私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

長い人生を生きていくうえで重要なテーマ、「幼児教育」「父母の影響」「健康法」「お金を味方にする方法」「大地震の対応」「国への提言」をとり上げました。

人生については各人各様の考え方があり、「私の履歴書」にも多くのヒントがあり、ここでは私が深く感動したものを紹介いたします。

幼児教育

現在、家庭内において、子供の就学・就労拒否、親への暴力など、親子間問題が数多く発生しています。一方では、親の幼児に対する虐待なども頻発し、深刻な社会問題となっています。

その解決の手がかりとして、「私の履歴書」に登場する各界のリーダーたちがどのような幼児教育を受け、それをどう受け取り、生かしたのかを探ってみました。現在の諸問題を解決するヒントの宝庫といえるでしょう。
読んだ結論を一言でいえば、「私の履歴書」に登場するリーダーたちの両親は、家庭において子供教育をしっかりと行なっていたということです。

いうまでもありませんが、そのことが彼らリーダーの人生行路の基礎を堅固に築いたといえます。

 永野家の6兄弟は優秀だった。早逝した三男以外の5人が東京大学、1人は東北大学を卒業している。永野は東大では柔道部の猛者で、財界においては「財界の四天王」の1人として活躍した。  明治33年(1900)、10人の兄弟姉妹の二男として島根県で生まれた彼は、大正13年(1924)東京大を卒業し、浅井物産に入社する。大正14年(1925)富士製鋼再建のため支配人となるが、昭和9年(1934)の合併で日本製鉄に勤務する。そして戦後の昭和25年(1950)、分割で富士製鉄社長となるが、45年(1970)再合併で新日鉄会長としても活躍する。 永野は少年時代、手に負えないワンパク坊主だった。女の子だけでなく、家の前を通る子供を片っ端からつかまえてケンカを売った。相手が向かってくれば石を投げ、泣くまでいじめた。そのうち彼が家の表に出ると「永野のいたずら坊主が往来に出たぞ、みんな家に隠れろ!」と、大人たちが子供を隠すようになった。  永野がいたずらをするたびに、母親は手みやげを持って詫びてまわった。父親が死んだとき、母親は43歳だった。彼は学校でもワンパクぶり、無軌道ぶりを発揮して先生にも手を焼かせたが、母親は先生のところに行き、詫びたあと子供の欠点や勉学の状況をよく聴いていたという。 母親は直接彼を叱らない代わりに、無言で次のような行動を示し、永野に「『勉強しろ』と言われるより心に響いた」と言わせている。 「父が死んだのは八月だったが、それからしばらくすると、母の姿が教室にみられるようになった。一週間に二度三度、黙って教室に入ってきて、うしろから立ったまま授業を参観するのである。それは私が中学を卒業するまで続いた。母は私だけでなく兄弟全部に同じようにそうした。勉強せよとは言わないけれども、母が容易ならぬ心構えで私たちを見守っていると言うことが痛いほど背中に感じられたのであった」(『私の履歴書』経済人十二巻 18p)           *          *  私も小学校時代、父兄参観のときは緊張して授業を受けましたが、永野の母親のように、週に二度、三度と教室に入ってこられるとたまりません。  しかし、母親の子供たちに対する教育の覚悟がひしひしと感じられますから、子供たち全員がその期待に応える気持ちになったのでしょう。思わず唸らされる、無言の教育といえるでしょう。

立石は明治33年(1900)熊本県の生まれで、大正14年(1925)熊本高等工業(現:熊本大学)を卒業し、兵庫県庁職員などを経て、昭和8年(1933)立石電機製作所(現:オムロン)を設立した。
そして彼は戦後オートメーションに注目し、マイクロスイッチなどを自社開発して事業が軌道に乗り始める。昭和30年(1955)初期には重電用機能部品で国内市場をほぼ独占することができた。同40年(1965)代以降、自動販売機や自動改札機など無人機械化を成功させた人物として有名である。
立石が幼いときは伊万里焼を製造販売する恵まれた生活だったが、小学校1年の終業式を終えた翌日に、大黒柱の父親が亡くなり、まったくの無収入になった。母親は下宿屋を開業したので、彼も家計を助けるため新聞配達を始めた。
 このときに貧しさのつらさと働くことの大切さを知り、長男として戸主の責任と自覚、強い独立心が培われた。しかし、少年時代はキカン気のやんちゃ坊主で、母親をよく困らせていたという。
 あるとき、近所の悪童ども5、6人と語らって、氷屋の店先にかけてあるすだれのビードロを盗みに行き、引きちぎって逃げ帰った。そのとき逃げ遅れて捕まった仲間が白状したので、立石の母親にも苦情が持ち込まれた。
 しかし、母親は即座に彼を呼びつけて叱るようなことはしなかった。その夜、次のような方法で彼に自省を促す教育を行なった。

「夜のしじまに蚊張のなかで、眠りに落ちようとするころ合いを見計らって母は私を起こし『人様のものを盗むなんて、ほんに情けなか。これから絶対こんなことしちゃいかん』とじゅんじゅんと説教した。このときの言葉はいまだに深く脳裏に焼きついている。それは修身の時間に繰り返し、教えられた以上に印象的だった。(中略)。人に眠りにつこうとするとき、いわゆる寝入りばなに暗示を与えるのが最もよく効くそうだ。母がその要領を心得ていたというわけではないだろうが、盗みという行為に対して自責の念にかられている私の寝入りばなを見計らって諭したことが、私の心に深くしみ込んだのだろう」(『私の履歴書』経済人十五巻 308p)
          *          *
 睡眠学習は、眠っているあいだも活動を続けている脳に刺激を与え、学習させるものだといわれますが、立石の母親が活用しているのに驚きました。
 母親は生活の知恵で知っていたのでしょう。彼は眠い最中に諄々と説教されることにより、心から盗み行為を反省したのでした。

 この項に紹介した経営者たちの話を読んでつくづく思うことは、親が子の幼児期に、家庭内で言葉遣いや礼儀作法などを躾けるのは当然の義務という認識です。
 これらは学校で教えてもらうものではありません。この項で紹介した「私の履歴書」の例を見ると、子供に対する「しつけ教育」「ものに対する考え方」などでは、父親よりも母親が主導権をとっています。
 当時の母親は、「家庭内のことは自分の責任」という自覚が強かったのでしょう。立派な母親に恵まれている子供は、素直に大きく成長するということがわかります。

柏木は大蔵省(現:財務省)きってのアメリカ通、国際金融通として知られ、初代財務官の役職は彼の才能を活かすための役職ともいわれている。
柏木は大正6年(1917)中国大連生まれで、昭和16年(1941)東京大学を卒業し、大蔵省に入省。父親が横浜正金銀行(のち東京銀行)の大連支店次長(のち同行頭取)だったとき生まれ、3年ほどそこで生活した。
その後、父親の転勤でアメリカに住む。満12歳のとき日本に帰国したが、読み書きできる日本語は、ひらがなに簡単な漢字を合わせても、わずか150字足らずだったという。
 柏木は生まれてから12年のあいだ、二度ほど夏休みを利用して一時帰国したことはあるものの、アメリカ滞在中は日本語を学ぶ機会も、使う場面も乏しかった。日常では当然、両親と日本語で会話をしたが、それは耳で覚えた言葉にすぎなかった。
 彼にとっての母国語は、すでに英語になっていたのである。帰国することになり、両親は柏木の日本語の読み書き能力について案じてくれた。それゆえ帰国後の教育はすさまじかったと、柏木は次のように語っている。

「わが子の教育に関し、母は必死だった。教育勅語がなかなか暗記できないとみると、私の入浴中、脱衣所に入ってきて、ガラス戸一枚隔てた向こう側で大きな声で読んで聞かせた。こちらはそれを復唱して頭の中にたたき込んでいくわけである。
 日本語の読み書きは、帰国後ほどなくして人並みになったとはいえ、筆の方はまるでだめだった。習字の宿題となると、母の書いてくれた手本を敷き、その上に新しい半紙をのせて、母の字をなぞってつじつまを合わせたものだった」(『私の履歴書』経済人二十四巻 352p)
          *          *
 このエピソードも、母親の子供に対する教育の一途さが痛いほど感じられます。
 母国の日本社会に息子を適合させるため、母はあらゆる機会をとらえて教育に全エネルギーを傾けたのでしょう。その甲斐あって、思春期に柏木が書いたラブレターは、小学校の生徒のような字であっても、相手の心を動かすものだったと述べています。

 J・ウェルチが生涯で最も大きな影響を受けた人物は、母親だった。
 小学校に通う頃、母親から「人より秀でなければならない」と教えられていたという。
 一人息子だったウェルチは、背丈が低くて吃(ども)りがちなため、内向的な少年だった。吃るのは、母親が「あなたは頭の回転が速いため言葉が追いつかないのよ。心配いらない」と自負心をもたせたり、トランプゲームに付き合せ「勝負の面白さと競争心」を教えてくれた。
 この、ゲームの競争心が背丈のハンディの克服と、その後の野球、ホッケー、ゴルフといったスポーツへの興味、そしてビジネスへの情熱へとつながっていった。ここで培われた自信と誇りが、成長後の彼の生き方に大きな影響を与えたのである。
 ウェルチが幾多の大胆な経営革新を行ない、GEを世界最強の優良企業に育て上げることができたのも、自分に対する絶対的な自負心をもてたからだった。
 彼は、その家庭教育の原点を振り返り、こう感謝している。

