「経営の師」として、たくさんの財界人から崇められる松下幸之助をはじめ有名経営者が披歴する経営の原点。「どのような考え方や取組み方が必要か」が解ります。
経営の原点として
出光は、恩師の水島銕也神戸高商校長の影響で、社員を家族のように扱う大家族主義の経営方針を貫き、非上場の大会社として長く人員削減をしなかった。
明治18年(1885)、福岡県に生まれた出光は、明治42年(1909)、神戸高等商業学校を卒業したが、周囲の非難をよそに、酒店の前垂れ掛けの丁稚奉公を始める。
しかし2年後、福岡の実家が破産、両親や兄弟の面倒を見る必要が出たため、門司に出て石油店を開業した。生業を石油に決めたのは、毎日需要のあるものにすべきだと考えたからだった。
しかし、彼が仕事を始めて6、7年目に「自分が油を高く売れば向こうが損をする、向こうが安く買えば自分が損をする」ことに対して疑問を感じ始めた。
その頃、第一次大戦が始まったため、彼は、戦争のため油が足りなくなることは必至であると思った。しかし、消費者はそこまでは思い至らない者が多く、出光はいまのうちに消費者に手当てをしておく必要があると思い、商売気を離れて油の用意をした。
その結果、彼の客だけは油が不足して仕事を休むようなことはなかったという。
ところが、ほかの事業会社では油が切れて事業を休んだところがたくさん出た。ただ客のために油を用意しただけだったので彼に儲けはなかったが、それが思わぬ結果となった。出光はそれを、商人の使命として次のように語っている。
「しかし戦争が済んだら、油は出光にまかせておけということになった。私は金はもうけなかったが得意先をもうけたのだ。これは大きな商売である。ここに商売人の使命ということを知ることができた。専門家として、油の需給状況を調べて消費者に知らせる、これは大きな私たちの使命である。生産者に消費の状態を知らせて生産者の向かう道を知らせる、これも使命である。商人にはそういった使命というものがあるということを知って、いままでおれがもうければ人が損をするというナゾが解けた」(『私の履歴書』経済人一巻 332p)
この「経営の原点」の項でわかることは、「企業は社会からその存在価値を認められて存続することができる」ということでしょう。一時の利潤ではなく、長い目で見て商人の使命を果たすことで消費者に喜んでもらう商売ができれば、企業存続はできるという好例です。
松下は、「私の履歴書」に登場する経営者から最多の引用で出てくるが(第四章参照)、多くの人に経営についてわかり易く語り、多大の影響を与えている。
日本屈指の経営者として「経営の神様」とも呼ばれた松下だが、平和と幸福を求めるPHP(“Peace and Happiness through Prosperity”の頭文字。“繁栄によって平和と幸福を”という意味)による出版・普及活動や、松下政経塾の創立による有為な政治家の育成を図るなど、多方面で活躍した。
明治27年(1894)、和歌山県に生まれ、9歳で大阪に出て自転車店で丁稚奉公を始めた松下は、その後、大阪電灯(現:関西電力)勤務を経て大正7年(1918)に独立する。それが、松下電気器具製作所(のちの松下電器産業)である。創業者の松下が大阪電灯を退職し、義弟・井植歳男(のちの三洋電機を創業)らとソケット製造を開始したのが始まりだ。
松下電気器具製作所は昭和10年(1935)には株式会社に改組し、松下は「生産者の使命は、この世に物資を満たし、不自由をなくし貧しさを克服することにある」という、水道水にたとえた有名な〝水道哲学〟を提唱し、事業を繁栄させていった。
昭和38年(1963)には、ニューヨークで開かれた国際経営科学委員会(略称CIOS)に招かれ〝私の経営哲学〟と題し、世界の経済人に対して講演をしている。
ここで彼は、まず経営ということに触れ、「ケネディ大統領の行なうアメリカ国家の経営も、町の小さなドラッグストアの経営も、どちらも同じ経営である」という話から始めた。
国の経営の意図するところは、その国の発展、繁栄であり、また国民の幸せである。一方、ドラッグストアの経営は、顧客のためにいろいろ注意を払い、サービスを完全にすることである。
どちらも本質的には同じような意図に立っているが、むずかしいのは、どうすれば国民を幸せにできるか、どうすれば顧客に対するサービスが適切に行なえるかということである、としている。
そして、経営者の哲学と経営理念の大切さを、次のように指摘している。
「そこで非常に大きな問題になってくるのが経営者ということである。すなわち、それぞれの経営体にふさわしい適切な経営者というものが要求されてくるのである。そしてその経営者に、最も大切なことは、自己評価ということである。(中略)
経営者の厳しい自己評価ということと合わせて、その経営理念がどこに置かれているかということになる。その理念が、単なる利害、単なる拡張というだけではいけない。それらのことが、いわば何が正しいかという人生観に立ち、かつ社会観、国家観、世界観さらには自然の摂理というところから芽生えてこなければならない。」
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松下は今から50年(1963)も前の時点で、経営者は自然の摂理に合わせて自己を律し、自己の血肉と化した人生観、人間観、世界観をもった経営理念が大事だと説いています。それはトップとして経営のグローバル化、民族や社会との共生を念頭に入れ、トップの「ものの見方、考え方」がいかに大切かを教えてくれています。
この経営理念で経営を行なったため、早くからアメリカや中国など世界各地に進出することができ、現在のグローバル企業に大成長したのでした。
森は、大倉高等商業学校(現:東京経済大学)講師を経て、同7年(1932)、京都高等蚕糸学校(現:京都工芸繊維大学)教授や、同21年(1946)、横浜市立経済専門学校(現:横浜市立大学)教授を歴任する学者・教育者であった。彼は森不動産を設立後に経営者となり、地価の高騰もあってアメリカの「フォーブス」誌の1991、92年の世界長者番付で世界一にランクされた。
明治37年(1904)、東京都生まれの森は、小学校時代から家業である米屋や大家業を手伝っていた。そのため、小学校を卒業すると、どこに進学するか悩まずに、近くにある大倉高等商業学校(現:東京経済大学)に入学する。商売の実践を家業で身につけながら、学校で商業の理論を学ぶことで、ますます商売が面白くなったという。
しかし、キリスト教の洗礼を受けたのち、不幸にも胸を患って1年間、療養生活を送ることになった。そのときに、キリスト教思想や左翼思想、夏目漱石、芥川龍之介など、自由主義思想の本を幅広く読書することができた。ところが、今まで何も疑いをもたなかった家業の商売に疑問が湧いてきた。家賃という不労所得で成り立っている商売はブルジョアではないのか、社会的弱者を搾取しているのではないか、という気分になってきたのだ。そこで、商業学校を卒業して米屋を継ぐことでは、男の生き方として小さいと感じ、東京商科大学に進んだ。この大学でめぐり合った生涯の恩師・上田貞次郎教授によって、森の永年の思想的な悩みは解決された。森はそれを、次のように語っている。
「企業経営で利潤追求は必要条件ではあるが、もっと大事なのは社会に役に立って喜んでもらうことだ。その貢献度に応じて利潤を得られる。だから一生懸命がんばって大きな貢献ができれば、その結果として収入も増える。生活も豊かになり、社会的な名声も上がり、人間同士の関係も楽しくなる。これが上田先生の教えであり、森ビルの経営理念でもある。
(中略)
僕の迷いをばっさり切ってくれる理論に巡りあえた思いがした。家賃収入という不労所得を得るのは社会悪だという考え方に対し、自分たちの事業に正当性を与えてくださった。イデオロギー的アレルギーから解放していただいた。(中略)
僕は、地上げは落語の『三方一両損』ではなく『三方三両得』でなくてはいけないとも思っている。権利者と開発業者の森ビル、地域という意味の公の三者がかなり得しなくては本当の地上げではないという考えだ」(『私の履歴書』経済人二十八巻 425、447p)
