメラの「ズームエイト」、「キャノネット」、「オートフォーカスカメラ」、ゼロックス社以外で初めて国産複写機、インジェクション・プリンターなど次々と数多くのヒット商品の新規開発に関与した。
彼が所属する製品研究課は、開発部、研究開発部、中央研究所と大きくなり、成果をあげて役員への階段を上っていったが、常に特許重視の姿勢を貫いた。研究員に「論文を読むより特許を読め」「報告を書くなら特許を書け」と奨励した。理由は、個人としては登録番号、名前、内容が永久に残るし本人の記念碑になり、そのうえ、企業としては強い技術を持っていると他社からクロスライセンスの提案も出てくるメリットがあるからだった。
彼は特許数を増やすための奨励策の実施、そして特許の出願は難しくないコツを丁寧に話して出願を増やしていった。そして、彼はその出願のコツと成果を次のように語っている。
「出願のやり方にも戦略性が要る。単発では駄目で、同じ目的を達成する違う手段についても出しておく。さらに材料、素子、応用面まで系統的に出して下さいとも言った。
この私の方針に呼応してくれたのは特許部の丸島儀一さんだった。開発が出したアイデアを見事な出願に仕上げて、日本でも外国でもどんどん通してくれた。特許の交渉ごとも丸島さんに任せておけば大丈夫と私たちは安心して開発に専念できた。
その結果、九二年にキヤノンは米国特許の登録件数でトップになった。その時IBMは六位だったが、九三年から九六年までトップだ。キヤノンは九三年三位、九四年からずっと二位である。しかし従業員一人当たりでは断然多い。特許料収入はここ十年平均で年間約百億円となり支出の約十倍になっている。
だから「特許ですみ分けをしたり、相手とパートナーシップを結ぶ」という方針がとれた。」(「私の履歴書」経済人33巻 53p)
特許権は、著作権や商標権などと同様の知的財産権の一つですが、企業において経済的価値は非常に高いものです。知的財産は「参入障壁を築くこと」「競合他社と差異化を図ること」「自らの事業を自由に進めること」を目的に取得するものですが、最近では企業収益に多大に貢献している企業も出てきている。そのため、この知的財産を多く持つ企業は高い企業評価を受けるようになりました。キャノンの2009年米国特許登録件数は2,200件であり、特許権収入は30,344百万円であると自社のホームページで紹介しています。日本は2009年の米国特許登録件数では上位10以内に5社(キャノン、パナソニック、東芝、ソニー、セイコ‐エプソン)が入っており、米国に次いで世界第二位の出願国になっています。グローバル化が進み、先進国との競争激化、途上国の追い上げも急な現在、自社の優位性を保つためにも特許の重要性はますます高まっています。
管理部門において
管理業務部門は、営業、生産、研究開発の活動を支える内勤のサービス業務ですが、総務、人事、経理・財務、秘書など、業務は広範囲にわたります。
これらの主要部門は守りの要となりますから、立派な経営者になるためには、この業務に精通しておかなければなりません。
この項では、人材育成のあり方や教育のポイント、経理財務の重要性、労働組合とのあり方、整理分類の方法とメリットを抽出しました。
人材育成では
「明治21年(1888)山口県生まれ。同44年(1911)東大卒。中学教師、新聞記者など職業を変えた後、大正8年(1919)宝田石油に入社。合併後日本石油外事課長代理、秘書課長。取締役下松製油所長で終戦。昭和33年(1958)社長、同36年(1961)相談役。同40年(1965)死去、77歳。」
*栗田は宇部市の片田舎の寺に生まれ、小児マヒに罹る。東大文科を出て教職に就いたが、実業に転じたい気持ちを抑えきれず、新聞記者など職業を転々とする。運よく30歳を過ぎて西本願寺の僧侶養成学校の先生であった三島海雲の縁でカルピス会社の広告係りとなるが、これも一年で大整理され、宝田石油に就職する。大正10年(1921)合併で日本石油となり2年後の36歳で秘書課長となる。当時の秘書課は職員や工員すべての人事も兼務で扱ったので広範な業務があった。採用、昇給、異動、査定、苦情の聴取などなどの業務を経験しながら20年近く側近奉仕が続いた。彼は身体的ハンディを武器に考え、高い志を持ち勉強を続けた。多くの履歴書執筆者はいるが、彼の如く自分を「淳」と三人称で呼び、客観視して醒めた目で自分の履歴を書いた人は初めてであった。彼が永年の秘書業に対する矜持の考えを次のように説いている。