「母が私にくれた最高の贈り物をたったひとつだけ挙げるとすると、それは多分、自負心だろう。自分を信じ、やればできるという気概を持つことこそ、私が自分の人生で一貫して求め続けてきたことであり、私と一緒に働く経営幹部一人ひとりに育(はぐく)んでほしいと願ってきたことだ。自負心があれば、勇気が生まれ、遠くまで手が伸びる。自分に自信を持つことでより大きなリスクも負えるし、最初に自分で思っていたよりもはるかに多くのことを達成できるものだ」(「日本経済新聞」2001.10.3)
          *          *
 吃音のウェルチを、「あなたは頭の回転が速いから言葉が追いつかないのよ」と励ました母の言葉は心を打つものがあります。
 母親のこの言葉は、ウェルチにとって最高の自信となったでしょう。
しかし、彼が高校3年のとき、主将をしていたホッケー部が最後の試合で惜敗します。そのとき、悔しさのあまりスチックを氷上に放り投げたウェルチを見た母親は、その行為に対して大衆の面前で彼を大声で罵倒するほどの烈女でもありました。
 母親は36歳の高齢出産だったため、一人息子のウェルチに対する教育が熱心なものだったそうです。幼少年期のウェルチに対する彼女の教育指導法は、「私の履歴書」連載中、大好評だったと聞いています。

父母の影響

「私の履歴書」の執筆者の多くは、両親について語っています。
喜田昌樹著『テキストマイニング入門』(白桃書房出版)には、次のような記述があります。
「『私の履歴書(昭和の群像)』のなかの、昭和に限定した50人の経営者を調査・分析した結果では、創業者型の経営者は父親を多く語り、従業員型経営者は母親を、創業型経営者の父親への言及回数よりも3倍近く多く語っている」(184p)

また一方では、「私の履歴書」の担当記者の取材日記によると、登場人物の母親の人物像や苦労話になると、涙を流す人が多かったとあります。
市村清、大谷米太郎、小原鉄五郎、田口利八、植村甲五郎、安西正夫ら偉丈夫な経営者の涙は、「あの苦労した母親を早く楽にしてやりたい」の一心が、経営者をして幾多の困難を克服させた原動力になったように思えます。
父親の厳しくも深い愛情、母親の優しさと厳しいしつけが相まって、立派な人間を育てることになるのでしょう。

私には、この経営者たちは、立派な両親の背中を見ながら自分を律して言動してきたように思えるのです。

 岡野は元治元年(1864)静岡県生まれで、明治18年(1885)豆陽中学師範を中退し、帰農する。そして同19年(1886)貯蓄組合共同社を設立。その後、同28年(1895)根方銀行、駿東実業銀行を経て、同45年(1912)駿河銀行を設立した。
 戦時中、大蔵省が小銀行の破綻を防ぐことを目的として、銀行の経営基盤を強化するために銀行合同を推進していく1県1行化に反対した人物として有名である。
駿河国・愛鷹村の名主の家に生まれた岡野は、豆陽学校師範科に在学中の明治18年秋、20歳のとき、一帯を襲った飢饉を目のあたりにする。彼は安閑として学校に行くことを望まず、中退して家の危機を切り抜ける。そのうえ、村の窮乏を救うために貯蓄組合共同社を設立し、それが一応成功する。
 しかし明治34年に九州の各地に銀行の破綻が続出すると、近畿、東海、関東一円にも広まり、全国的金融恐慌となった。このとき、彼が主導する銀行も重要取引先が破綻してしまった。
 これが外部の評判となると取り付けが始まるのは必定のため、株主や預金者に迷惑がかからないよう、緊急に手当てをする必要が生じた。
そこで岡野は悲壮な決意で、父親の理解と協力を求めることにする。その内容は、「今回の企業破綻は、全国にわたる恐慌の余波だとはいえ、自分の銀行経営に対する経験は浅く、貸付に対する研究が不行届きであったから」と、まずそのことを父親に深く詫びることだった。
内容は、「今回の貸付会社の破綻によって受けた損害は多額とはいえ、駿東実業銀行にとって致命的なものではない」と必死で説明をした。最後に「手当てをすれば十分に助けることができますからお願いします」といった途端、次のような言葉が返ってきて感泣する。
「手当てとはなにか、と父は静かに次の言葉をうながした。『手当てというのは・・』私はちょっと言葉を切って『手当てというのは、まことに申しわけございませんが、岡野家伝来の田畑を担保に入れ、他の大きい銀行から、一時融資してもらうことであります。借りる先は第三銀行、金額は三万円、大体当たってみてあります』そういい終わると、私は決死の意気込みで、きっと、父の顔を仰いだ。『馬鹿ッ』と一喝、怒鳴りつけられるかもしれない。そう思って仰ぐと、意外にも父の顔はなごやかで静かであった。『それで銀行が助かるなら、それで結構だ。お前の信ずるようにやりなさい。田畑はなくしても、また買うことができる。人様には絶対迷惑をかけてはならない』。あまりにもあたたかい父の言葉に、私の目からは思わず、熱い涙が落ち感謝の言葉さえ、しどろもどろであった」(『私の履歴書』経済人二巻 373p)
          *          *
 銀行は信用が第一。人間も信用が大切。
 岡野の父親は、息子のために家伝来の田畑を担保に入れることを承認しました。代々の名主として、村全体の存亡を考えた結果の決断だったのでしょう。
このエピソードは「この親にして、この子あり」の感が強くします。

「一粒三百メートル」のキャッチフレーズで成功した前出(第一章〓ページ)の江崎は、戦後アーモンドチョコ、ワンタッチカレーで成長する。
オマケ商法の先駆者でもある彼は、大正4年(一九一五)にはぶどう酒の樽買いを始めて小分け販売で成功し、同7年(一九一八)には大阪に出張所を出すまでになった。
 その後、有明海で採れる大量の牡蠣の煮汁廃液には多量のグリコーゲンが含まれるとして、これをお菓子として事業化したのが濃厚栄養剤の「グリコ」だった。この商品とオマケ商法などのアイデアで大躍進を遂げる。
昭和9年(1934)、グリコの事業からようやく年間50万円の純益を得る見通しがついたので、彼はその一部を社会還元に役立てたいと考えた。これが財団法人「母子健康協会」だったが、この設立の背景には、少年時代の父親の訓戒があった。
「私の生家は貧しく、その貧しさの中で父は次のように私をさとした。
『金を借りている人の前では、正論も正論として通らぬ。正しい意見を通すためにも、まず貧乏であってはならない。浪費をつつしみ、倹約につとめ商売に精を出して、ひとかどの資産を積んでもらいたい。しかし、くれぐれも注意したいことは、金を作るために金の奴隷になってはならない。世の人から吝嗇といやしめられてまで金を作ろうとしてはならない。そして金ができたら、交際や寄付金は身分相応より少し程度を上げてつとめていけ。それで金をこしらえていくのでなければ、立派な人間とはいえない』」(『私の履歴書』経済人七巻 190p)
          *          *
 一般的に「息子は父親に、娘は母親に反抗する」と言われます。
 特に男性の場合、独立心が強く、よく父親と衝突します。しかし、「親父の小言と冷酒はあとで効く」と言われるように、あとあと考えると「父親の訓戒を守っておればよかった」と後悔することも多々あります。
 江崎の場合は、父親の訓戒を守って商人の王道を歩んだことになります。

 この項では、「父母の影響」7例を紹介しました。
 ここで痛感するのは、「この親にして、この子あり」という故事です。すぐれた経営者はすぐれた両親をおもちです。
 その両親のよい薫陶を受け、素直に守り、その期待に応えるために、人生の逆境にも打ち勝ったように思えます。

 進藤は明治29年(1896)山梨県生まれで、大正12年(1923)九州大学を卒業し、東邦電力に入社する。同20年(1945)復興院業務局長となり、27年(1952)電源開発副総裁として転出する。そして37年(1962)に総裁となる。
進藤の家は代々地主として農業を営んでいたが、父親の時代になって一時織物業や酒造業、銀行にも関係し、村長としても活躍していた。
 第一子長男として生まれた進藤は、両親に寵愛された。そのためか、幼児の頃は大変ないたずら坊主で、あるとき隣家の軒下に積んである枯れ草に放火して大騒ぎになった。
 仕置きのため土蔵に閉じ込められると、うず高く積まれた米俵の上から放尿するなど、やんちゃ振りを発揮した。このほかにも数々の悪業を行なったが、そのつど両親はひそかに尻拭いをしてくれていたという。

「父は内に厳しさを持っていたが、きわめて温厚な人であった。父に直接しかられた記憶はないが、早起き、冷水浴、読書癖など、父の一挙一動に影響されたことはきわめて大きい。母には直接どなられた経験が多く、陳謝するまで許されなかった。三十六計で逃げ出したり、声をかぎりに泣き叫んでも決して許してくれなかったが、病気やけがの際の母の心づかいには、いつも胸を打たれたことである」(「日本経済新聞」1965.7.10)
          *          *
 進藤は、自分を厳しく律した父親の、日常生活から早起き、冷水浴、読書癖などを見習い、自分の生活の習性を身に着けました。厳しくも優しかった母親からは、人の接し方を学んだのではないでしょうか。
 両親が子供の教育に対し、役割分担をわきまえていたのでしょう。