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学者肌の森にとって、自分が納得した経営理念でなければ、事業やステークホルダーを引っ張っていくことは難しかったに違いありません。その意味で、彼は事業の正当性を与えてくれた上田教授を生涯の恩師として仰いでいます。ちなみに、ほかにも上田教授を恩師として仰ぐ人物にキッコーマンの茂木啓三郎がいます。
中内はダイエーの創業者であり、ローソン、福岡ダイエーホークス、ホテル、流通科学大学、リクルートなど、ダイエーグループの総帥者で、「流通王」「価格破壊者」「カリスマ」「流通の革命児」とも呼ばれた。
大正11年(1922)、兵庫県生まれの中内は、昭和16年(1941)、神戸高等商業学校(現:兵庫県立大学)を卒業する。同17年(1942)、日本綿花(現:ニチメン)に入社し、同18年(1943)陸軍に応召。復員後の同20年(1945)、神戸三宮に薬局を設立するとともに、旧制神戸経済大学(現:神戸大学)に進学するが、中退。同32年(1957)大栄薬品工業(のちのダイエー)を設立し、社長となる。その直後「主婦の店ダイエー」1号店を出店する。
13人の社員とともに100平方メートル弱の店舗でスタートしたダイエーは、平成6年(1994)、創業から37年がかりで北海道から沖縄までをカバーする、日本初の全国チェーンとなる。
年間売上2兆5900億円、店舗数356店で、中内の永年の夢であったナショナルチェーン構想は実現した。これにより、彼は流通業の革命寵児としてもてはやされることになる。
しかし、日々の生活必需品を安心して買える社会をつくろうと決意し、「良い品をより安く、より豊かな社会を」の会社憲法を前面に打ち出した創業期には、経営の精神的拠り所を求めて苦しんでいた。社業は好調だったものの、昭和45年(1970)に会長を務めていた父親が亡くなり、相談相手を失って経営に対する進路に疑問を感じたからである。
〝価格破壊者〟〝流通の革命児〟といわれていることが、果たして正しいことなのだろうか?」と、日夜悶々とする。そんなとき、精神的な救いを求めて、臨済宗妙心寺派の管長、山田無文老師を訪ねる。悩みを打ち明けた中内は、老師の次の説教で悟りを開く。当時を回想して、中内は次のように語っている。
「仕事の迷いや不安を話すと、老師は『大衆のためにという菩薩心から出発したから成功できたんや。スタートの気持ちを最後まで貫けば、いつ死んでもええはずや』と説教してくださった。酔いも手伝い、父の死後、頭を離れなかった迷いが少しずつ晴れるような気がした。
『社会が必要とするなら、あんたの会社はおのずと残る」
極め付きのこの一言で、命ある限り自分の信じる道をひたすら歩む腹を決めた。まさに『不惜身命』の心境である」(『私の履歴書』経済人三十五巻 366p)
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「価格破壊」を信条とする中内と「適正価格」が信条の松下幸之助との長年続いた「価格戦争」は有名な話ですが、お互いに流通業とメーカーの立場の違いによる経営と消費者に対する強い信念であるだけに、その妥協点を見つけるのは難しかったと思われます。
小倉は、企業など法人対象の貨物輸送に見切りをつけ、家庭にいる個人対象の宅配便を開発する際、当時の運輸省や郵政省と闘った経済人として、また、引退後は福祉事業に尽力している信念の人として有名である。
大正13年(1924)、東京都に生まれた小倉は、昭和22年(1947)に東京大学を卒業する。同23年(1948)、家業の大和運輸(のちのヤマト運輸)に入社するが、創業者の父親が脳梗塞で倒れたため、昭和46年(1971)、46歳で大和運輸の2代目社長に就任した。
しかし、営業部長時代に近距離・小口貨物輸送にこだわった父親を説得し、長距離・大口貨物に切り替えたが、経常利益率は下がる一方だった。加えて同48年(1973)の石油ショックで荷動きが急激に落ち、最悪な事態に追い込まれていた。
そこで抜本対策として「全国どこへでも、どんな量の荷物でも運べる会社」というコンセプトの運送会社像を模索していたところ、その第一のヒントを吉野家の牛丼商売に見出したという。
吉野家が、牛丼メニューを絞り込んで利益を増やしたことを大和運輸に置き換え、取扱荷物を絞り込むことに思い至ったのだ。
第二のヒントは小口荷物を送る場合、当時の国鉄(現:JR)小荷物や郵便小包などは面倒で日数もかかり、特に主婦たちが不便な思いをしていたことだった。
第三のヒントは日本航空が売り出していた「ジャルパック」である。航空券、市内観光など、旅行に必要なすべてをパッケージにし、誰でも安心して海外旅行ができるという、「旅行の商品化」だった。
小倉はこれらのヒントを総合的に考えたうえで、会社コンセプトを具体的な商品化計画にまとめ上げ、次のように解説してくれている。
「客は主婦だから、サービス内容は明快でなければならない。地域帯別の均一料金、荷造り不要、原則として翌日配達、全国どこでも受け取り、どこへでも運ぶ。目指すサービスの方向性が見えてきた。頭の中で商品化計画が固まっていくのは楽しかった。(中略)
宅急便の商品化計画で最も重視したのは、『利用者の立場でものを考える』ということだった。主婦の視点がいつも念頭にあった。
例えば、商業貨物では距離に比例して運賃が高くなっていくが、宅急便ではブロックごとに均一料金とした。東京から中国地方行きなら、岡山も広島も同じ料金。どちらが遠いのかなど主婦の関心事ではない。分かりやすさを最優先した。
山岳地帯や離島でも割増料金を取らないことにした。割り増しにしたら『ウチの親せきは好んで山や島に住んでいるわけではない』と不公平さを感じる主婦も出てくるだろう。コモンキャリアーを目指す以上、あまねく公平なサービスを提供するのが義務だと考えた」(『私の履歴書』経済人三十七巻 130、133p)
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この、取扱商品の絞り込み方、窓口の至便さ、商品のパッケージ化、価格の単純化などは、顧客志向の好例です。会社都合(プロダクト・アウト)ではなく、市場ニーズを形成する顧客志向(マ-ケット・イン)を重要視したものです。
この事業コンセプトにより、小口宅配便は急成長する事業に育ったのでした。
経営には重視順位がある
「株主」資本主義という考え方が優先された時期がありました。
企業経営者は経営において、企業の出資者である株主から見た収益の向上を何よりも優先させるべきであり、株主にとっての企業価値(株価)の最大化が企業経営者の最も重要な経営目標になる、という主張です。
そのため、経営者は短期的な業績向上に奔走し、2008年のリーマンショックで世界中の企業が大打撃を被ることになったのです。
しかし、そんな社会現象の中でもアメリカのジョンソン&ジョンソンは、2008年実績として、76年連続の増収、46年連続の増配を達成したと発表しました。その同社のCEOは、「経営における優先順位は、損益計算書の順」を企業原則として守っているだけだという。
すなわち、売上高の顧客、販売管理費の中にある人件費の社員、利益に対する税金支払いの社会還元、そして残った利益から配当金を支払う株主の順だというのです。
これと同じ優先順位で早くから日本で経営に取り組んだ人物が、伊藤雅俊でした。
大正13年(1924)東京生まれの伊藤は、昭和19年(1944)、横浜市立商業専門学校(現:横浜市立大学)を卒業し、三菱鉱業(現:三菱マテリアル)に入社するが、すぐ陸軍入隊となる。
戦後、三菱鉱業の職場に復帰し、昭和21年(1946)家業の羊華堂に入社する。同31年(1956)社長となり、チェーンストア制を進めながら33年(1958)、株式会社ヨーカ堂を設立。そして、49年(1974)に多角化の雄となるセブン‐イレブンの1号店を開店することになる。
伊藤は企業経営の順位を、イトーヨーカ堂時代初期の昭和43年(1968)に自分で作った組織図に集約して社員に見せた。それは、一番上が客と接する「店舗」で、「社長」が一番下にくる、逆三角形の図だった。