「秘書という仕事は気苦労の多いものである。またきわめて伸縮性にも富んでいる。やろうとすれば仕事は際限なくある。のん気に構えるなら、招かれざる客との応対で用はすむ。卑屈になると鞄持ちに堕ちる。淳はブレインをもって任じた。といっても、その他をしなかったというのではない。ただ鞄持ちだけはご免こうむった。」
(「私の履歴書」経済人四巻 58p)
ジャック・ウェルチは21年にわたり、GE(ゼネラル・エレクトリック)のCEO(最高責任者)として経営改革に取り組み、世界最優秀企業に育て上げた。平成11年(1999)には『フォーチュン誌』で「20世紀最高の経営」に選ばれる。
昭和10年(1935)アメリカのマサチューセッツ州に生まれた彼は、昭和32年(1957)マサチューセッツ州立大学卒業後、イリノイ大学院で博士号を取得、35年(1960)GEに入社。
46歳(昭和56年:1981)でGE会長となったウェルチが最も力を入れたのは人づくりであり、すぐれた人材を育成する研修を最も重視していた。
人材開発のプログラムの狙いは、1人ひとりの個性化、差別化にあり、その教育には研修センターを活用した。昭和63年(1988)の1年間にはこの研修センターの受講者が5000人にも達する。
ここの研修目的は、ワークアウト(WO)プログラムを実施し、現場の従業員を集めて会議や業務の評価の仕方などに不要な仕事や職務(ワーク)を追い出す(アウト)ことだった。
この研修では、課員の提案に課長がその場で即決する。即決できなければ管理職の資質が問われることになる。課員は自分のアイデァがただちに採用されるとわかれば、組織は活性化するからだ。
このようにして、1992年までに社員20万人がこの研修センターで教育を受けたという。当時を振り返り、ウェルチは辞めさせたい管理職に次のようにドライに接したと書いている。
「業績の悪いものをどんどん解雇し、成績のいい者には大幅に給料を上げ、ボーナスも弾んだ。けり飛ばす一方、抱いてなでる。それが今日まで続く私のやり方だ。(中略)。
辞めさせたい管理職には必ず事前に二、三回、個別面談し、私が何に不満かを伝え、ばん回のチャンスも与えた。業務報告のたびに私の意見をメモに書いて渡した。だから最後通告の時にショックを受けて取り乱す例はただの一件もなかった」
(「日本経済新聞」2001.10.14)
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「私の履歴書」に登場する経営者で「辞めさせたい管理職への対応」など本人のマイナスイメージとなる情報を具体的に記載する人はいませんでした。
ウェルチは信念をもってこのやり方をドライに進めますから、いっそう迫力があります。日米経営者の違いを痛感します。
ルイ・シュバイツアーの父親はIMF(国際通貨基金)の元専務理事のピエール‐ポール・シュバイツアーであり、ノーベル平和賞授賞の医師・シュバイツアー博士は父方の大叔父である。
ルノーの社長のとき、カルロス・ゴーンを日産の社長に抜擢し、その後、自分のルノー社長兼CEOもゴーンに譲った。
昭和17年(1942)フランスのアルザス生まれの彼は、エリート養成学校であるパリ政治学院と国立行政学院(ENA)の両校を卒業後、優秀な成績だったため、45年(1970)財務省の会計検査官になる。ENAの卒業者は大統領や首相、高級官僚を多く輩出しているが、在学中の成績順に就職が決まるため、在学中の学生は必死で勉強するという。
1学年約1500名のうち、高級官僚など、最高位の職種に就くのは上からせいぜい15番までだが、彼はトップクラスにいたため、最高のエリートとされる会計検査官になった。
当時のポンピドー政権は社会保障関連機関の管理運営をめざしており、最初の1年間、ルイはパリ市の医療福祉機関に出向する。そこは市内の全公立病院を管轄し、関係職員数は6万人。巨大組織であるがゆえに経営が難しく、問題病院になっていた。そこで彼は最初の数か月間、医師、看護師、事務職員らと個別面談を行ない、何が問題なのかを直接聞くことにした。
その結果、資金や人員の資源配分、人間関係などに問題があることがわかり、それを一つひとつ改善することに成功する。