赤尾は明治40年(1907)山梨県の生まれで、昭和6年(1931)東京外国語大学を卒業し、歐文社(現:旺文社)を設立した。
一世を風靡した受験生に人気の「まめ単」こと英語単語集の発案者であり、文化放送や日本教育テレビ(現:テレビ朝日)を創業し、放送大学の設立にも貢献した人物である。
また、全日本射撃選手権で優勝したのち、昭和29年(1954)は世界射撃選手権で銀メダルを獲るなど、珍しい経歴の持ち主でもある。
赤尾は、かなり大きな肥料商を営んでいた家の三男坊だった。父親はアメリカに長くいたため、田舎では稀なおしゃれな男だったという。母親は子ぼんのうで優しく、彼のヘタな悪筆を直すのに苦労していたが、13歳のときに亡くなった。
赤尾はかなりのいたずらっ子で、小学校5年のとき、こうもり傘の柄を銃身にして、それにカンシャク玉を利用する銃を作った。火薬は父親の金庫の中から失敬して、スズメ撃ちに興じたが、流れ弾が近所のガラスを割ってしまった。学校に連絡が行ったので、このときは両親が平身低頭して詫びてくれた。
しかし中学4年のとき、悪友たちと不法な魚とりを行なった首謀者の1人として、父親と一緒に校長室に呼ばれた。父親は教頭や担任教師のいる前で、息子の悪業を詫びながらポロポロと床に涙を流した。
さんざん油を絞られ始末書を書いたあと、2人は校門を出て日川の流れの土手に沿ってとぼとぼ帰ってきた。暑い日だった。これにより彼は学校処分を受け、中学を1年留年したが、この日の父親との対話が、彼の悪業を改ためる原点になったという。

「橋のたもとの土手に腰を下ろした。(中略)。横目に父の顔を見ると頭がもう半分ほど白くなっていた。それに父が気づいたらしい。『どうもこの頭の毛の半分はお前が白くしたのだな』と父はこういった。私は申しわけないと思った。『お父さん、そう心配しなくていいよ。僕もそのうちに必ずものになって見せるから・・・』というと、父は『まぁそう大言壮語しなくてもいいから、もう心配をかけるな。命が縮まるじゃないか』こういうのである。『それにしてもわしも子供の時ずいぶん行儀が悪くて先生にしかられたもんだが・・。母がよく学校へ一緒に謝りに行ってくれたものだ。因果はめぐるんだなぁ』こう言って父は深い嘆息をした。
私はこの父の白髪を見ながらどうもこう心配をかけては申しわけない、もうあまり悪業はしまいと心に誓ったのである」(「日本経済新聞」1972.8.28)
*          *
私の息子が高校生のとき喫煙し、夫婦で学校に出頭を命ぜられたことがあります。
私が「仕事で忙しいので妻だけ行かせる」と答えると、学校側から「表彰のときは1人でもよいが、非行の場合は両親でないとダメ」と拒否されました。
校長室で息子と一緒に夫婦が校長・教頭から叱責と今後の注意を受けたあと、私は息子と2人で話し合いました。私も赤尾の父親と同様、初めて自分の過去の非行ぶりを話して聴かせ、心が通じ合った経験があります。
話し合いの目線は、高いところからではなく、子供と同じ境遇目線でないと通じにくいと、つくづく思ったものでした。

 樫尾は電子計算機、電卓、デジタルウォッチ、電子楽器、デジタルカメラなど、消費者に受け入れやすい低価格で販売し企業を一流企業に発展させた人物である。
樫尾が5歳のとき、樫尾家は東京で働いていた叔父に誘われて一家で上京した。高等小学校卒業後、家計を助けるために見習いの旋盤工として働き始める。そこで腕のよさが認められ、工場主の勧めもあって、働くかたわら早稲田工手学校の夜学に通学するようになった。
 しかし、学校の時間ぎりぎりまで仕事のため遅刻することもしばしばで、学校を終わって帰宅すると10時過ぎになった。それでも父親はほとんど毎夜、彼を迎えに来てくれ、「今日はどうだった」などと話し合いながら帰った。母親は、彼が帰宅するまでいつも寝ないで待っていてくれたという。
 戦前には事業も比較的順調に行っていたが、終戦後は物資が絶対的に不足しており、いろいろなものを考えては作った。しかし、物を作る機械そのものが足りない。彼は旋盤のほかに、どうしてももう1台、フライス盤がほしかった。
 戦争直後のことで、新しい機械の製造が始まっていない。ツテを頼っていろいろ聞いてみると、長野県諏訪に小型の中古が1台、疎開させてあるという。先方が「譲ってもいい」と言ってくれたため、樫尾は値段の安さにひかれてさっそく買うことにした。しかし、問題があった――このときの、父親の子を思う献身に助けられたという樫尾は、次のように深く詫びつつ感謝の言葉を表している。

「しかし、運ぼうにも自家用のトラックなどないし、戦後の混乱のなかで営業車を雇うことも難しかった。どうしたものか、考えていると、父が『おれが運んでやろう』という。いくら力自慢とはいえ、相手は鉄の塊である。ためらっている私をしり目に、父はさっさとリヤカーを借りてきてしまった。くれぐれも無理だけはしないように言って、結局、父に頼んだ。三鷹から諏訪までの往復約三百キロの道のりを、たった一人でわずか四日余りで運んでくれた。さすがの父も、きつい曲がりが幾重にも連なる笹子峠の上り、下りは往生したらしい。(中略)。
 今、笹子峠の下を中央高速度道路が走っている(笹子トンネル)。あんな重たい機械を父はいったい、どんな思いで運んだのだろう。自分のことで頭がいっぱいで、知らず知らずのうちに好意を期待していたのではなかっただろうか。いつもこの車で通るたびに、そんなことが思い出されて、『申しわけなかったなぁ』と亡くなった父に詫びる」(『私の履歴書』経済人二十八巻 268p)
          *          *
 夜学に通っていた息子と毎晩一緒に家路についた話や、三鷹から諏訪までの往復約300kmの道を、重いフライス盤をリヤカーで引いて運んでくれた話からは、父親の息子に対する深い愛情そのものが読み取れます。
 父親の息子に対する期待が、このような形になったのでしょう。樫尾4兄弟の仲の良さは前述どおりですが、事業の成功は父親の期待に兄弟全員が応えた結果でした。

 伊藤の母親は裕福な乾物商の娘として生まれ、稽古事にも通う何不自由のない生活だったが、父親を若くして亡くし、日露戦争後は家業も没落した。
 結婚したものの夫に先立たれ、伊藤の父親となる男と再婚した。父親は道楽者で商売は不熱心だったが、6歳上の姉さん女房の母親がよく気がつき、字もうまく、交渉ごともてきぱきとまとめたので、周囲からの評判もよかった。
 母親は商家の生まれで商売が好きだったことや、没落した実家を立て直して親戚を見返してやりたい意地もあったのだろう。
とにかく商売一筋の人で、戦前の個人商店のことだから、盆も正月もない。商人が大みそかまで働くのは当たり前だった。おせち料理などが得意だった母親は、使用人を休ませてから夜なべして煮物などを作り、元日の朝一番に自分で店を開けて年始のお客さんを迎えたという。
伊藤にとって、父親が反面教師だったとすれば、母親は文字通り商人としての鑑だった。「母親の商売への言動そのものが血肉となって生きている」と、伊藤は次のように母について語っている。

「仕入れを一つ間違えば、支払いができなくなり、食べられなくなる。絶対に間違えられないから、一箱、一袋の商品を売って儲けは箱代か袋代という薄利の確実な商売に徹し、何よりお客様を大切にした。私が母に見たものは、すさまじい商人の業である」(『私の履歴書』経済人三十八巻 163p)
          *          *
 伊藤は自分の恩人として、母親と異父兄の譲を挙げています。
 二人から「お客様を大切に」「暖かい人間味と思いやり」など、お客様と仕事への真摯さを学びました。
 そこから「お客様は来てくださらないもの、お取引先は売ってくださらないもの、銀行は貸してくださらないもの。だから、一番大切なのは信用であり、信用の担保はお金や物でなく人間としての誠実さ、真面目さ、真摯さである」と気づいたといいます。
 この悟りから「売れただけ仕入れて販売する」という、彼一流の企業原則のキャッシュフロー経営が出発しています。

 近藤は大正9年(1920)神奈川県生まれで、昭和17年(1942)東京大学を卒業、大蔵省に入省するが、同17年海軍短期現役組として入隊。
 マレー半島に配属されたが上官ににらまれ、困難な物資調達を命ぜられた。サイゴン(現:ホーチミン)からバンコクまでの直線750キロを、単独で地図を持たずに5日間、歩いて任務を果たした強固な精神力の持ち主だった。
 戦後、現地に抑留されるが、昭和22年(1947)大蔵省に復帰する。同47年(1972)国税庁長官となるが、50年(1975)博報堂の社長となる。
近藤は7歳のとき、近所に住む悪童から恐喝された。父親に相談すると「逃げずに頭突きしろ」と教えられ、実行すると後難はまぬがれるようになった。しかし、今後のこともあるので、父親は彼に剣道を習わせたが、これが精神と肉体の修練に役立ったという。
父親は一高、東京大を出た外科医だった。小田原に移ったとき、近藤外科医院に女子修養のための「塾」をつくった。そのとき10人ほどの塾生が集まった。医院の2階の寮に住み込む彼女たちは、全員看護婦である。
「看護婦は修養を積んでから患者に接すべし」という考えを、父親は実践した。父親が実直に自分の決めた日常行動を実践している姿を身近に見て、大きな感化を受けたと語っている。
「父は午前五時前後に起きて外来患者用の便所を掃除する。外科手術で出た汚物の焼却も他人に任せない。多少の熱があろうとも決して怠ることがなかった。
 それが終わると朝食まで塾生を前に講義をする。茶道、日本の古典文学、詩歌、漢籍などを語る父の話はわかりやすく、塾生に交じって座る私や姉たちも、詩人や歌人になりきった父の名調子に、身を乗り出して聴き入った。
 昼間に何十人もの患者を診て夕食が済んでから、また講義をすることもあった。私は学校の授業より、多くを父から学んだかもしれない」(「日本経済新聞」2009.4.28)
          *          *
 近藤は教養ある父親が看護師寮の寮長で教育者でもあったため、その模範となる生活態度や講義を身近に受けることができたのです。
 近藤の教養深さと自律心は父親からの影響が大きいといえるでしょう。「私の履歴書」ではほかに、父親が教育者で直接息子や子弟に教育している人物として伊藤忠の越後正一がいます。