オフィスの机の並び方も、客、取引先のほうに顔を向け、管理職は一番うしろに位置しているものだった。伊藤はこの考え方を次のように説明し、周知徹底した。
「私は社是に掲げた言葉(私たちはお客さまに信頼される誠実な企業でありたい。私たちは社員に信頼される誠実な企業でありたい。私たちは取引先、株主、地域社会に信頼される誠実な企業でありたい)を繰り返し、念じ続けただけである。
お客様に信頼も満足もされない企業が満足に配当できるわけがない。株主上場後も、私の気持ちは、お客様、社員・・・の順で、株主は最後である」(『私の履歴書』経済人三十八巻 190、191p)
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この企業原則は、1960年代に伊藤自身が考え出したものです。
それがセブン&アイ・ホールディングスに受け継がれ、コンビニ、総合スーパー(GMS)、百貨店、食品スーパー、フードサービス、金融サービス、ITサービスなどの大事業群として成長しているのです。
今日までの企業発展に結びついていることを考えると、私はこの経営の順位の正しさと素晴らしさを感じます。
世の中の社会情勢や経営の環境変化で、経営トップの優先順位は違ってくる。
石川島播磨重工業(IHI)の田口連三社長は「営業の田口」の異名をとり、「他社商品との優劣はあまり変わらないのだから、社内で一番大事なのは営業力だ」と常に檄を飛ばしていた。
ところが、次の真藤恒社長は理路整然と「技術さえすぐれていれば、先方は黙って応対してくれる」と反論していたと、後輩社長の稲葉興作は「私の履歴書」で語っている。
どちらの社長もすぐれた経営力を発揮したのだから正しいと思うが、一般的には「販売の○○」と「技術の○○」を標榜して営業している場合、「販売の○○」という会社のほうが成長してきた傾向があるようだ。
キリンビールの佐藤安弘は、長らく傍流部門を経験したのち、社長となり苦労の末、発泡酒、缶チューハイ、ウイスキーの投入など、総合化戦略でライバル企業との市場シェアの低迷を食い止め、上昇気流に乗せたことで高く評価されている。
その彼が、自分の役員退任挨拶で社員に再確認を求めたのは、「売上を上げないと利益を上げられない」という観点に立った、社内における重視順位だった。
「最後の取締役会では『会社で一番大事なのは営業だ』と強調した。二番が製造で、私が長く携わった経理など間接部門はその次である。ビール会社はどぶ板踏んで一本一本売って歩くのが基本であり、販売できなければ生産してもしょうがない。こうした自覚があれば、間接部門もおのずと少数精鋭になるはずだ」(「日本経済新聞」2005.9.30)
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メーカーの場合、プロフィットセンターと呼ばれる利益を上げる部門は、営業、購買、生産などですが、営業部門が売りを上げなければ、他の部門もその能力を発揮できません。
企業は売上を上げ黒字化して納税しなければ、社会的に評価されません。この点を社員にあえて鋭く社内順位で指摘し、注意を喚起したものといえるでしょう。
ここでは、「私の履歴書」から「優先順位」について述べているものを紹介しました。
優先順位には、経営の順位、社内職能の順位、仕事の順位などがあり、それを各トップが明確化することで社員が共有でき、企業の羅針盤として働くエネルギーにつながっていることがわかります。
ヤマト運輸の小倉昌男は「私の履歴書」のなかで、「出向先の運送現場には『能率向上』の貼り紙はあっても『安全・第一、能率向上・第二』はなかった。この職場で運転事故が多発するのを見て、『安全・第一、能率向上・第二』と明確に順位づけ、周知徹底を図り事故を激減させた」と述懐しています。
市場環境や職場環境によってその順位が変わることがありますが、この順位明示も経営トップの重要な仕事になります。
事業の具体的選別方法
ウェルチは、昭和56年(1981)に46歳で社員40万人の大企業のトップになると、ただちに大胆な事業再編を進め、発電、ジェットエンジン、医療機器、放送、金融サービスなど、戦略的に重要な部門を重視する総合企業に変身させた。
社長就任当時はアジアからの脅威がヒタヒタと押し寄せ、ラジオ、カメラ、テレビ、鉄鋼、造船、そして自動車と次々に市場を奪われ始めていた。GEには家電製品など価格競争力の弱い部門がいくつもあったので、長期的に競争に勝てる見込みのない事業は撤退することに決めた。
なかでも82年半ばに従業員2300人を抱えるエアコン事業を業界トップの家電メーカーに売却したときは、GEでも大騒ぎになった。家電部門の主力工場で製造していたが、市場シェアが10%しかなく、利益率も低かった。
特にエアコンは、取り付け業者の工事がいい加減だったり、委託業者のアフターサービスが不十分だったりで、苦情が直接GEに来ることが多かったからだ。この事業選別の具体策は、ウェルチの経験とピーター・ドラッガー理論との合一で生まれたものだが、ウェルチは当時を述懐して次のように語っている。
「ドラッガー氏には非常に厳しい質問を突きつけられた。『この事業をこれまでやっていないとしたら、今日これから新しく参入したいとおもうか』。答えがノーなら『では、この事業をどうする』だ。単純な質問だが、それだけ底の深い質問だ。私の答えは『直すか、売るか、閉じるか』の選択しかない。(中略)
私はこの『一、二位』理論を説き続け、最初の二年間に七十一事業の生産ラインを売り、五億ドルの売却益を得た。どれも規模は小さいが、社内の意識を変える効果は大きかった」(「日本経済新聞」2001.10.23)
* *
1980年代にウェルチが事業の「1、2位」理論を実践・断行し、GEを大躍進させました。
1990年代には日本企業がバブル崩壊期に突入し、低迷していたため、この理論と「選択と集中」理論が日本でも大きく採用され、事業のリストラクチャリングを行なうことになります。
ウェルチのこの理論は、全世界に大きな影響を与えることになったのです。
後継者問題では
欧米型の実力主義の人事制度も上から始めた。当初、人事担当が一斉に導入しようとするのをやめさせた。上にいる者が信賞必罰の範を示さなければ改革などできない。第一陣は経営幹部、次いで管理職、社員はその後だ。「偉い人たちは安全地帯にいて」と思われたら社員はついていかない。
後継者登録制度はうまくいかなかった。幹部社員に自分のポストを引き継ぐ候補を何人か選ばせるようにした。早くから幹部候補生としてさまざまな経験を積ませる趣旨であったが、人事がからむとどうしても疑心暗鬼になる。名前は公表しなくても、薄々感じて、やる気をなくす人まで出てしまったのだ。(日本経済新聞 2004.11.26)
勇退を決意したジャック・ウェルチが後継者に誰を選ぶか……。最高経営責任者(CEO)最大の課題だった。
レグ・ジョーンズGE前会長が、昭和54年(1979)1月から2年かけてウェルチを後継者に選んだが、その間、ウェルチは直接前会長からインタビューを何度か受け、「GEの課題」や「その解決策」など、資質を試される質問を数多く投げかけられた。
前会長は並行してほかの候補者にも同じように質問を繰り返しながら、それぞれの長所や短所、知性、指導力、人格的な信頼性、それに外部でのイメージなども聴取した。そして誰が誰とウマが合うかも知りたがり、各自の回答を求めた。
ウェルチはこのときの経験を活かし、自分が20世紀を締めくくり、新会長が新世紀の門出を担うことを想定し、平成6年(1994)春から、次のCEO選びに取り組み、6年かかって1人に絞り込んだ。
後継者は最低10年間は勤めることを前提に、交通事故などの緊急事態が発生した場合に誰がふさわしいかというリストをつくった。最初にあげたのが23人。全事業部門の優秀な人材を網羅し、最年少が36歳、最年長が58歳だった。その全員について、2000年までにどんな仕事をしてもらうべきかを考え、特に若い人には国際的に活躍する場を設定した。
ウェルチが後継CEO候補として重視した資質は、
①常に何を求めているか首尾一貫していること
②形式張らずに自由で気楽な雰囲気をつくれること
③傲慢(ごうまん)と自信の違いを知っていること