その面接方法は、「何が問題か、障害は何か、どのように解決すべきか」を個別に質問すれば、相手の仕事に対する意識程度がわかり、自分の解決策も発見できる、というものだった。彼はこの手法について、次のように語っている。
「私は難しいことをしたわけではない。小さなノートを手に相手と向き合って『何をしたいのですか』『障害は何ですか』『どうやったら解決できると思いますか』などの質問をし、メモをとりながら一時間程度はなすことを繰り返した。
人の話にじっくり耳を傾けて取り組みを考える方法は、その後の公務員時代、ルノーでの日々を経て、現在に至るまで頻繁に使っている」(「日本経済新聞」2005.10.5)
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一般的に管理職として新しい職場に移動した場合、まずその職場の問題点や課題をいち早く把握し、指導していかなくてはなりません。
私の場合も、そのときの方法として、この「何をしたいのですか」「障害は何ですか」「どうやったら解決できると思いますか」の「対話の質問項目」が大変役に立ったので、現在も活用しています。
ルイス・ガースナーは、超優良企業のIBMが創業以来の経営危機に陥っていた平成5年(1993)の4月、初めての外部出身CEOとして招かれ、14年(2002)12月の退任までの9年間で巨大企業の再建に成功した人物として有名である。
昭和17年(1942)アメリカニューヨーク州生まれの彼は、38年(1963)にダートマス大学を卒業し、40年(1965)にハーバード大学ビジネススクールでMBAを取得する。マッキンゼーに入社後、アメリカンエクスプレス、RJRナビスコ会長を務めた。
その経歴を見ると、彼は非常に広い範囲のビジネスの世界を知っており、経営にとって何が大切で、何が必要かをよくわかっている、数少ない経営者の1人だということがわかる。
彼はIBM会長に就任すると同時に、世界中のIBM顧客と話し合いをもつことにした。IBMが顧客の信頼を失っていると感じていたため、「顧客がIBMとは交渉しにくい」というイメージを少しでも減らしたかったのである。
最初の経営会議で経営幹部50人に提案したこの「顧客抱き込み作戦」は、訪問する顧客数が多ければ多いほど得点が増える内容であった。
この作戦は、IBMの企業文化を変える第一歩となった。会社を立て直すには外部の力を得て、顧客の求める方向に早期に持っていくことが重要だった。
この作戦が社内に浸透し、波紋を投げかけるようになる。彼が本当に彼らの報告書をすべて読んでいることがわかると、急速に動きがよくなり、反応も敏感になってきた。
そこで「顧客抱き込み作戦」で得られた情報を整理・分析し、経営戦略にまとめて、全世界に打って出る必要があった。
そのためには、企業競争に勝つための必要最低条件は手持ちの資産、とりわけ人材をフルに活用して組織を活性化させることだった。市場環境はグローバル化し、顧客ニーズの変化も著しいため、急激な変化にスピード対応するには、現場に近い管理職を呼んで会議を開く必要があった。
議論するときには、意図的に素っ気なく、しかも威嚇するような物言いでどんどん厳しい質問を浴びせるようにしたという。社員たちが会社の弱点、矛盾点を克服するための戦略を探るように仕向けるためである。
問題解決のため、もっともっと自由闊達に議論しようというメッセージを社内に浸透させる狙いだったのだ。彼はこのやり方、考え方を次のように説明している。
「重要な問題に取組む場合には、何より優れた知恵と知識を注ぎ込むことが大切だと考え、よく現場に近い管理職の人たちを呼んで会議を開いた。現場の人間こそ私の知りたい事実や情報を持っているからで、一緒にテーブルを囲んでざっくばらんに議論した。彼らの上司が出席しても、もっぱら部下たちとばかり話した。時には上司を呼びもしなかった。
(中略)
同時に、上司たちに対しては、事実を掌握して問題に真剣に取り組み、解決策を打ち出して行動するのが本当の管理職であり、単に手続きにこだわって段取りをこなすだけの監督官ではダメだというメッセージを送り続けた」(「日本経済新聞」2002.11.14)
* *
顧客のニーズを集め、顧客の求める方向に整理し、これに基づいて立案した経営戦略を、現場に近い管理職を集めて徹底的に議論し、トップの意図した方向にもっていく、このガースナーの人材育成手腕に驚きました。