健康法

ここに登場するすぐれた経営者たちは、高齢にもかかわらず精力的に財界活動、福祉や業界活動にも活躍されている。
しかし、多くの人が幼少のときはひ弱く、結核やジフテリア、チブス、百日ぜきなどの病気で長期欠席や病養生活を送っていたとも書いている。

その永年のノウハウを親切に伝授してくれています。

 伊藤は近江商人の精神を引き継いだ人として名高く、関西系商社伊藤忠、丸紅を育て、事業経営の傍らカナモジ運動の推進や甲南学園理事長も務めた人物である。
 彼は明治19年(1886)滋賀県生まれで、伊藤忠商事創始者・忠兵衛の子である。県立滋賀商業学校を卒業し、明治36年(1903)父親の死去に伴い17歳で家督を相続し2代目を襲名する。同37年(1904)関東織物問屋(丸紅飯田)入り、42年(1909)アメリカに留学し、大正7年(1918)伊藤忠商店・伊藤忠商事社長となる。
 伊藤はまわりから健康そのもののように見られていたが、少年時代は腺病質であり、ジフテリアを数度、チフスや肺病にも罹っている。
 肺病は水を被れば治るという記事を読み、これを徹底実行して治したが、年長になっても風邪にかかりやすく、耳、鼻、咽喉科の専門患者だった。何かというと、すぐに耳、鼻、のどを痛めていた。
 また、死を宣告されて耳の手術を受けたこともあるが、これは1年休養して治した。しかし、15年後に再発して手術を受けるが、どうしても治らず半年間入院するという病体質だった。
 そこで友人から西式健康法の療法を聞き、西勝造先生に相談すると、「必ず治る、耳も聞こえるようになる」と断言された。そこで彼は、この託宣に一命を捧げようと決心して実行した、と次のように語っている。
「水浴はお手のものだし、絶食から板に寝、硬い枕に代えるくらいの作法をやったら半月でうみも止まり、よく聞こえるようになった。そして冬は三枚のシャツ、二枚のズボン下をはいたのが、ついに無シャツ、無パンツ、無外とう、無手袋生活と変わった。以来二十五年間、年二度尿の検査を願うが、一切医者との縁を切った。(中略)。
昨今の食事は、朝は水、昼はそば、夕食に多量の栄養物をとるが、米は一杯である。・・・しかしいまだに果実と菓子は人の数倍をやる。(中略)。
酒は半合を越えず、百薬の長として善用している」(『私の履歴書』経済人一巻 387p)
          *          *
 恵まれた生活環境にある現代人は、体を動かすことも、ひもじい思いや寒さに震えてすごすこともありません。
 西式健康法は、人間が本来もっている機能を復活させるのに役立つ健康法だといわれています。その理由は、自分の体を空腹や耐寒など自然環境に順応させることが「筋肉ならびに血液やその他の体液の温度を調整すべき機械的作用(機能)がいつも眠ってばかりいる」のを起こすことになるからだといいます。

 大屋は明治18年(1885)東京生まれで、同43年(1910)東京大学を卒業し、逓信省に入省する。欧米留学で窒素工業に注目し、大正7年(1918)住友本社に入り、化学畑を歩む。昭和16年(1941)住友化学社長となる。戦後の追放解除後、昭和23年(1948)に住友ベークライト会長となり、原子力産業会副会長なども歴任した。
 中学時代の大屋はクラスで一番背が低く、ひどく病弱でもあった。そのため、中学で1年遅れた上に、明治35年(1902)の第一高等学校受験のおりに、体格検査で不合格となった。何も知らずに学校の受験場に行ってみると、「右の者体格不合格につき受験を許さず」という張り紙を見て、自分の体格に絶望を感じたという。
この病弱な体格のため、高等学校入学の前後には3年も続けて進学が遅れる結果となった。しかし、80歳を過ぎようとする今日まで健康で生活できるのは「精神力が大事」と力説している。
 チェーンスモーカーだったが、42歳のとき重大な決意で禁煙を誓い、それを守り通してきた。その彼が、精神力と健康の関係について次のように述べている。
「“精神力即健康”と私は信じている。私の養生法は、たえず萎靡せんとする精神力をいかにして奮い立たせるかに尽きている。私は五十数年間毎朝冷水を浴び続けている。それでいて人並みに風邪もひくし、皮膚がじょうぶになったとも思えぬ。ただ、一度はじめたことは決してやめぬという精神力への一つの試金石と自分に言いきかせている。(中略)。
私の若い時代に前途有為の青年が肺病と宣告されたばかりに死んでいった例が数限りなくある。臨床医学が発達していなかったことも一因ではあろうが、精神の弱さがいかに肉体をむしばむものであるかがうかがわれる」(『私の履歴書』経済人七巻 477p)
          *          *
 朝の冷水浴びは、高齢者や血管系の持病がある人にはお勧めできませんが、公益財団法人・天風会会員の私は毎朝、水道水でこれを実行しています。
 夏の暑いシーズンから始めると、すんなり受け入れられます。つらいシーズンは1月~2月ですが、4月~6月、9月~11月はとても気持ちのよいものです。
 天風会会員の多くは、朝の冷水浴びで心身をリフレッシュして活動しています。

 三島は「初恋の味」で親しまれた乳酸菌飲料のカルピスを、世界で初めて発売した人物ですが、この開発は彼が明治41年(1908)内蒙古(現:内モンゴル自治区)に入り、病気で瀕死の状態のとき酸乳に出会い、健康を回復したのが動機だった。
 三島は明治11年(1878)大阪府生まれで、父親は浄土宗本願寺派の住職だった。明治35年(1902)龍谷大学を卒業後、英語教師となるが、25歳(1903)で辞し、中国に渡る。大正4年(1915)帰国後、「心とからだの健康」を願い、酸乳、乳酸菌を日本に広める決意をし、同6年(1917)ラクトー株式会社(現:カルピス)を設立。
三島は96歳で亡くなるが、「私の履歴書」を連載していた昭和41年4月は89歳だった。自ら「証券市場に上場されている会社の社長では最高齢者」と書いている。彼は生来強健の質ではなく、特に消化器と呼吸器が弱く、子供のときから薬ばかり飲んでいた。
 三島は父を60余歳、母を47歳で亡くし、2人の娘は20歳代で早世した。「血筋から言えば今日まで生きているのが不思議である。だから人一倍、健康に気を使い、努力してきた」と周囲に語っている。それだけに、健康に役立つ書物は片っぱしから読み、あらゆる方法を試みていた。
そして、「時間を守って規則正しく生活すれば、身体はおのずと健康になる」という結論となった。そこで彼は、1日24時間を、10時間の睡眠、午前4時間の執務、午後2時間の読書、そして残る8時間を体力維持のための時間と定めたという。これを厳守するため、冠婚葬祭等の出席はいっさい断わり、妻子またはほかの人を代理に立てるように徹底した。
その1日8時間の健康法の内容は、「1.食生活、2.散歩、3.手足の温浴、4.日光浴」であり、それぞれに本では詳しく説明してくれている。特に有名なのが日光浴である。それを彼は次のように紹介している。

「日光浴の効用:昭和元年以来、ずっと続けてきた。およそタダで得られるものほど必要度は高い。(中略)日光浴の方法だが、夏は朝六時から七時までの十分間、冬は午後一時の間に三十分ぐらいやる。ある夏、長時間強烈な紫外線を全身に浴びて脳貧血を起こした失敗から、今村荒男博士の“肺や心臓のある肋骨の部分に日光を直接当ててはならない”という注意を守り、タオル製のチョッキを着用している。
また、日光浴で拡大鏡を使ってヘソの回りを焼かんばかりの高温度で照射するのが、私の独創で、秘伝である。二十年ほど前、ヘソに灸をすえてたいへん効能があったことから、モグサの代わりに日光であたためてもよかろうと考案したのだ。『ヘソの下には胃とスイ臓がある。熱で刺激すれば胃液、スイ液の分泌をよくするからよろしい』と私の主治医柿沼庫治さんが、この方法に太鼓判を押してくれた。ただし、やけどをしないように注意がいる」(『私の履歴書』経済人十巻 203、204p)
          *          *
 この本ではお灸の代わりにレンズを使ってヘソをあたためる執筆者の写真はユーモラスでもあります。三島の1日8時間の詳しい健康法メニューには驚かされました。
 高齢になると、特に健康管理が大切になってきますが、徹底することが重要だということがわかります。
 三島は健康法メニューの4種類を詳しく説明してくれていますので、本人の「私の履歴書」(『私の履歴書』経済人十巻)をご参照ください。