④人が第一、戦略は二の次と心得えていること
⑤実力主義で明確に差別待遇できること
⑥現場主義者であること
の6点で、厳しく人選を行なったという。そして社外重役を中心とする経営開発委員会に、次のように委ねた。
「経営開発委員会に『理想のCEO』の条件と候補名を示し、以後、二十三人の人事異動はすべてCEOに足る人物かどうかをテストする形で行なった。毎年六月、十二月の経営開発委員会にはその結果を報告した。社外重役たちが候補者たちと接する機会として四月、七月にはゴルフ・コンペやテニス大会を開き、夫婦同伴のクリスマス・パーティも催した。九十八年六月に候補を八人に絞り、同年末には最後の三人にまで絞った。(中略)
そして、私はジェフ・イルメイトを選んだ」(「日本経済新聞」2001.10.30)
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一般的に、日本の社長在任期間は長くて3期(6年間)です。順調に業績を伸ばすことができれば、代表権をもった会長として2期または3期まで会社にとどまり、経営にタッチすることになります。
しかし、役割分担で経営の執行は社長に任せ、会長は財界活動や業界団体活動に軸足を移していきます。ところが外国の場合、CEOは社長兼会長で経営の全責任を負い、経営も業界団体活動もすべて担当するのです。
そのため、後継社長は少なくとも10年以上担当できるタフな精神と肉体をもち、有能な人物でないと務まりません。その人材を選択するために複数の社外役員を入れ、公平性と透明性を加味し、慎重に時間をかけるのでしょう。
M&Aには
M&Aのメリットは、企業が多角化を進める場合でも、現在の中核事業の販路開拓や原材料調達の拡充、新技術の取得などが目的の場合でも、蓄積した手元資金を使って資本参加すれば時間節約で経営資源を増加させ、企業価値を高められることです。
一方、デメリットは、企業風土が異なる企業同士を融合させるため、お互いの信頼関係を築くまでに時間がかかり、期待した融合結果がなかなか出ないことでしょう。
時間がかかるのは仕方がないにしても、最悪の場合には有能な人材の退職や優良な得意先まで失ってしまい、1+1=2になるどころか、マイナスになってしまうケースも散見します。
ここでは、M&Aのタフな交渉で成功した事例と、注意しなければいけない事例を採り上げました。
砂野は川崎造船所、川崎航空機、川崎重工業の川崎系3社の合併を果たした人物として記憶されている。
砂野は明治32年(1899)京都府生まれで、大正15年(1926)に京都大学を卒業する。昭和2年(1927)川崎造船所に入社し、労務畑を歩むが、同17年(1942)、川崎航空機に転出。
同34年(1959)川崎重工業に専務で復帰したのち、昭和36年(1961)に社長に就任するが、その前後に3回合併に失敗したことを悔やんでいた。しかし、昭和37年(1962)ごろから海運市況も立ち直り、内外船主の新型造船意欲が急に盛り上がってきたため、失敗の教訓を活かして新造船所の建設や合併の推進などを行ない、大きく業績を伸ばすことができた。
M&Aは事業の強化や補完を短期に成し遂げるので便利だが、両刃の剣でもある。昭和14年(1939)に山下汽船が大阪商船と組んで、川崎造船の株式を取得し、「日本の海運界に君臨せん」と企てたことがあった。
そのとき、砂野は川崎造船にいて、当時の幹部と一緒に猛反対の運動を起こし、最終的には白紙に戻した苦い経験もしている。
その際、砂野が痛感したのは、合併の成否は幹部の十分な了解とともに、従業員がこれを支持するか否かにかかっており、無理すれば人心の荒廃を招き必ず不測の災厄が生ずることであった。
M&Aが終わったあとの企業価値を考えて、被買収企業の財産価値(経営資源)を減じないように配慮した、節度ある行動が望まれると次のように語っている。
「当時は株式を保有すれば当然経営権は移転するというのが常識であり、買占め側にも他意はなかったと思うけれども、時まさに臨戦体制下であり、川重側の再三の買戻し希望を無視して事を行なわんとしたところに無理があり、不純さがあった。当時の前社長、平生釟三郎さんなども理性の人であったから株式を取られてしまったのでは仕方がないとあきらめておられたようであった。
私がここに、この不快な記憶を書きとどめんとする理由は、いかなる時代であっても経営権を取得するには一定の節度があり、権力にものをいわせて無理押しするがごとき手段ではとうてい成功しないし、また一時成功したとしても長い目で見れば不成功であることを、人々に知ってもらいたいためである」(『私の履歴書』経済人十二巻 306p)
* *
最近の内外のM&Aを見ると、ライブドアによるニッポン放送事件、外資ファンドによる小糸製作所、カゴメ、アデランス、サッポロビールなどの事例がありました。
資本の論理だけで合併を進めようとする風潮もありますが、砂野の発言はこれに警鐘を鳴らすものでしょう。
幾多のM&Aを成功させ、日本電産グループ企業を成長させ続けている永守重信社長のような例もありますから、これを成功させるのは最終的には「トップの経営力」につきます。
しかし、M&Aは買収後に被買収企業の財産価値(経営資源)を減じないよう配慮した友好的なM&A交渉が望まれます。
金川が社長を兼務しているアメリカの子会社シンテックは、2007年12月期の決算の売上が2300億円、純利益230億円、社員数は約230人で、うち工場が約200人、営業担当はわずか8人である。
そのうえ、専門の財務担当者はいない。金川の秘書を務めるアメリカ人女性は、売上代金を回収する仕事も兼務しているという。一人当たりの純利益が1億円という、すばらしい利益世界一企業である。
金川は昭和25年(1950)、東京大学を卒業後、極東物産(現:三井物産)に入社する。この商社勤めを12年続け、信越化学に転職。その主な理由は、商社では販売する商品の品質に対する最終責任をもてないことだった。
メーカーの信越化学に入り、海外事業部で活躍する。ここで、生涯の恩師として尊敬する小田切新太郎社長の信頼を得て大活躍し、抜擢の社長就任につながった。
金川を大きく成長させ、国内外で評価されるようになった転機は、アメリカのロビンテック社の子会社、塩化ビニール製造・販売のシンテック社のM&Aであり、その後の卓越した同社経営手腕である。
そして当初のM&A交渉でシンテックに50%出資したあと、ロビンテックから要請された残りの50%を買い取り、完全子会社化して収益力世界一の優良企業につくりあげたからだ。
このM&A交渉は信越化学にも彼にとっても命運を決するものだったが、交渉成功には、金川の交渉能力、語学力、胆力などのほか、彼に対する小田切社長の全面的支援があり、金川はそれを今もって感謝しているという。
交渉の席上で、相手方CEOの恫喝的な逆提案には驚いたものの、金川は外国との交渉にはこういう場面はよくあることだとし、それを次のように語っている。
「ロビンテックが信越化学にシンテック株五〇%の買い取りを求めてきた。そこで、信越化学の取締役になっていた私が交渉の責任者になった。
当初、ロビンテックが希望した売却金額は当社の購入希望額のほぼ倍近く、交渉は難航した。まだM&A(企業の合併・買収)の経験がなかった私には未知の世界だったが、弁護士と公認会計士に一つ一つ確かめながら、粘り強く話し合いを続けた。
交渉中、コーベットCEOが突然立ち上がり、『我が社は今日の午後、信越化学の銀行口座に買収資金を振り込む。交渉はこれで終わりだ』と叫んだこともあった。一瞬、何のことだか分からなかったが、『シンテック株をそんなに安く評価するのなら、こちらが逆に買ってもいいぞ』という意味だったらしい。
交渉の駆け引きだが、私もそんなことでは動じない。ビジネスで世界中を歩き、修羅場をくぐり抜けてきたという自負がある。相手が米国企業であっても『アメリカが何だ。私の相手は世界だ』という思いがあった。
シンテック株の買い取り交渉は七六年に決着した。信越化学の買収金額は一千万ドルで、円換算では約三十億円。今見ると小さな金額のようだが、信越化学の当初利益は七六年五月期決算で十二億七千万円弱にすぎず、当時の我が社にとっては社運をかけた大型買収だった」(「日本経済新聞」2006.5.21)