しかし、このとき同席している管理職の上司を無視するやり方は、日本的経営には少し異質な感じがしたというのも、正直な感想です。
経理・財務では
信越化学の金川千尋社長やオンワードの樫山社長などこの「履歴書」に掲載された経営者は一様に「販売知識」と「財務知識」は、経営者にとって最重要知識として挙げている。
経理や財務の仕事は地味ではあるが、これを勉強したことで後の経営に役立った一例を紹介する。
「大正15年(1926)東京生まれ。小学校卒で家業の建具店を手伝う。昭和24年(1949)日本建具工業(現:住生活グループ)を創設し、社長。同46年(1971)トーヨーサッシへ商号変更、平成4年(1992)トステムへ商号変更。同10年(1998)会長。同13年(2001)INAXトステム・ホールディングスに商号変更し、純粋持株会社に移行。同16年(2004)住生活グループに商号変更。同19年(2009)会長退任。)
*潮田は小学校6年のときに結核を患い、二十歳近くまで約8年間、サナトリウムで過ごしたので、学校は小学校しか出ていない。しかし、読書好きでもあったので療養中にたくさんの本を読み、また、退院してからは専門学校入学者検定(専検)の勉強をした。
また、日本生産性本部(現:社会経済生産性本部)や日本能率協会などのセミナーに積極的に参加し、苦労しながら財務分析や工程管理、マーケティングなど経営の基礎を学んだことがのちの経営に役立った。
一例では関東圏に絞り込んだ販売戦略であった。それは、少ない経営資源を分散させず、一点に集める必要があり、まず最大の市場で決定的なシエアを確保してから、徐々に販路を広げていくことにした。そこで戦略策定に、不二サッシなど同業大手の有価証券報告書を集め、自ら分析すると販売管理費の負担が重いという傾向に気づいた。原因は、大手企業が事業を始めると、すぐ販売拠点を全国に展開するからだと判る。工場が一ヵ所にしかない段階で、わずかな量のサッシを全国で売れば物流費が非常に高くつくは当たり前だ。弱小の企業が同じ売り方をしていたら絶対に勝てないと思ったという。
彼にとって経理・財務の基礎知識が経営戦略策定に大きく役立ったことは間違いない。しかし、彼のように現場知識も同時に知っていないと適切な判断ができないことはもちろんである。そして次のように解説している。
「工場も千葉県野田市に集中させた。野田市は関東圏の中心に位置し、物流面で優位に立てる。工務店の要望にきめ細かく対応するためにも、生産拠点は消費地に近い方がいい。取り扱う製品も最初からビル用サッシを手掛けず、住宅用に絞った。やはり戦力集中のためだ。
財務分析によって大手企業は固定資産の回転率が低いこともわかった。そこで形材から一貫生産する工場を野田市の七光台につくり、操業率を上げるために四班交代制にした。これで鉄鋼大手の高炉のように二十四時間連続で操業できるようになった。同じ設備投資額で他社の三倍の製品を生み出す狙いである。財務諸表は戦略や戦術を練るうえでヒントの宝庫だった。」(日本経済新聞 2008.3.17)
労働組合との関係
明治31年(1898)熊本県生まれ。大正10年(1921)東京高商卒、東京瓦斯入社。現場営業部門を経て、昭和19年(1944)勤労部長。戦後志願して荏原所長。同22年(1947)常務、同26年(1951)副社長、同28年(1953)社長、同42年(1967)会長、同56年(1981)死去、83歳。戦後の首都圏の都市ガス整備を行なった。
*大正10年(1921)東京高商を卒業したが、第一次世界大戦後の好景気の反動で日本は深刻な不況に見舞われていたので、就職難であった。やっとの思いで本田は東京瓦斯に就職する。そして営業係りとして現場のガスの新設や増設、それに検針などを経験する。その後、都下の営業所長を数箇所経験して、昭和19年(1944)に勤労部長となった。そして、戦後の昭和20年(1945)には東京瓦斯産業労働組合ができ、その組合が会社に待遇改善の要求を提出してきたのであった。
しかし、第二次世界大戦で首都圏のガスは壊滅的な打撃を受けていた。戦時中百六万件を越えた需用者も三十数万件に激減したうえに、戦災によるガスの漏洩率が50数パーセントにも達していて、毎月赤字の連続だった。要求をうけいれることは、さらに赤字を重ねることにほかならなかった。