瀬川は明治39年(1906)奈良県生まれで、昭和4年(1929)大阪高商(現:大阪市立大学)を卒業し、野村證券に入社する。同34年(1959)社長になり、営業基盤を広げ内部留保を厚くして情報化に備えるため、40年(1965)に野村総合研究所を設立した。
瀬川は体格堂々として顔も日に焼け、健康そのものに見えた。少年時代、毎日奈良の山奥の山野を飛びまわって遊んでいたので、これが足腰を鍛錬することになった。小学校4年のときの相撲大会で早くも6年生全員をやっつけ、全校の横綱になった。県の相撲大会にも選抜されるほどの偉丈夫だった。
長じて野村證券に入り、若いときは体力に自信があったため、営業活動で昼から夜まで東奔西走して働いた。夜は宴席が3つも4つもあっても平気で楽しく飲み、翌朝まで持ち越す深酒になることもしばしばだった。
そんなあるとき、瀬川が日活の堀久作社長を訪れた際、酒くさい息を感づかれたのか、堀社長がじっと彼をみつめ、朝風呂に入ることを勧めてくれた。「瀬川君、私は朝風呂にはいることにしている。ぬるい湯に毎朝はいって、深呼吸を二十回ほどする。そうすると酒くさい息がきれいになって、もちこされた酒が体内から全部抜けてしまう。そして新しい気持ちで仕事につくことができる。朝風呂がいちばん健康的だから君もそうしたらどうか」という、大変親切なご注意をいただいたので、私は早速それを実行して、爾来二十年余りずっと朝風呂の習慣を続けている」。
このとき瀬川は、経済界の大先輩に対して大変な失態を演じたにもかかわらず、親切に助言をいただいたことで自分を大いに恥じた。

また、後輩である野村證券・北裏喜一郎社長の助言をも関連づけて次のように生かしている。「健康の秘訣はからだのアナの部分を大事にすることだ。病気はすべてのアナからはいる。口を大事にし、鼻を大事にし、そのほかからだの中のアナというアナを大事にすること、これが最良の健康法であると教えられた。そこで、はなはだ尾籠なお話で恐縮だが、私はすこし痔の気があって毎朝快便をしたあとで、時に便が下着に残ったりすることがある。そこで快便のあと必ず風呂に飛び込んでアナというアナを全部洗ってよごれのないきれいなからだになって、そう快な気持ちで仕事のスタートをきる、ということを考え出した」(『私の履歴書』経済人十三巻 220、221p)
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私もこの記事を読み、現役時代に前夜に飲みすぎたときはぬるめの朝風呂につかることにし、同僚や部下にも勧めていました。
若いときは元気にまかせて、はしご酒で翌朝アルコールが抜けていないときもあります。ビジネスで人と会う場合は、特に注意しましょう。

この項では、「私の履歴書」に登場した執筆者たちの、さまざまな健康法を紹介しました。
これらの健康法に共通することは、「自分が決めたことは必ず長期にわたって実行していること」「1日の生活のリズムの中に、必ず自分に合った健康プログラムを取り入れていること」の2点でした。
そのことにより、一見ハードな健康法や運動量も、各自の体に合ったものになっているのです。
「私の履歴書」で語られている、執筆者個々人に合った健康法を参考に、読者の方も自分に合った健康法を見つけていただければ、と思います。

越後は、数々の大相場をものにし「相場の神様」とも呼ばれ、伊藤忠商事を世界最大の繊維商社に押し上げ、繊維商社から総合商社に育て上げた立役者である。
彼は明治34年(1901)滋賀県生まれで、大正14年(1924)神戸高商(現:神戸大学)を卒業後、伊藤忠へ入社する。この進学は伊藤忠兵衛の援助で可能になり、終生感謝していた。

越後は趣味人で、茶道、ゴルフ、小唄、清元、マージャンなどに親しんだ。経営のトップにいると大変な体力がいるため、気分転換にこれらを活用した。
さらに、健康のためには食事療法が大事だと説く。70キロあった体重を55キロに減量するため、大変な努力をしていた。その中心は玄米食。これは非常に体調がよくなるとして推奨した。
玄米に小豆を少量入れて炊き、おにぎりにして梅干しを入れ、黒ゴマの粉でまぶした上にさらにおぼろ昆布で包む。それを何十回と噛むという。宴会やゴルフのときでも、このにぎりめしを持参していた。しかしそれだけではなく、なるべく幅広くいろいろなものを食べることを心がけていた。
なかでも、人間が土から生まれ、また土に帰る現実を考えて、にんじん、ごぼう、大根、れんこんなど、土中の熱によってできたものをできるだけ多種類とるようにしていた。それまで寿司が多かった会社の弁当も、幕の内弁当に変えさせた。幕の内のほうが多種類の副食があり、米飯も少ないからだった。

「善意の押し付け」として越後が知人・友人に送りつけて有名なのが、「梅干摂取のすすめ」である。
「だれでもうまいものを食べたいと思うものだ。従って血液が自然に酸性になりがち。中でも酸性中の王者は白砂糖とかつお節。酸性を中和しアルカリに変えるには、梅干の方がキャベツの三百倍以上の効力があって、百グラムの白砂糖を中和するのにキャベツの三千三百グラムに対し、梅干しはわずかに十グラムで足りるという。(中略)。それほど梅干は大切な食べ物である。(中略)。
実はまだほかに、電気をあてる方法などもいろいろあるのだが、こうして私は信じる健康法を懸命にやって、一日一日を有意義に、希望を持って送ることにつとめている。だれでも五、六十歳までは健康だが、問題はそれから先の十年、二十年だ。よほどの健康管理をうまくやらないと、長生きは難しい」(『私の履歴書』経済人十六巻 220、221p)
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越後もカルピスの三島と同様、自己の健康法を詳しく書いています。
それは「60歳以後の健康管理をうまくやらないと健康を維持できない」という親切心でもあるでしょう。彼は美食を多くとりがちな友人・知人に良質の梅をひと樽で送りつけたというエピソードもあります。越後の好意はうれしいが、もらった人はさぞかし複雑な気持ちだったのかもしれません。

 加藤は明治40年(1907)愛知県生まれで、昭和5年(1930)関西学院高等商業を卒業し、日本ゼネラルモーター(GM)に入社する。同10年(1935)神谷正太郎に誘われ豊田自動織機に転じ国産車販売に従事するが、製造と販売を分離したトヨタ自動車販売に同25年(1950)移り、神谷正太郎とともに販売面からトヨタを世界企業に育てた人物である。
 加藤は母親が42歳のときの子で、男2人、女6人の8人兄弟の末っ子である。長姉とは20歳以上も違い、すぐ上の姉とは6歳離れていた。兄や姉に厳格だった両親も、末っ子の彼には甘かった。
 子だくさんの割には経済的にも恵まれていたため、何不自由なく育てられた。そのせいか体が弱く、病気ばかりする虚弱児だった。幼児の頃の虚弱体質は、小学校の高学年に進んでも一向に治らなかった。1か月くらいの長欠はザラで、6年生のときは、大病を患って死に直面したこともあった。
しかし、中学になってテニスをやり始めて、虚弱だった身体はすっかり頑強になった。このとき徹底して身体を鍛えたおかげで、それ以後のゴルフなどのスポーツも得意になったという。これらのスポーツは古希を過ぎても存分に楽しむことができた。
 ビジネスで付き合っている海外の人たちとも気軽にプレーできるため、よき潤滑油になっていたと述べ、ハードな健康法を紹介している。
「朝、五時半に目を覚ます。念のため目覚まし時計をかけているが、ベルが鳴る前に目を覚ますのが常である。NHKのニュースを聞きながら、ベッドの上で真向法を真似た屈伸運動を六十回行う。(中略)それから乾布摩擦を首から始めて胸、腹、背中、腕、手、脚、足と約六百五十回。これで室内運動は終わり。約二十分である。
次いで庭へ出る。まずテニスのラケットを持ち、ゴルフの練習用に張ってあるネットに向って、サービスを百回打つ。これは腹筋運動に効果的だ。これが終わると、ラケットをクラブに持ち代える。九番、七番、五番、三番、ドライバーで各二十発ずつ、計百回振り回す。これが約三十分だ。
以上が朝食前の日課運動だが、夜に会食やパーティがなく早く帰宅できた時は、夕食後、庭に出てクラブを振ることもある」(『私の履歴書』経済人十九巻 95、96p)
          *          *
 もう、健康そのものの運動量です。この運動量も、テニスなどで鍛えて年齢とともに次第に慣らしてきたものではないでしょうか。
 すぐにこの運動量をこなすことは到底できませんから、ステップアップしながら少しずつ自分の体に馴染ませましょう。