* *
このM&Aには後日談があります。
金川は、「買収先企業の売上を常に確実にしておくことが経営の要諦」とし、M&Aの交渉期間中から、その企業の取引先や従業員への信頼関係を築いていたことでした。
優良な取引先には直接訪問し、誠実な話し合いで業務の継続を確認し、従業員には「解雇は絶対しない」として信頼関係を築いていたのです。
シンテックの経営が順調に伸びていったのも、買収後の経営が安定するよう、事前にリスク回避に手を打っていたからでした。
社外役員になって
英国ICIでは当時、八人の社内役員の他に六人の社外役員がいた。日本人で海外の大企業の社外役員になるのはそのころは極めて珍しかったが、英国でもこの新聞発表は大きな反響と好感を持って迎えられた。
ICIの売上高は私が就任した年には約百億ポンド(当時のレートで約二兆五千億円)で、その半分は欧州、四分の一が米州からだった。この時期、日本およびアジア市場でのシエアを高めることがジョーンズ会長の目標だったようだ。略。
会長からは事前に社外取締役の役目として、役員会での討議で経験や経歴に基づく意見を述べること、役員会の討論に客観性を与えること、国際的な問題について日本またはアジアの立場から議論に参加すること、その他各種委員会に参加すること、などが示されていた。委員会というのは、会長の任免、役員報酬などを話し合うから、客観性と透明性を要求される性質のものである。
役員会は毎月一回開かれ、社外役員は少なくとも年九回は出席しなければならなかった。毎回相当分厚い資料に目を通さなければならないので、結構大変な仕事だったが、興味もあったから、私は六年間ほとんど休まずに出席した。略
定例会のほかに各種の委員会や議題に関係ある事柄についてのプレゼンテーションなどが随時行なわれる。年に二回、一月と七月に開かれる会長と社外役員だけの夕食会では、重要な戦略事項や人事などについて非公式な意見交換が行なわれる。
株主総会は毎年四月末に開かれ、大抵はホテルなどの大きな宴会場が会場になる。壇上には会長を中心に社外役員を含む全役員が並び、会場の前列には報道陣や監査法人代表などが席を占める。三百―四百人が出席したが、二時間ほどかけて議長である会長が二十近い質問にほとんど一人で丁寧に、時にユーモアをこめて答えるのだった。 質問は業績、政治献金、女性の地位、株価、環境問題など多様である。女性株主が出席者の半分近く占めていたこともわが国と違っていた。
(「私の履歴書」経済人三十四巻 70p)
1997年から10年間弱つとめた米IBMの社外取締役だ。同社の最高経営責任者(CEO)だったルイス・ガースナーさんとは前々から親交があった。
(中略)
こうして参加したIBMの取締役会で度肝を抜かれたのが、後継CEO選びだ。6人の候補者の顔写真をスクリーンに映し、各人の経歴などを説明する。「私はまだ数年やるつもりだが、後継者は社内から選びたい」という。
さらに「社内で後継者を育てられなければ、それは私の経営が失敗したということです」ともいう。この言葉通り、ガースナーさんは2002年に後継者として、サミュエル・パルミサーノ現CEOを指名した。氏は6人の中でも、最有力の人物であった。
(日本経済新聞 2009.9.28)
二代目への提言
創業者が父親で、その事業を立派に引き継ぐことを期待された2代目は、自分が学校で受けた教育と父親の経営方針や方策と違っていることに困惑します。前近代的な経営ならば、なおさらでしょう。
企業は社会の公器として、「社会に貢献するよい会社を目指す」という目標は同じですが、親子の育った境遇の違いから、採るべき方針や方策の優先順位が違ってきます。そこに親子の対立が生まれ、社内には人心の動揺が起こります。
創業者の父親の立場から、立花証券の石井久会長は、「2代目は守一辺倒でよい。それに専念すれば没落することはない。そのためには人心を掌握して会社の内部を固めること。それが2代目の務めだ」と「私の履歴書」に書いています。
ここでは、2代目の立場から、父親の経営に反発をしながらもこれを克服した2例と、役割分担でスムーズな引き継ぎを果たした2例を紹介します。
湯浅は、明治39年(1906)京都府に生まれ、昭和5年(1916)に京都大学に入学するが、実家の危機に際し中退し、家業の湯浅七左衛門商店(湯浅金物、現:ユアサ商事)に月給20円の見習い生として就職する。
まず、青年店員を集め「啓発会」を作り、「○○どん」という呼称をやめさせ、日曜、祝祭日の休日を実施するなど、社内改革を推し進めた。
旧家のしきたりを重んずる両親とは対立するが、その反対を押し切って結婚もし、妻と一緒にキリスト教の洗礼も受ける。
また、世田谷に会社の独身寮を造り、人材を育てるため、自らは舎監となり、妻を寮母として青年たちと話し合いを続けた。昼は副社長、夜は舎監として、24時間体制で青年たちと話し合いを行なったことなどで過労がたたり、ついに入院することになった。そのとき、父親の怒りが爆発した。
昭和16年(1941)3月16日、入院中の彼に内容証明付きの速達書留が届く。その内容は「湯浅金物副社長罷免、株主権剥奪」とともに「湯浅寮閉鎖及び売却処分と寮生47名の解雇」を告げる、驚くべきものだった。
さらに、社長・副社長制を廃して専務制とし、父親は相談役として実権を振るう、また別に湯浅総事務所を創設して父親が家長として君臨する体制にした。それは、彼にとって父親からの強烈なしっぺ返しであった。
しかし湯浅は、健康を回復したあと、湯浅電池で再び専務兼舎監として日夜努力を続けた結果、生産量4倍半の実績を上げて会社に多大の貢献を果たし、病床の父親からもようやくその実力が認められた。後年、その苦しかった当時を振り返って、次のように助言している。
「家業の近代化に大きい貢献をした父だが、私の理想主義と相いれなかったのは前に述べた通りである。四人の子供のうち、ただ一人生き残った長男の私を入院中に罷免するほどのことをした父は、私が相変わらず主張を貫いて世に認められていくのを、どんな思いでみていただろうか。恐らく病床の父の胸には、無量の感慨が去来したに違いない。
親を見返してやろうと、精一杯がんばってきた私も、父の死で心の張りを失い、あらためて父子のきずなの強さに思い至ったのである」(『私の履歴書』経済人十九巻 330p)
* *
38歳の彼が健康回復後に気を取り直し、勤労部長・青年学校長など人間相手の困難な仕事にも人一倍誠意をもって取り組み、人心の掌握と社内融和に成功したのでした。
これも「父親に負けまい」という、親子の絆の強さゆえのガンバリと言えるのではないでしょうか。
しかし、湯浅が過労入院したとき、父親は彼の経営方針を全否定しました。そのときの彼の挫折感は、晩年の病床にあった父親と同じかもしれません。父親の場合は、寂寥感も感じます。
梁瀬はヤナセを外国車輸入の最大手企業に育て上げ、日本テレビジョンも設立し、動画製作にも尽力した人物である。大正5年(1916)東京都生まれの彼は、昭和14年(1939)に慶応大学を卒業し、父の経営する梁瀬自動車工業に入社する。梁瀬の父親は、先祖が甲州・武田信玄に仕えた士族出身で、アイデア・マンでもあり強大な指導力をもち、家庭内でも帝王だった。
生まれつき病弱で吃音だった梁瀬に対し、「できそこない。おまえは武田勝頼以下だ」と決めつけ、ことごとくつらく当たった。そして、梁瀬の社長就任に最後までためらい、経営戦略をめぐっては絶えず対立し、父親が息子の彼に対し何度も「社長解任」の辞令を出した。
このような環境のため、梁瀬は武田勝頼に対する好奇心も強まり、勝頼に対する書物を読み漁り、さまざまな教訓を得ることができた。それは、勝頼は人並み以上の能力があり、素質は十分あったが、父のあまりの偉大さを常に大きな負担に感じ、信玄の死後、部下の信望を得ようとあせって無謀な戦を挑んだ。そのため、37歳の若さで天目山の露と消えてしまったという教訓である。
そこで「父に負けまいとあせるのは危険」「コツコツ努力するのが2代目の道」と悟り、入社第一歩を修理工場のナッパ服勤務からスタートし、初めて自動車を売ったのは10年目という遠回りの道を選んだ。後年、彼は2代目への助言を次のように述べている。