彼が、従業員の生活を調査してみると、ほとんどが飢餓線上にあって、食うや食わずの生活であることも判り、「要求も当然である」と思った。そこで彼は会社と組合の板ばさみにあって悶々としたが、組合幹部と対策を協議し、「ガス漏れを防ぐことによって浮く分を待遇改善に回す以外にない」という結論に達した。そして、そのときの団体交渉を次の如く感動的に語っている。
「やがて北林労組委員長が太田社長の前で決議文を読み上げる日がきた。「着るものは破れ、はくものは損じても漏洩防止は断じてやりとげます。その代わり会社はどうかわれわれ妻子が食えるだけの待遇をして下さい」。一語一語をうなずくように聞いておられた老社長の目がしだいにうるんで、ついに要求はききいれられた。
会社は赤字に赤字を重ねる待遇改善をうけいれたが、同時に金では買えない従業員の尊い協力と献身の気持ちを買ったのだ。この美しい光景をみて私は感激にふるえた。これで会社百年の計が成ったというような気がして、あふれ出る涙をとめることができなかった。いまから考えると、これが東京瓦斯の戦後の労使関係に一つの伝統を形づくった、と言えると思う。」(「私の履歴書」経済人十一巻:114p)
この直後から、労使協調でガス洩れ改善に邁進する。彼も国民服にゲートルばき、腰には手ぬぐいをぶらさげる格好で現場の陣頭に立った。当時はガス漏れを発見する機械もなかったので、荒ばくたる焼け野原を犬のようにはいつくばってにおいをかぎ回って漏れている個所をみつけては印をつけた。
そのころはGHQの命令で、一般へのガスの供給は午前五時から同七時までの二時間に限られていたので、この時間がすぎると印のある地点を掘り返して工事をした。いわゆる栄養失調時代だったから、立っているのがやっとという人もずいぶんいたが、人の一心はおそろしいもので、四カ月後の七月には漏洩率は30%も減って20%台になった。総動員はみごとにその実を結んだ。そして、それによる増収分はベースアップに充てられたという。
京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者、公益財団法人稲盛財団理事長、日本航空名誉会長である。
1932年(昭和7年)、鹿児島県鹿児島市薬師町に7人兄弟の二男として生まれる。父畩市は「稲盛調進堂」という名で印刷工場を経営していた。1955年(昭和30年)、鹿児島県立(現・国立)大学工学部を卒業後、有機化学の教授の紹介でがいしメーカーの松風(しょうふう)工業に入社したが、当時の松風工業は、倒産寸前で退職が相次いでいた。稲盛の開発した技術を生かすため、3年後に退社する。
そして1959年(昭和34年)、松風から行動を共にした同志8人で京都セラミツク(現・京セラ)を設立し、結束のため8名の血判状にも署名した。そしてわき目もふらずに働き続けて1年目から黒字決算を果たす。ところが創業3年目の1961年(昭和36年)、前の年に入った高卒社員11人が突然、「定期昇給とボーナス保証」の要求書を提出してきた。そして「この要求を認めてくれなければみんな辞めます」という。
小さな会社であり、彼らのまじめな勤務ぶりを稲盛は知っていた。就業時間は朝8時から午後4時45分となっていたが、実際には深夜まで残業が日常化していた。松風以来のメンバーは徹夜もいとわずという社員ばかりで時間の観念がなかった。
ただ、中卒の社員は夜間高校に通うため定時に帰らせる。それが高卒になると、当然のように何時間でも上司に付き合わされ、時には日曜まで駆り出される。そんな不満が積み重なっていたようだ。
彼がいくら説得しても、「毎年の賃上げは何パーセント、ボーナスは何カ月と約束してくれなければ辞めるだけだ」と譲らない。
そこで幹部とひざを突き合わせての交渉が3日間にも及んだ。稲盛は「来年の賃上げは何パーセントというのは簡単だ。でも実現できなければウソをつくことになる。いい加減なことは言いたくない」と誠意を込めて説得する。すると一人、そして一人とうなずき、最後に一人だけ残った。「男の意地だ」となお渋る一人に、「もし、お前を裏切ったら俺を刺し殺していい」と迫ると私の手を取って泣き出した。この時、はじめて会社責任の重さと経営責任の永続性に気付いたのだった。それを次のように述懐している。
そもそも創業の狙いは自分の技術を世に問うことであった。この反乱に出会って私の考えは大きく変わった。こんなささやかな会社でも、若い社員は一生を託そうとしている。田舎の両親の面倒をろくにみられんのに、社員の面倒は一生みなくてはいけない。これが会社を経営するということなのか。