 三宅は明治44年(1911)大阪府生まれで、昭和8年(1933)東京大学を卒業し、日銀に入行する。同42年(1967)大阪支店長を最後に退任し、東海銀行に転職。43(1968)年頭取、会長となり名古屋商工会議所会頭としても、名古屋・中京地区の国際化に貢献したが、蔵相、日銀総裁を歴任した井上準之助の娘婿でもある。
 三宅には姉が2人、妹が1人あった。1人いた弟は夭折したため、実質的には姉妹に囲まれた一人息子だった。また、生来からだが弱かったため、いっそう過保護に扱われた。そのせいか、彼は弱虫で内気で引っ込み思案で、あまり友達と遊ぶこともなく育った。
成長するにしたがい、こういった性格の欠点を自覚し始め、なんとかこれを直さなければと、座禅、冷水被り、電車の吊革ぶら下がりなど人知れずずいぶん試行錯誤を繰り返し、克己心で健康を得る。
 しかし、会長に就任したとき、心臓の欠陥が発見され、ペースメーカーを埋め込む手術を受ける。これにより体調は回復したが、それ以後、ペースメーカーで心臓を動かす体になったので、無理はきかなくなった。この状態での健康管理を次のように記している。
「毎週の心電図、月一回の血液および尿検査、さらに数ヶ月に一回のレントゲン検査等で微妙な変化もすぐわかる。私自身も毎日体重を量って太り過ぎないように注意している。私は中年以降かなり太り気味であったが、自分でこれではいけないと思い、徐々に体重を減らしてきて、約十年がかりでピークから十一キロ減らした。そして身長マイナス一○五ぐらいに達したので、その後はそのまま横ばいをつづけ今日にいたっている。
心臓がこのような次第であるので、運動には限界がある。走ったり力仕事をするとは禁じられている。私は毎朝起きると必ず寝床の上で約三十分間体操をする。これは何々健康法といわれるあらゆるものを参考にして、自分の心臓の負担にならない程度に、しかもあらゆる筋肉のすべてを動かすように、自分で工夫したものである」(『私の履歴書』経済人二十一巻 465p)
          *          *
 体重測定は、健康チェックに効力を発揮する簡便な方法です。
 私は毎日、朝夕と体重を測っていますが、夜に比べて朝は700gほど軽くなります。そのリズムをわかったうえで体重を記録していくと、カロリーオーバーや体調不良はすぐわかります。
 登場する経済人のなかには「一病息災」で持病と上手に付き合い、無病の人より長生きをしている方も多いようです。これは、自分の公的存在の責任も強く自覚しているため、健康管理に対する心構えが違っているからだと思いました。

宮崎は、事業を繊維からサラン、アクリルなど石油化学へ進出し、医療、住宅など多角化経営に進めたため、なんでも飛びついて食べる「ダボハゼ経営者」とも言われた。
明治42年(1909)長崎県生まれの宮崎は、第五高等学校を経て、昭和9年(1934)東京大学を卒業後、日本窒素に入社する。入社早々、旭ベンベルグ勤務となり、同22年(1947)旭化成工業と改称(現:旭化成)、36年(1961)社長となる。
趣味といえばゴルフやマージャン、釣り、旅行などが趣味という人は多い。しかし、宮崎の唯一の趣味は散歩だった。その理由は、昭和23年(1948)の延岡大争議にあった。
その争議解決後、若い社員たちのエネルギーを何かに向けなければ再び暴発する可能性もあると考え、宮崎は走ることを勧めた。その結果、全日本級のマラソンランナーを輩出することに繋がったが、自身は走ることができないので歩くことにしたという。ゴルフの誘いを何度か受けたこともあるが、ゴルフは朝早く起きなければならないし、エチケットもうるさい。それに同行したメンバーにも気を遣う必要があるので敬遠した。

宮崎は35年間、ほぼ毎日のように歩き続けた。雨が降っても、よほどの大雨でない限り中止はしない。地方や海外へ出張したときにもシューズを持参し、散歩で公園や街中に出かけた。本社にいるときは、帰りは1つ手前の駅で降り、1時間20分ほど歩く。休日は、手ぬぐいと着替えのシャツをビニール袋に入れ、3時間くらい散歩する。途中、喫茶店に立ち寄って着替えをし、小休止してからまた歩き出すという徹底ぶりだった。
宮崎は、この散歩時間に事業や人事構想を練った。事業運営に当たって大事なのは、事業の責任者を決めることであるため、人事を重視した(その人事は「意表を衝く人事」とマスコミに評された)。
彼は散歩の効用と失敗を、次のように語っている。

「散歩の醍醐味は、なんといっても解放感にある。他人にわずらわされず、気ままに歩くことほど楽しいものはない。歩いていると、道がよくなったり、新しい建物ができたことなど、いろいろ発見する喜びもある。そのうえ、足腰の鍛錬にもなるから、健康にもいい。(中略)。
私は散歩の最中、大抵、自分が抱えている問題を考えながら歩いている。それでは気晴らしにならない、との疑問の声も起こりそうだが、そんなことはない。頭を使いながら、十分に解放感は味わえる。第一、歩きながらものを考えると、非常にいいアイデアが浮かんでくる。
もっとも、考えに夢中になっていると、時々、思わぬ失敗をすることがある。
考えに夢中になっていると、赤信号とは知らずに渡ってしまい、警察官に怒られたこともある。その時の注意の言葉が印象に残っている。『あなたもかわいいお孫さんがいるんでしょ・・・』」(『私の履歴書』経済人二十二巻 144p)
*          *
「私の履歴書」の中で、高齢者の健康法で一番採用されているものが散歩です。
散歩は年齢・性別を問わず重要視されます。その効用は、歩くことで血流量や呼吸量が増し、心肺機能が強化され、内腔臓器の活発化、脳の老化防止にも役立つといわれるからです。
「老化は足から」と昔から言われているので、私も現役時代は万歩計をつけて毎日1万歩を、現在は6千歩を目標に歩いています。

 岩谷はプロパンガス事業を成功させたが、それ以外にも住機器、食品産業にも取り組み、生活総合企業を一代で築き上げた人物である。
 彼は明治36年(1903)島根県生まれで、太田農業学校(現:島根県立太田高等学校)を卒業後、神戸市の運送会社で勤務したのち、昭和5年(1930)ガスの製造販売を行なう「岩谷直治商店」を創業する。昭和20年(1945)に株式会社の岩谷産業に改組し、社長となる。
岩谷の少年時代には羽振りのよかった家も、父親の病気とともに衰退していく。家計が苦しくなったため、農学校の修学旅行にも行けなかった。就職は神戸の海陸運送会社であったが、住み込み奉公のため、朝5時に起き店の掃除をする毎日だった。
 スペイン風邪が流行した年、彼も1週間ほど床についた。故郷を離れる前に父親が、「他人のところで寝込むほどつらいものはない。体に気をつけるんだぞ」と言ってくれたことを思い出し、健康は自分で守るしかないとつくづく悟る。
 このとき以来、酒にもたばこにも手を出さず、若いときはもっぱら「牛乳」と「5時起き」習慣で健康を守ったという。「私の履歴書」執筆当時、86歳だった岩谷は、次のような健康法を語っている。
「毎朝五時に起きる。日曜、祝日も四季を問わず、七十年以上続けている。起きるとすぐ、脚を開いて床に頭をつけるといった柔軟体操をひと通りしてから、手と手をこすり合わせ、額をこすり、わき腹をこする。目のツボ、耳のツボを押さえる。どれも五十回、百回と数えながらやる。血行を良くするために考え出した我流の健康法である」(『私の履歴書』経済人二十六巻 313p)
          *          *
 一芸に秀でる人は、何事も徹底しています。
 岩谷は70年以上も我流の健康法を続けていますが、自分にとってよいと思われる健康法を1つひとつ取り入れて、この年月が経ったのでしょう。
 年齢とともに体のメンテナンスをする時間が長くなりますが、自分なりの健康法を実践続ける必要があります。

 石川は初代経団連会長・石川一郎の六男として大正14年(1925)東京で生まれる。昭和23年(1948)に東京大学を卒業後、運輸省(現:国土交通省)に入省するが、同30年(1955)国鉄を退社。鹿島守之助の二女の婿となり、取締役として鹿島に入社する。社長、会長として原子力発電所、超高層ビル、名神高速道路など大型受注を推進した。また、日本商工会議所の会頭としてもリーダーシップを発揮した人物である。

 彼はスポーツ好きで、小学校の運動会ではいつも代表選手になっていた。しかし、小学6年のとき、結核の前段階である肺門リンパ腺炎にかかり、いっさいの運動が禁止された。
 中学校に入っても胸の病気が悪化し、欠席気味だった。中学1年の3学期から2年の2学期半ばまで休学しなければならない、重症であった。
彼にとって、問題は病そのものより、学校に復帰したあとだった。数学の授業に出てもさっぱりわからないし、休んでいるあいだに代数はどんどん進み、ついていけなくなっていた。その結果、2学期の通信簿は数学だけ落第点になっていた。
そのとき、石川はつくづく思った。「結局、誰も苦境に陥った自分を助けてくれない。母親やまわりのみんなが看病してくれるし、医者も診療してくれる。しかし、それは支援であって、自分自身が病気を治すという強い意志をもち、なすべき努力をしなければ回復しない」と。
 そこで健康時でも、体を強くしていないといつ病魔に襲われるかわからないと気づき、次のように決心する。

「体を鍛えよう。家で体操を始めた。簡単な内容から徐々にきつくし、腕立て伏せや縄跳びをするようになる。夜、はだしでテニスコートを走った。寒くても欠かさなかった。体が良くになるにつれ、勉強も身が入る。中学三年で皆に追い付き、四年になるころには、数学をはじめ成績はトップクラスに戻っていた。
今でも私は毎朝、体操をする。病気だとか早朝に急用があるかということがなければ、寝床から始めて一時間はする。竹踏みも千回だ。
中学での大病と数学の成績悪化を経験し、私は生涯を通じて自己を律する指針を得たように思う。『克己心』が人間にとっていかに大事かを身をもって知った。今でも座右の銘にしている」

 彼は中学生のとき、「健康は自分で守るもの」と気づき、誰にも相談せずに「なすべき努力をしなければ回復しない」と自分の体を鍛え始めたといいます。この気づきが再出発点です。
 すぐれた人は意志が強く、自分で決めたことは徹底して継続します。その一つが晩年でも毎日1000回の竹踏みでした。この数字は半端ではありません。「自分の健康は自分で守る」という気迫の感じられる数字です。