「二代目が責任を与えられた時、心がけるべきは何といっても、その立場に生まれたという感謝の気持ちを持つことだ。そして人にほめられたいと、力以上のよい格好を見せるのも慎むべきだ。これは、私が武田勝頼〝兄貴″から得た二代目経営者への教訓である。
経営者が一番身につけなければならないのは、徳であり、徳のない人は経営者になることはできない。徳とは思いやりの気持ちと、自分自身の感謝の気持ちが生み出すものだ」(『私の履歴書』経済人二十三巻 76、77p)
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梁瀬ほど父親の経営方針に反発し、それを正直に「私の履歴書」で告白しているのも珍しい。2代目経営者の苦労や難しさをよくわかっている彼が、「私の履歴書」掲載の最終日に2代目に贈った、心すべき留意事項がこの引用箇所でした。
黒田は、先代の父親が、他人から事務用品の商売を「滓(かす)の商売と思いなはれや」と言われたのを受け継いだ。その滓の商品を大切にして、時代の変化に立ち遅れないように努め、事務用品のOA化、情報関連製品の総合メーカーへの道を切り開いたのだった。
彼は大正5年(1916)大阪府に生まれ、昭和15年(1940)慶應高等部を卒業し、家業の黒田国光堂(現:コクヨ)に入社する。黒田は物心ついたときから、家長として、店の主人としての威厳に満ちた父親の姿に接していた。「ボン」と呼ばれながらも、いったん仕事が始まると「邪魔や、どけ」と怒鳴られる戦場のような店の中に身を置き、商売の激しさ・厳しさを体験しながら育った。
ところが、昭和35年(1960)、44歳で社長に就任した披露パーティで、父親はその出席者に向かって次のような前代未聞の挨拶をする。
「世間では往々にして、後継社長を浅学菲才、至らぬ者と紹介されることが多いと存じます。しかし暲之助は、わが子ながら、誰よりも後事を託するにふさわしい人間です」と紹介したのだった。
黒田はこの言葉に発奮して父親の期待に応えるが、後年、父親との関係を次のように語っている。
「後半は、父の魂が乗り移って、私を駆り立てるような毎日だった。『こんな時代、先代ならどうしただろうか』と自問しながら事に当たったことが何度となくあった。父を『正』、私を『反』とするならば『合』の形でひとつの新しい人格が生まれた――と言えるだろうか。私の人生は良くも悪くも、父との相克と受容の歴史なのかもしれない。(中略)
しかし、あえて言えば、二代目は創業者以上に大変である。ことあるごとに比較される。企業を発展させて当然という周囲の目もある。三代目はもっと苦労するだろう。戦後生まれの企業で、二代目として活躍されている方は、その難しさを身をもって感じておられることだろう」(『私の履歴書』経済人二十四巻 117p)
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黒田の父の挨拶箇所を読み、父子の心中を推し量ると目頭が熱くなりますが、父親が息子に贈る最高の賛辞だと感じ入りました。
それまで強い相克があったあとに生まれた、親子の信頼関係です。これほどまでに父親を喜ばせた、経営者としての息子の成長は、最高の親孝行でもあるでしょう。
この項では、一般ではわからない2代目のプレッシャーや苦労がよくわかります。
創業者が2代目の息子に社長を譲るとき、息子が若く30歳代であれば、「少なくとも5年間は新規事業に手をつけるな。その間、社内の経営資源をよく見、取引先との信頼関係を築け」と厳命する場合が多いでしょう。
親子が長く一緒に経営にあたっている場合は、この言葉は不要になります。
しかし、現在はグローバル化が進み、市場の変化が激しいため、その対応が遅れると企業淘汰されてしまいます。それだけ、経営者にはすぐれたリーダーシップと経営能力が求められているので、順調に2代目に経営を引き継がせる、ということは今日難しくなっているようです。
水野は大正2年(1913)大阪府に生まれ、昭和11年(1936)大阪大学を卒業し、古河電工の子会社・大日電線に入社した。そして同17年(1942)、家業の美津濃商店に入社する。
その水野が七年制の甲南高校で四年間の尋常科を終え、高等科に進級するときのことである。理科と文科のいずれかを選択しなければならない。
父親からは、いずれ2代目を継ぐのだから文科に進むように言われていたが、水野は理科を選びたいと考えていた。
その頃、父親は長期の欧米旅行に出かけ、ドイツの見本市会場でヨーロッパの技術が想像以上に進んでいるのを見た。「これからは運動用品を作るにも科学的知識を身につけておくことが大切」と判断し、彼の理科の選択を許してくれたという。
この判断は正しかった。水野が炭素繊維のゴルフ用品や合板製のスキー用品、野球のバットやテニスラケットなど、次々と新素材を用いて開発を進め、事業拡大を成し遂げることができたからだ。
水野は父親のよき指導もあって、役割分担で大きく事業を伸ばすことができたが、2代目として、心して事業に取り組んだ考えを次のように助言している。
「父は国内に総合スポーツ用品メーカーとしての大きな足跡を残した。この分野で、私は父を抜くことはほとんど不可能に近い。私は、海外に目を向けた。まずCI(コーポレート・アイデンティティー)の導入から始めた。そしてTQCの実践、商品力の強化、社内の活性化と、次々に展開した。(中略)
経営トップは、気概だけの硬直姿勢では、経済の激流に押し流されてしまう。いかなる変化にも対応できる柔軟性を現代ほど求められる時代はないと思う。私は常に『自然体』を心にとどめてきた。二代目経営者としての大事な心得だと信じている。
私は科学の目でスポーツ用品の創造と改良に取組んできた。微力だが、戦後のめざましいスポーツの開花に、いささかの貢献をしたと思っている」(『私の履歴書』経済人二十五巻 162、163p)
* *
世の中が進歩するにつれ、消費者ニーズも市場も変化します。
今までの品揃え、販売経路、商品の素材なども常に見直し、改善していかなければなりません。しかし、水野は父親が担当する商品には手を出さず、会社のCIやTQCなどから始め、商品力の強化へと段階的に取り組んでいったのです。
これにより、父の経営と彼の新規経営の融和がスムーズに行なわれたと思われます。
TOP退任後のあり方
功成り名を遂げた経営者は、一様に「引き際はきれいに」と思っていると同時に、「晩節を汚したくない」とも思っているはずです。
そのためにも「自分で進退は決断しなければいけない」ということでしょう。しかし、その会社で実績を上げ、多大な貢献をした人物ほど、取り巻き役員や友人から「まだ早い、あなたがいなくなったらあとはどうなるのか」と言われ、決断が鈍り未練を感じてしまいます。
武田薬品の武田國男は、社長に就任して10年後、後継社長に道を譲り、経営の第一線から退き会長になります。いままで経営の相談に来ていた幹部がいっせいに新社長に相談に行くのを見るにつけ疎外感を感じ、寂しさを感じたと正直に書いています。
それでも「会長が経営に口をはさむことは罪悪」という思いは強く、相談役にも顧問にも就かず、すっぱりと会社と一線を引いた見事さが印象に残ります。
ここでは経営者の「引き際」の心の変遷の一例を紹介したいと思います。
ヤマト運輸創業50周年に当たる昭和42年(1967)の7月、小倉の父親である社長が脳こうそくで倒れた。30歳の誕生日に会社を創設した父親は、「傘寿(80歳)の祝いと50周年式典を同時にやる」と豪語していたが、半身不随になり、執務も不本意になった。
以後、父親は病院で療養生活に入ったが、社長の座にはとどまっていた。小倉は毎週土曜日、遠く離れた県の病院に決済書類を持っていかなければならなかったという。そのため「トップが長く居座ると〝老害〟になる」という教訓を学んだが、肉親の情もある。かわいそうで、「もう辞めたらどうですか」とは言えなかったのである。
そして、昭和46年(1971)、車いす生活を余儀なくされていた父親に代わり、小倉は46歳で2代目社長となった。その後、会社は順調に業績を伸ばし、小倉も会長、相談役として、経営から徐々に身を引いていった。