この体験からこんな経営理念を掲げるようになった。「全従業員の物心両面の幸福を追求する」。私の理想実現を目指した会社から全社員の会社になった。生涯かけて追及する理念として、この後にこう付け加えた。「人類、社会の進歩発展に貢献すること」と。(「私の履歴書」経済人 36 194~195p)
これがのちに「京セラフィロソフィー集」に結実する。「人間として何が正しいのかで判断する」「公正、公平、誠意、正義、勇気、愛情、謙虚な心を大切にする」などを決めた。その後も新しい事業に取り組む前に、「国民の利益のためにという使命感に一点の曇りもないか」「動機善なりや、私心なかりしか」を自分に厳しく問い詰めて着手し、多くの人の支持や協力を得て、事業成功に導いたのだった。
整理分類に効用あり
「大正13年(1924)シンガポール生まれ。昭和21年(1946)東京工業大学卒、石川島芝浦タービン入社(昭和36年(1961)石川島播磨重工業に合併)。同58年(1983)社長。平成7年(1995)会長。同18年(2006)死去、82歳。」
*戦後の昭和21年(1946)9月東工大を卒業して、石川島芝浦タービンに入社した。そのときの社長が土光敏夫であった。戦後だから全てがモノ不足であった。製図のためのエンピツも消しゴムも満足になかった。ちびたエンピツを大事に大事に、もうこれ以上は書けないというギリギリのところまで使った。消しゴム代わりにはパン屑、この屑のチリを清掃するのに鳥の羽など生活の知恵を発揮してタービンの「技術開発」に努めた。彼は親しみやすい性格なのかニックネームが多く、「ネアカ社長」「消防自動車」「休まない社長」「メモ魔」などであったという。
「メモ魔」はメモするだけではダメで、それを分類・整理する必要がある。筆者にとってもとても参考になった事例であるが、彼はこのやり方を次のように紹介してくれている。
「国際的に仕事をする上でも、多様なデータ収集が必要になる。そうしたデータを私は、寝る前にメモしておく。あるいは自分の部屋でファイルする。内容は、ジョークとして使える話から、知的世界を広げてくれる情報まで、いっさいである。
「メモ魔」と私が呼ばれるのはこのためだが、収集場所は、飛行機に乗れば、持ち帰り自由の機内誌がある。自分に必要なページを切り取って、ファイルに挟む。新聞、社内報、広報誌、要するにあらゆるものが対象になる。
とにかくこうしたデータを、テーマごとにアルファベット順に入れていった。Aのコーナーにはアジア関連があり、Hはヒストリーで世界史年表が取り出せる。」
(「私の履歴書」経済人三十一巻 312p)
「明治36年(1903)愛知県生まれ。昭和3年(1928)京大卒、名岐鉄道(のち名古屋鉄道)入社。同20年(1945)運輸部長の職責のまま名鉄労組の初代執行委員長となる。同36年(1961)社長。同46年(1971)会長。同49年(1974)死去、70歳。「労務の土川」として知られ、犬山モンキーセンター、明治村など中京圏振興に貢献した。」
*土川は左遷を何度も経験し、自らの「左遷哲学」の会得でこれを克服した。名古屋鉄道を一地方の鉄道会社から、多角的・全国的な事業展開をおこなう複合企業体へと変貌させ、「名鉄中興の祖」とも呼ばれている。
社内では典型的な「ワンマン社長」として君臨したが、左遷時代の体験から「労務管理」の重要性を認識し、労働組合との関係も「労使対決」よりも「労使協調」型を重視した。そして、「社会貢献・株主利益・社員利益」の利益3分配を提唱し「労使一体感」の醸成に成功する。しかし、彼はこの目標達成のために合理化委員会を設置して、次のルールを決めて取組んだ。この具体的な会議ルールは、現在に置いても大変参考になると思うので紹介する。
「合理化委員会にはいろいろの分科会を設けて会社全体を洗いなおした。委員はおよそ十人程度で、分科会には研究員を配置した。私はこの研究活動の方法を次のように決めた。
一、抽象論はやめる。
二、現状に拘泥しない。いっさいの社内規則、時には法律も白紙として研究する。
三、体面論を否定する。
四、感情論を否定する。
五、七分三分の原理に従い、採決は満場一致をとらない。七分の賛成があればテストし、テスト期間中に訂正していく。