お金を味方にする方法

私にとって、これも健康法と同様、興味あるテーマでした。
お金を味方にする原理原則は読者のみなさんもいろいろな書物でお読みになり、なんとなくわかっているものの、実行するとなると思うようにいかないのが実情ではないでしょうか。

ここでは、読者への思いやりにあふれた助言3例を次に紹介します。

 大谷は、「自分で苦労してつくったタネ銭もなく、親の財産や他人の財産をアテにしているような人間に、ロクな人間はいない。また、そうした人間の事業がうまくいこうはずもない。自分の腕を磨くにはともかく、このタネ銭を持たなくてはできない」という持論をもっていた。
明治14年(1881)に富山の寒村に生まれた大谷は、31歳で上京する。相撲界を経て大正4年(1915)東京ロール製作所を創業するが、昭和15年(1940)企業統合し、大谷重工業とする。同39年(1964)の東京オリンピックに合わせて、ホテル・ニューオータニを開業し、日本のトップクラスのホテルに育て上げた。また、晩年は相撲界発展のため、蔵前国技館の建設にも貢献した。
 大谷は上京の際、母親の作った握り飯と20銭だけ持って上野に出た。深川の木賃宿で15銭払って泊まる。朝飯は3銭の焼き芋だった。相部屋になった顔利きに頼み込み、荷揚げの仕事にありついた。それは、船から陸地に渡された1枚の板を伝って砂糖袋を陸揚げする仕事だった。
 普通の人夫は肩に1俵乗せるのが精一杯だが、大谷は23貫(86kg)もする2俵を軽々と担いだから、みんなはびっくりした。「まるで弁慶だ」。1日働いて1円28銭を手にし、人夫姿を整えたという。
 その後、ふろ屋、米屋、相撲取り、酒屋などの地道な商売を始めて、コツコツとタネ銭を貯めた。彼はこの「タネ銭の大切さ」を「私の履歴書」掲載時の冒頭で読者に訴え、最後の稿でも、もう一度次のごとく「タネ銭哲学」を強調している。
「自分に力をつけるのも、信用を得るにも金である。私がタネ銭をつくれというのは、いたずらに金を残すのを楽しめというのではない。苦しみながら、タネ銭をためていくと、そこにいろんな知恵、知識が生まれてくるということだ。血のにじんだ金である以上、そう簡単には使えない。それは道理であろう。一本のえんぴつ、一枚の紙を買うにも、よく吟味して買うことになる。万事このようにタネ銭をつくるというのは、ただ“もとがね”を積み上げていくことだけでなく、その金があらゆる知恵と知識を与えてくれることになるのだ。“タネ銭をつくれ”というのは、そうした意である。その結果、もしタネ銭が十万円できたとしたなら、ものの考え方は一万円しかタネ銭がないときより、はるかに豊かに、大きな知恵と計画が出てくるものだ。これが“タネ銭哲学”の効用である」(『私の履歴書』経済人十一巻 465p)
          *          *
 タネ銭の額で持ち主の考え方が違ってくる――そしてその人間の器も違ってくる。
 この哲学は、私も父親から教えられましたが、多くの読者もこれに同感されると思います。これをどの程度まで実行するかは、各人に問われています。
 それを確認すれば、あとは自分の人生観に照らして実践するのみです。

石井は「独眼流」のペンネームをもち、相場の予言を次々と的中させたため、彼の信奉者は財界人や経済専門家も含めて多い。
大正12年(1923)福岡県に生まれた石井は、昭和21年(1946)警視庁に入所し、巡査となる。そして同23年(1948)東京自由証券に入社するが、株式新聞の記者などを経て、28年(1953)29歳のときに石井株式研究所を創立し、江戸橋証券も創立する。32年(1957)には立花証券を買収し、江戸橋証券と合併、同社社長となる。

福岡の農家に生まれた石井は、小学校卒業後、鉄工所に勤め、終戦と同時に弁護士を目指して上京する。しかし、巡査となったものの結婚と戦後の猛烈なインフレとで思うに任せず、株の世界に入る。証券会社の無給社員として仕事を覚え、歩合渉外員として独立する。
学識ゼロと自認する石井が経験不足を補うために必死で勉強したのが、失敗の研究だった。明治11年(1878)以来、70年にわたる取引所の歴史を調べ、「株成金」の言葉を生んだ鈴木九五郎や松谷天一坊について本を読むなど、徹底して失敗の研究を行なった。
その結果、相場で大儲けすると、どんな人間でも例外なく奢り、別荘を持ち、女を囲い、書画・骨董にうつつを抜かし、有名人と付き合って身を持ち崩していた。それならその逆をやればよい、というのが石井の結論だった。
そして自分を厳しく律した。朝は6時に起床、6時半にニュースを5分間聞き、新聞を読み、7時にトイレ、朝風呂、10分で食事をとり、7時25分に家を出て8時に出勤。夜の宴会は1次会で失礼し、11時には就寝するという徹底ぶりだった。「株式投資の要諦は、大天井と大底で間違えないことである」の言葉は、株式投資をする人にとって当たり前だが、周囲がまだ経験と勘を頼りにしていたなか、石井の相場観測は因果関係を分析し、数字を使って論理的に結論を導く、次のようなものだった。
「株の世界では早耳筋とか事情通であることが重要であると思われがちだ。私もよく『どんな情報ルートをお持ちですか』と聞かれるが、特殊なものがあるわけではない。私の勉強法は八割が新聞、雑誌、書籍から得た情報や知識で、人の話を聞く耳学問はあとの二割にすぎない。
迷惑になるといけないのでお名前は差し控えるが、私が“簿外資産”と呼んでいるおよそ百人のその道の専門家の方々の意見を参考にして、自分の考えをつくってきた。

相場観測では政策をどう読むかが重要なことは言うまでもない。だが、官僚や政治家は政策を動かす権力を握ってはいても、実際に政策を左右するのは国際収支であり、今なら経常収支の動向である。米国の財務長官発言が為替を動かすのではなく、その背景にある日本の黒字が円高をもたらして、政策を発動させるのだと理解している」(『私の履歴書』経済人三十巻 142、143p)
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相場の成功者である立花証券の石井久と山種証券の山崎種二が一致している株の要諦は、株を「売る」「買う」だけではいけない。「休む」ことも必要だということです。
株で利益を上げた客は「お金を休ませる」ことができなければ、金持ちになれないと警告しています。

戦後のドッジライン、民間貿易再開、朝鮮動乱など、激動の時期、越後は、伊藤忠商事の名古屋支店長だった。
近藤紡績、豊島などが凄惨な仕手戦を演じた名古屋の土地で独自の相場のカンを身につけ、昭和26年(1951)前後の繊維大暴落のときを売り抜け、当時の10億円を超える利益を収めた。
しかし、翌年28年(1953)に入ると、スターリン相場、7月の朝鮮休戦協定調印と矢継ぎ早の暴落で、商社の倒産が続出し始めた。そして本人も心労が重なり、ついに血を吐いて入院となる。それでもベッドに電話を置いて、穀物三品取引などの重要事項の指示を出していた。

暴落後の片づけが終わると、今度は強いデフレ政策が打ち出されたので、景気はさらに悪くなったが、繊維の輸出を推進し、需給関係の各種資料を研究して、三品市場における取引に臨んだ。
その結果、この大不況時に逆に業績を上げ、名古屋時代に次いで大阪時代も、再び総額で10億円を超える巨大な利益を上げることができた。

また、石油危機など予想もしなかった昭和40年(1965)代前半に、批判を押しのけて、採掘量も定かでないジャワ原油の販売権を取得し、西イリアン石油開発に投資したのも、名古屋で培った相場カンの賜物だった。その〝相場カン〟について彼は、次のように書いている。

「綿花、羊毛、砂糖、小麦、木材等世界的な商品は、諸情勢によって、世界の各市場において価格変動を繰り返しているものである。この実体を考える時、どんな企業であっても、世界を相手として活動する以上は、絶対に市況ないしは商品相場に敏感であることが必要である。商社は、そのほかに、為替相場の変動、海上運賃の推移に至るまで、各種の市況見通しが大切で、これら一つ一つの市況判断を間違えば、大変な危険に陥るのだ。
(中略)
私のやり方を要約すると、相場の判断は商品の継続的な需給関係を中心として、それに過去の上げ下げの値幅とその期間を最重要ポイントにおく。それから全体としての景気動向を考え合わせて結論をだすのだが、無論永年の経験によって最後の断を下すのだ」(『私の履歴書』経済人十六巻 191、192p)
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穀物三品相場など、商品相場は私にはまったくわかりませんが、興味ある読者もいらっしゃると思い、ここに採り上げました。このページの前後では越後の相場観の判断基準を詳しく紹介しています。

ここで紹介したお金を味方にする助言では、それぞれの成功者がその成功経験をもとにアドバイスしてくれたものです。この助言を忠実に、かつ愚直に徹底して行なう人のみが、願望を達成できるのだと思いました。