ところがその後、経営がおかしくなり、平成5年(1993)6月、「2年限り」と宣言して会長に復帰、順調に再建を果たす。
約束の2年を終えたあと、小倉は取締役に残るべきか迷った。いざというときのため役員会で発言できる権限を残す、という考えに傾きつつあったが、同時にある場面を思い出していた。
「二代あとの社長である宮内宏二君が一期終えた時のこと。彼に『大変良くやっている。もっと自信を持って指揮をとったらどうか』と声をかけた。すると宮内君は『役員会で皆が誰の顔を見ているかご存じですか』と言う。『社長である君だろう』と答えると『違います。皆が小倉さんの顔を見ていることに気づきませんか』。
はっとした。役員会で発言しない取締役に不満を持っていたが、実は自分存在がマイナスになっていたのか。この場面がよみがえったので、進退は決まった。すっぱり辞めよう。九十五年六月、ヤマト運輸の一切の役職から離れた」
(『私の履歴書』経済人三十七巻 149、150p)
* *
一般的には多大に会社に貢献した有名な経営者ほど、肩書がなく秘書や社有車のない生活に強い寂寥感を感じるといわれます。
小倉は最初に会長になったとき、マスコミから「院政を敷くのではないか」と言われ、「そんなことはいっさいない」と否定しています。「残るか否か」の決断に迷っていたとき、この宮内の一言で自分の存在自体が「老害」と気づき、以後、福祉事業に専念することになったのです。
進退に関する自分の恥を、正直に告白してくれた「私の履歴書」でした。
「昭和16年(1940)兵庫県生まれ。同37年(1962)甲南大学卒、武田薬品入社。同39年(1964)仏国、英国に留学。同48年(1973)食品事業部。同58年(1983)米アボット・ラボラトリーズとの合弁会社(米TAPファーマシューティカル・プロダクツ)の副社長を経て同63年(1988)国際事業部長、平成5年(1993)本社社長、同15年(2003)会長。同21年(2009)会長退任。相談役や顧問には就かず。」
*武田は父親の六代目武田長兵衛から愚息として期待されず、会社でも傍流の事業部に預けられ、部屋住みのように扱われてきた。彼は長兄の死から13年後の平成5年(1993)に社長のお鉢が回ってきた。長く医薬事業本部の本流ではなく、研究所や食品事業部、海外事業部など傍流ばかりを経験していたので、会社の改善すべきところが手に取るように解っていた。
そこで、社長就任後、眠れる旧体質企業を戦闘集団に変える構造改革に乗り出す。しかし、直後に膀胱がんを患い自らの生命の危機に瀕しながらも社内の大抵抗を乗り越えて、世界的な企業に躍進させた。その彼が社長に就任して10年後、すっぱりと後継社長にゆずり、会長となるが、相談役にも顧問にも就かないと心に決めていたからであった。
しかし、彼は「会長が経営に口をはさむことは罪悪」と思っていたので、経営の第一線から身を引いたが、むなしさや淋しさが一年ほど続いたという。その後、社外活動に自分の役割を見つけ立ち直るが、その当時の本音の心境を次のように語っている。
「しかし、実際、会長の立場になってみると実に寂しい。空虚な空間をただぼーっとさまよっている感じである。長澤さんも顧問に退かれ、これまでのようにカンカンガクガクやり合うこともない。皆が社長の方を向き、まるで大事な宝物を全部さらわれたようで、正直いえば悔しい。相も変わらずひがみ根性だ。(中略)。
社員は会長と社長の両方の顔色をうかがうのが仕事になってしまう。院政とか派閥とかトップの軋轢とかよく聞く話だ。これが会社をつぶす元凶である。「会社はお前のおもちゃじゃないぞ、このボケが」。心の中で自らに怒鳴り続け、近頃はどうにかひがみの炎も下火になってきた。」(日本経済新聞 2004.11.29)
欧米経営者との違い
「私の履歴書」を読んでいて、欧米経営者と日本人経営者の決定的な違いを3つ感じました。
1つは、欧米の経営者には「自分がトップだ」という強烈な自意識、自負心があり、「自分がやる以上、絶対に成功させる、競争相手に勝つ」という意欲があり、果敢に挑戦する姿勢をもっていることです。そのため、異論のある役員や社員は排除します。
2つ目は、勝つための条件として手持ちの資産である人材をフル活用し、いかに組織を活性化させるかに心血を注ぎ、現場指揮官となるリーダーの育成に多大な情熱を傾けている点です。
3つ目は、後継者の選考には5、6年の歳月をかけ、社外取締役からなる選考委員会で絞り込み、自分が最終決定するというやり方をしていることです。こうすると、社外取締役の第三者的な評価にも耐えうる、能力のある人材でないと選ばれないことになります。
日本の大企業では、年功序列主義組織の中で、下から徐々に経験を積み、上から引き立てられ、ある時期から「社長候補」と自他共に認める形でトップになる人が多い。
そうしたトップは、事業の継続性、一貫性を重んじて前任者の決定を覆すことはきわめて難しくなります。
しかし、最近は日本でもグローバル化が進んできているため、社外から取締役を選考する会社も増えてきており、時代の流れを感じさせます。
ここでは外国の2人の経営者の経営観と、外国企業をよく知る2人の日本人経営者の証言を紹介します。
八城は、エッソ石油(現:エクソンモービル)社長を退任後、シティバンク・エヌ・エイ在日代表となり、平成9年(1997)にシティコープジャパン会長、同12年(2000)に新生銀行会長兼社長に就任するなど、石油と金融業界をグローバルな企業の視点で経営してきた人物である。
昭和4年(1929)東京都生まれの八城は、京都大学、東京大学大学院を経て木内信胤理事長の世界経済調査会に入り、ひととき調査活動に励むが、昭和33年(1958)にエッソ石油に勤めることになる。
彼の大きな転機は、昭和48年(1973)の第1次石油危機が始まる直前の1年間、エクソン本社の会長特別補佐を経験したことであった。
当時、中東湾岸諸国の油田国有化を受け、最高責任者として会社の危機に冷静に対応するケン・ジェイミソン会長の姿を身近に見ることができた。八城はそんな最高責任者の傍にいて、年間約100回も開催される取締役会に出席を許され、エクソンのトップの物の考え方、意思決定のプロセスを自然と会得することができた。
取締役会は、本社の経営上の重要事項の決議のほか、関係子会社約10社のトップが翌年の事業計画と予算の承認を求める場でもあったからだ。会長の隣ですべてを聞くことは、八城にとってエクソンの将来の幹部としてのあり方を実地教育されているのと同じであった。
このような制度は日本では見られないが、彼はその当時を振り返り、日米の違いをこう語っている。
「会社で起きたどんな悪いことでも知り得る立場に置き、それをトップがどう対処していくかを見せて、『君たちも帰国して社長になれば、ちゃんとやれよ』というわけだ。特別補佐は、ほとんど出身国の社長になり、私も七十三年夏に帰国して翌年六月、社長に就任した。(中略)
この一年は私にとって、石油のみならず、企業経営への理解をも深めた年だった」(『私の履歴書』経済人三十三巻 131p)
* *
日本は少子高齢化で人口が減少し、国内市場が縮小している現在、新興国を中心に市場開拓をしていかねばなりません。そのため、すでに海外に進出している一部の企業が英語を社内公用語にして、世界各国の優秀な学生を採用するようになりました。
そして本社で教育し、出身国の経営者に育てる工夫をしているのです。グローバル企業になるためには、欧米の幹部教育システムが参考になるでしょう。
本章で紹介した「経営のヒント」を読んで思うことは、時代が変わっても経営の本質は変わらないということです。
日本企業でもグローバル化が進み、企業の海外売上高が50%を超える自動車、工作機械、精密機械、家電業界などの業種も多くなり、必然的に外国人取締役も増えてきました。
最近は少子高齢化で人口が減少し、国内市場が縮小しているため、中国など新興国を中心にコンビニや百貨店などの小売業と安全性を重視した食品業の進出が目立っています。
しかし、いかにグローバル化が進んでも、この章で紹介した「経営のヒント」を読むかぎり、経営トップの経営理念の明確化と遂行、社内における優先順位づけ、幹部や後継者の育成などは重要です。