六、合理化は時間のファンクションであると自覚する。
このほかに経費の一0%以上の節約にならぬことはしない、合理化への投資も一年以内に戻らないものはやらないこと、などがあった。
合理化委員会は画期的な成果を収めた。委員会発足後二ヵ年にして二十億円以上の経費節約に成功した。その一例を紹介すると、予算統制分科会は新しい予算制度を誕生させた。予算というとすべて金の面ばかり考えられるが新しい制度は物を対象とすることとした。過去の予算は資金が計画を左右したが、新制度は計画が資金を左右するのである。したがって予算編成は財務担当の手からコントローラーの手へ移った。
(「私の履歴書」経済人十三巻 284,285p)
店舗施策では
ここでは、業種・業態を超えて多店舗展開をする経営者に登場を願い、その店舗経営の極意を集めました。
ファミリーレストランの草分け的存在である江頭は、大正12年(1923)福岡県に生まれる。昭和20年(1945)明治大学専門部を中退し、米軍基地でコック見習いを始める。22年(1947)に米軍基地の指定商人になり、理髪店、自動車修理、写真現像などよろずや商売を始め、25年(1950)キルロイ特殊貿易(のちのロイヤル)を設立し、社長となる。27年(1952)ロイヤルベーカリーを設立すると、ベーカリー、レストラン、アイスクリームの3事業に拡張を行なう。その事業が順調に伸び始めた矢先、脱税行為で摘発され追徴金と重加算税の支払いでとん挫するが、31年(1956)新生ロイヤルとして、ゼロから再出発する。
その後、昭和45年(1970)大阪万博の成功により、ロイヤルは九州地区から全国区の外食産業に乗り出す。事業も陸(自動車)、海(カーフェリー)、空(飛行機)の3分野で多角化を進め、工場建設やレストランの店舗展開も急拡大した。それは店舗の基本プランを、ロイヤルの名前にふさわしい一流の、アメリカの世界的なレストラン厨房設計者、スタン・エイブラスに依頼できたことだった。
彼はこのエイブラスから店舗のコンセプトに対して重大な助言をもらい、以後、店舗づくりは最初にテーマとストーリーを考えてイメージを固め、料理や価格、数字や原価計算はあとまわしにして成功する。彼は当時を振り返り、次のように語っている。
「イメージをつかみたいと年明け早々来日した同氏との初めての打ち合わせの日、『まず、あなたが今度つくる店のフィロソフィー(哲学)は何か』と質問を受けた。当時の私には理解がつかず『哲学はない』と言うと、彼は手にしていた鉛筆をポンと投げだし、『やめた。オーナーの哲学がない店の設計は引き受けられない』と言った。びっくりして、『あなたの言うフィロソフィーとは何かを教えてくれ』と聞き返すと、彼は時間をかけて説明してくれた。
そして『日本の国際ハブ空港のメーンレストランということは、直行便で行けるロンドンやニューヨークの空港のメーンレストランと隣同士。そこに引けをとらない料理や店をつくる。これがあなたの一番大切にすべき哲学ではないですか』と言ってくれた。私は大変感銘を受け、それからは一つ覚えのように、『この店のフィロソフィーは何か』を考えるようになった」(『私の履歴書』経済人三十五巻 66、67p)
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店舗は立地場所により、客層や品揃え、価格帯、サービス形態などが変わってきます。
その店舗単位の主張個性であるフィロソフィー(哲学)やコンセプト(基本的な概念)を明確にして店舗づくりを行なわないと、立地のよさや店舗の品質を発揮できないおそれがあります。
チェーン店舗の場合は同一イメージが大事ですが、店舗に個性をもたせる場合は、フィロソフィーやコンセプトが大切と教えてくれました。
鈴木はセブン‐イレブン・ジャパンを創設し、社長となり、平成4年(1992)、親会社のイトーヨーカ堂の社長にもなる。同17年(2005)セブン&アイホールディングスを発足させ、コンビニ、スーパー、レストラン、銀行など7つの事業会社を統率している。
昭和7年(1932)長野県生まれの彼は、昭和31年(1956)に中央大学を卒業後、東京出版販売(現:トーハン)に入社する。6か月後に出版科学研究所に出向となる。そこで出版物に対するデータ収集と分析をやらされるが、ここで経営における2つの重要な視点を体得することができたという。それは統計学と心理学である。