それは、社内の経営資源(ヒト、モノ、カネ、技術、情報など)を、世界の各市場に適合させて展開する能力が求められているからなのです。
ガルビンは、父親から継いだラジオやハンディトークの携帯電話、テレビ受像機やトランジスタ(半導体)事業でモトローラを大きく飛躍させた。また、平成6年(1994)の日米携帯電話摩擦でも、問題解決に多大な貢献をした人物である。
大正11年(1922)、アメリカシカゴに生まれたガルビンは、昭和14年(1939)に高校卒業後、父親が創業したモトローラに入社し、大学にも行くが2年で中退して仕事に専念する。
昭和15年(1940)代から50年代にかけ、ラジオやハンディトークの携帯電話、テレビ受像機などの進出で大躍進を遂げる。昭和29年(1954)に34歳で社長となる。
昭和35年(1960)から東京に事務所を構え、日本との取引を本格化させて市場開拓に取り組み始めたが、なかなか成果は上がらなかった。
日本に進出後の20年のあいだに、テレビ事業は優秀な日本の技術に席巻され、アメリカ市場は壊滅的な打撃を受けていた。このため、閉鎖的な日本市場と市場開放しているアメリカとのあいだで日米摩擦が起こり、いち早く日本市場の開拓に取組んでいた彼が、仲介の労をとることとなった。
ガルビンは政府間交渉だけでなく、産業間協議を提案、共同議長としてソニーの盛田昭夫と問題解決に奔走し、一定の成果を収めた。
続いて彼はソ連(現:ロシア)や中国など外国との販路開拓にも成功し、モトローラの躍進に貢献した。ガルビンは欧米と日本経営の違いを述べ、日本人への友情から次のように正直な経営助言をしてくれている。
「米企業経営の問題は証券アナリストの力が強すぎることだ。経営の過ちをチェックする機能は否定しないが、総じて言えばマイナスのほうが多い。経営者とは評論家のご託宣を実行に移す人ではない。偉大な経営者は、最終的には自分の考えを実行する。(中略)
米国の流動性の高さを一時の気の迷いで賞賛してはならないと思う。組織への忠誠心や律儀さは日本の欠点ではなく長所なのだ。問題は、個人では高い能力を持ちながら、沸きあがる情熱を閉じ込めている人が多いことだ。社会全体が個人の潜在能力を抑えつけているのではないか。その結果の閉そく感だとしたら、日本のみならず世界にとって損失だ。
米国人は物事をヅケヅケと言い過ぎる癖がある。気分を害されたこともあるだろうが、日本と半世紀にわたり付き合ってきた男の友情からだと思って、許していただきたい」(「日本経済新聞」2000.6.30)
* *
証券アナリストは、どちらかというと株主側に立ち、企業の短期的な利益動向に注目し、論評しますが、経営者は長期的な視点で消費者ニーズや市場動向の変化、需要の創造などに対応した経営を行ないます。
しかし、カルビンから見ると日本の経営者はアナリストの企業レポートに振り回されているように見えるのでしょう。また、日本人があまり評価していない組織の忠誠心や律義さを長所として認識して、個人の潜在能力を発揮させるべきだと助言してくれています。
これは、社員の組織的行動が個人の潜在能力発揮を阻害していると見ているのかもしれません。
椎名は、日本におけるIBMのような外資系企業の社会的な認知度を向上させるのに、多大な功績があった人物である。彼は昭和4年(1929)岐阜県に生まれ、同26年(1951)慶應大学を卒業する。同28年(1953)バックネル大学を卒業後、日本IBMに入社。そして同50年(1975)社長となる。
現在、日本IBMは世論調査でも企業イメージが高く、「大学生が就職したい企業」のトップクラスにランクされている。しかし、彼が日本IBMに就職した1953年頃は、「外資イコール悪」というイメージがあり、外資にもいい企業と悪い企業があることをなかなか理解してもらえなかったという。
アメリカIBMはすぐれた経営理念をもつことで知られているが、世界的視野で経営しているため、世界共通の経営ルールも多かった。海外子会社の経営は原則、現地の人間に任せたが、日本IBMが日本の事情に合わせて経営手法を変えようとすると、よく本社と衝突した。
そのため彼は日本の経営手法をもって、「IBMを日本に売り込む」ことと、「日本をIBMに売り込む」という2つの使命の狭間で格闘し、その成功を導いたことになる。昭和50年の社長就任時に、日米の習慣の違いからくるカルチャーショックについて次のように語っている。
「社長になって驚いたことが一つあった。米本社からやってくる担当者に年に一度、領収書を一枚一枚チェックされるのだ。取引先とのゴルフをすれば出費は数万円単位、米国人は目をむく。それを一つ一つ説明していく。なれ合いにならないよう本社は担当者を毎年代える。最初はびっくりしたがすぐに納得した。
私は米本社から日本子会社の経営を任されているが、『権限委譲』と『放任』は違う。権限を委譲すれば、任せる側にも責任が発生する。チェックするのは任せた側の義務だ。日本の産業界を見回すと、権限委譲と放任を混同しているケースが多いように思える。任せる側と任される側に適度の緊張関係があって初めて権限委譲は機能するのではないか」(『私の履歴書』経済人三十六巻 41p)
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私の友人も外資系日本法人の社長ですが、夏季休暇20日間はきっちりとらされます。その友人はこの期間をリフレッシュ期間として、旅行、レジャー、学習セミナーなどに費やします。しかしその期間、本社から代理人が来て友人の経営や業務処理、社員の掌握度などを点検・評価していたという話を聞かされ、驚いたことがありました。
ウェルチは会長時代、冷戦時代末期(1980年代)のアメリカにおける整理解雇ブームを惹き起こした人物としても有名である。
会社を守り、人材を守らないことから「建物を壊さずに人間のみを殺す中性子爆弾」の特性になぞらえ、「ニュートロンジャック」と綽名されたこともある。
「そこでわれわれが考案したのが『バイタリティー・カーブ』(活性化曲線)で毎年、全事業部門、全職場で、管理職が部下の総合評価を下す方式だ。部員の二割を指導力のあるトップA、七割を必須の中間層のB、残る一割を劣るCに位置付け、Cの人には辞めてもらうか、別の部署に配置転換する。この評価は必ず昇進、昇給、ストックオプションに見合わせる。AはBより昇給額が二、三倍多く、Cは昇給ゼロとする。
管理職も一年目はCを選ぶのも簡単だが、二年目には困難で、三年目には戦争となる。部下をランク付けできない管理職は本人が上司からCにランクされる。Aの人に会社を辞められるのは重大な損失であり、上司の管理職の評価に響く。
Cを追放することを冷酷無残だと考える人もいるが、実は全く逆だ。本人が成長もせず、豊かにもならないまま放置しておくことこそ『偽りの親切』で残酷だ。長い間、表面上を取り繕って平等に扱い、中高年になってから『君は要らない』と放り出す方がはるかに冷酷だ」(「日本経済新聞」2001.10.25)
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日本では一般に、従業員の業績などの評価を正規分布した緩やかな放物線を元にABCのランクを付けて評価する方法がよく採用されています。この場合、全体をA20%、B60%、C20%と分け、上位の賞与支給額を多くするなどとしています。
しかし、このウェルチ流評価の方法を読み、私自身が管理職時代にこのような基準で部下を評価し、役付役員になっても同じような評価と実行をトップから強要された場合、果たして最後まで忠実に実行できただろうか……と考えてしまいます。
ウェルチのようにドラスティックな人事評価や経営改革を行なう勇気と、深い思いやりある厳しさはうらやましく思う一方、経団連の平岩外四元会長が愛した「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格などない」(ハードボイルド作家、レイモンド・チャンドラーの言葉)は、けだし名言であると思いました。
経営者は、精神的にも肉体的にもタフでなければ生きていけません。しかし、外国と日本の企業経営者には大きな違いがあると思わされてしまいます。