データを作成する側を経験したことで、世間に出回るデータを見ても必ずしも鵜呑みにしない目が鍛えられ、ちょっとしたデータの変化にも突っ込んで考える習性を身につけた。
彼がのちに「現代の消費社会は経済学だけでなく心理学でとらえなければならない」と、心理学経営の重要性を唱えるのは、ここでの体験からである。
7年半の東販時代ののち、昭和38年(1963)に30歳でイトーヨーカ堂に入社。1972年、米国セブン‐イレブンと提携交渉を始めて3年後、セブン‐イレブン1号店を開店させるが、売上は大幅に増加しても在庫の山が原因で利益は出ない。
その原因は、商品の仕入れがロット単位であるため、よく売れるものはすぐ売り切れるが、あまり売れないサイズや商品はどんどん在庫が溜まるからだった。
彼は、のちに親会社のイトーヨーカ堂でも業務改革委員会を発足させ、「業革」と呼ばれるこのプロジェクトで徹底したのは、一つひとつの商品の売れ行きと在庫を管理する単品管理、特に死に筋商品の排除だった。
単品管理の重要性は、流通業だけでなくメーカーでも同じだが、彼はこの単品管理を全社に浸透させた苦労を、次のように語っている。
「『在庫のロスを減らせば利益は倍増する』。そう訴えて、不良在庫が利益を食いつぶす現状や、死に筋が滞留して機会ロスを生じさせている現実を直視させようとした。だが、営業担当者たちは『在庫を減らすと売り上げが落ちる』『豊富な品ぞろえこそがスーパーの特徴だ』と、過去の経験から抜け出せない。『販売経験のない人間に何がわかる』とまたも反対された。このとき営業部門を統括する常務の森田兵三さんが、『この際実行してみよう』と後押ししてくれたのは心強かった。
人間は仕事の仕方を変えることに強く抵抗する。改革はむしろ経営破たんした時の方がやりやすく、まだ大丈夫だと思っているときが一番難しい」(「日本経済新聞」2007.4.20)
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鈴木は「人間は仕事の仕方を変えることに強く抵抗する」と考え、コンビニ経営の店長募集にも「経験不問」としています。
過去の経験や成功体験が、かえって顧客データを重視する経営の障害になるためでした。情報技術の著しい発達により顧客データ、天気情報などあらゆるデータの収集が容易になっているので、変化の激しい今日、そのデータを素直に読み、取り組む必要があります。
「昭和12年(1937)埼玉県生まれ。16歳で上京。見習いコック、バーテンダー経験。19歳のコーヒーショップ店長。昭和34年(1959)ブラジルに単身渡航。コーヒー農園工場の現場監督。世界一周後に帰国。昭和37年(1962)ドトールコーヒーを創業、社長。フランチャイズ展開。平成3年(1991)ハワイにコーヒー農園取得。平成12年(2000)東証一部上場。平成17年(2005)会長、同18年(2006)名誉会長。」
*鳥羽はブラジルコーヒー農園での修業後、昭和37年(1962)24歳の春にドトールコーヒーの卸業を設立した。コーヒーの卸先は徐々に増えていったので、同47年(1972)店頭でコーヒー豆も販売するコーヒー専門店を開店させる。直営一号店のコンセプトは「健康的で明るく、老若男女とも楽しめる店」の「カフェコロラド」であった。このコロラドの大成功でチエーン店を希望するオーナーが続々と現れ、急激に店舗網が拡大していった。
しかし、オーナーの性格などにより経営不振に陥る店もあった。彼は当初どう対応したらよいか分からず非常に苦しんだという。しかし、悩みに悩んだ揚げ句、電撃の如く「店の魅力、商品の魅力、人の魅力」と閃めいた。店の魅力とはお客様に、そこにいる事が何とも心地いいと思ってもらえることで、しかも、外から見て気持ちよさそうだと感じなければ入ってきてくれないと気づいた。かれは、その気づき場面を次のように語っている。
「その事を何度も指導するうち、オーナーと私の「魅力の基準、努力の基準」が違う事に気づいた。そこで社員と共に不振店に行き、装飾物を全部外して作った時の状態に戻し、徹底して清掃した。外観の塗装をやり直し、壁や床、椅子も磨き込み、その上で私の基準で絵、花、置物、椅子などを置き直し、売店の商品も並び替えた。店は見違えるようになった。翌日から売り上げは二割増えた。」(日本経済新聞 2009.2.23)