大震災への対応

東日本大震災の際、私は千葉のJR稲毛駅ビル内の書店から出口に向かっていました。一瞬めまいがしたように感じ、歩くことも難しくなりました。
まわりの人もお互いの顔を見つめ合いながら不思議そうな顔をしていましたが、誰かが「地震だ!」と叫ぶと、「きゃー」という声とともにいっせいにみんなが出口に殺到します。
店の陳列品もグラグラ揺れています。泳ぐような足どりですから思うように足が前に進みません。ようやく出口にたどり着くと、女性たちは抱き合って青い顔をして立ちすくんでいました。
数分後に自宅マンションに着くとエレベーターはストップ、4階の室内に入ると、落ちた絵や本などが散乱していたものの、食器やガラス類の破損はありませんでした。すぐテレビをつけ、大地震・津波情報を見続けることになりましたが、刻々と津波被害が拡大していく様子を、息を詰めて見つめるばかりでした。

マグニチュード9・0、震度7という数字の意味がわからず調べると、「マグニチュード」は地震の規模(エネルギー)を表わす単位で、9・0は国内観測史上最大であり、阪神大震災M7・3に比べて300倍以上の規模だという。
一方、「震度」は地震によってどれだけ揺れたかの強度だと書かれていました。今回の震度7は阪神大震災と同じですが、その揺れの時間は阪神の15秒に比べ、5分と20倍も長かったため、被害が東北から関東圏にまで増大したといいます。
東京都内、神奈川、千葉、埼玉でも一部が震度5強の揺れがありましたので、地下鉄を含む交通機関は首都圏全域で全面ストップし、空も成田空港が運行を取り止めるなど、大混乱でした。
阪神大震災は直下型地震(内陸地震)の震度7でしたが、大正時代に発生した関東大震災は海溝型地震で震度6でした。

次にご紹介する「私の履歴書」からの3例を読むと、大震災の恐ろしさをまざまざと実感させられます。
三越の松田伊三雄は退去したあとに本店が焼失することになりますが、ビル内の混乱の恐ろしさを、東京電力の青木均一は路上にいたときの激震の様相を、そして帝国ホテルの犬丸徹三は厨房からの火災発生回避を生々しく証言してくれています。

青木は、大震災の路上体験を次のように証言している。
「関東の大震災は、全く思いがけないできごとだった。私はちょうど路上におって、有楽町のガードをくぐったときだったが、瞬間なにごとぞと思っただけで、地震という連想はつかなかった。すぐ道路の真ん中に飛び出して、同行の友人にくるようにうながしたが、彼は両手を広げて泳ぐような格好をしたが、なかなか私の近くにこれなかった。地面は波をうち、そこから丸ノ内へんをながめたときには、両側のビルディングがいまにも相うつかと思った。
目の前の有楽町のプラットホームの屋根が大きな音を立てて倒れ、電車を待っていた数十のお客は路線に飛び降りた。有楽町駅のすぐ近くのふろ屋がつぶれて、土煙がモウモウと上にあがった。ガードの横に煉瓦造りの変電所があったが、これがグラグラとくずれ、そのくずれた煉瓦の中から血だらけの男が飛び出してきた。これみな一瞬のできごとである。このとき、ようやく大地震だということが自分にもわかった。
東京毛織の本社の建物は、いまの日劇のところにあった。木造四階建で古い建物だから、いまにもつぶれるかと手に汗して見ていたが、幸い無事だった。地震が終わると、全社員、表に飛び出してきた。聞いてみると立っていることができなくて、皆はいつくばってしまったそうだ。たしかにあれくらい揺れると、道路であろうと、屋内であろうと、歩くことは困難になる。
間もなくあちこちに火災が起きて、消防ポンプもかけつけてきたが、消火せんがだめで、手のつけようがなかった。そのうちに各方面に火事の煙が上がってきた。二時過ぎには、早く帰らないと危険だという声がだれいうとなく出て、私も赤坂の下宿にかえろうとした。回り道をして赤坂見附までたどりつくと、下宿あたりは焼け落ちたあととわかったので、そのまま青山五丁目にあった浦松君の家に押しかけて居候となった」(『私の履歴書』経済人四巻 231、232p)
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 震度7以上になると、古いビルの倒壊、古い木造建物の密集地帯の火災や自動車事故による引火発生、道路の液状化などによる混乱で首都圏の交通網は寸断され、600万人といわれる帰宅難民が大発生すると予想されています。
 NHK特別番組の今回の震災検証では、都内から近隣県に帰宅しようとする人たちは、ビルの窓ガラスの崩落、道路上の事故自動車や古い木造住宅地が火災発生し、次々と燃え広がっていきますから、帰宅すること自体が危険と警告しています。
 これらの対応を、行政はもちろんですが、各自が今から自衛方法を考えなければなりません。

犬丸は、大正12年9月1日の開業披露当日、昼食に約500人の名士を招待して祝宴を張り、続いて演芸場で余興を公開するという順序になっていた。
 彼は早朝から準備に忙殺されたが、正午少し前、客の来場を待つばかりとなったところへ、突然に大地震が襲来してきた。時に午前11時58分。地鳴りの音を聞いたと思った瞬間、足元を突き上げる激動を感じた。開業披露の当日大地震が発生するとは、なんたる運命のめぐり合わせであろうか。すべては天命なるかなと思ったという。
 しかし、この災厄は同時にこのホテル建物の優秀さを実証する結果をもたらした。ホテルは倒壊を免れた。最初の激動の中で、犬丸は建物の倒壊についてはなんの不安ももたなかった。ホテルの窓ガラスは、それから続いた前後数十回の震動にも1枚も破損しなかったからである。
 ここで犬丸は、ハッと厨房の火災発生を未然に防ぐ必要に気づき、次のようにすぐ行動を開始し、危機一髪で回避する。
「最初の震動が終わると、私は無意識のうちに料理場へ駆けつけた。料理人たちの姿は見えず、油の大なべをのせた電気ストーブが赤々と燃え、周囲には油が転々とこぼれて火焔を上げている。なべに火がはいったら万事休すである。私の叫ぶ声に応じて台の下から三人の菓子職人がはい出して来た。私は油滴の火を消すように命じ、壁のスイッチを切ったが、どうしたことかストーブが消えない。すぐメーン・スイッチを切らせてストーブは消えたが、同時に全館の電灯の灯が一斉に消えて暗くなった」(「私の履歴書」経済人四巻 420p)
 犬丸はその後、一段落したので山下橋の方角へ出ると、東京電灯(現:東京電力)本社の窓から早くも黒煙が噴き出していた。
ここでこのホテルが焼失したら、彼の一生の間にはこのホテルは絶対に建築不可能だとの考えが閃光のように脳裏に閃いていた。消防の努力で東電本社の火をどうにか防ぐことができたが、今度は愛国生命のビルに火が移った。リレー式で水を運び宿泊旅客総出の協力を得て、ようやく愛国生命の建物も火難に遭うことなく焼け残ったという。
 都内は一面凄惨なる火の海と化し、日比谷公園は避難する人であふれんばかりの状態を呈してきた。犬丸はこの危局に際し、独自の判断で宿泊客のすべてに対し、宿泊料を無料とし、外部からねぐらを求めてくる人も同様の取り扱いとした。
 食事はシチューのような簡単なものを提供し、同時に付近の建物から避難してきた人にもたき出しを行なってにぎりめしを供し、非常に感謝されたという。
 明けて9月2日、付近の火勢は依然猛烈をきわめ、多くの建物が順次焼け落ちてゆく。3日目に入ってようやく火災は大体終息した。
 日比谷一帯は芒たる焼け野原となり、諸所には余燼がいまだ消えず、そのあいだを着のみ着のままの避難者の群れが右往左往するありさまは、まことに筆舌に尽くし難い惨状であったと語っている。
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 今回の東日本大震災の発生時も、帝国ホテルでは関東大震災時の教訓が生きており、当日帰宅できなかった人や宿泊場所を確保できなかった人たち約2000名をホテル館内に留めさせ、スープや乾パンなどを提供したといいます。
 ほかの都内の一流ホテルと評されているところも同様で、寝場所と食料を提供したと聞いています。
 最悪の被害をもたらした関東大震災ですが、それにより学ぶこともまた多くあったのです。

この項では、記憶に新しい東日本大震災を念頭に、関東大震災について語っている「私の履歴書」を紹介しました。
 関東大震災の震度6強の被害を参考に、これから起こる可能性の高い阪神大震災と同じ震度7の大震災について考えることの必要が感じられます。
 首都圏の交通網の寸断、大火災や液状化、そして帰宅難民の大発生などの大混乱に、自治体や企業、家庭も備えておく必要を強く感じます。

松田は、店舗内にいて大震災の恐怖を次のように証言している。

「大正十二年(一九二三)九月一日。朝のうち激しい驟雨に見舞われた東京は、昼前には晴れ上がり、初秋の日差しが照り付けていた。その日は月初めだったので、私は一ヵ月分の食券を買い、地下の食堂で昼食をとろうとしていた。赤飯の定食だった。セルフサービスで膳を運び、テーブルに向ったとたん、地鳴りとともにググッと上下動を伴った激震に見舞われた。電灯も消え、真っ暗になった。

やがて薄明るい常夜灯がついたとき、目に入ったのは、ひとりひとりがことごとく前の人につかまって、数珠つなぎになっている光景であった。水道管が破裂したのか、水が床にあふれ、すのこが浮いている。お客の下足を取っていた時代だから私たちも靴したにカバーをかけていただけである。足もとがおぼつかなく、靴だけでも持ち出そうと、私物箱のところに行ったが、水が三十センチほどあふれていて靴どころではない。

とにかく職場に戻ろうと階段を捜すと、滝のように水が落ちている。余震の中をやっと四階のレコード売り場にたどりついた。散乱した品物や伝票の整理をしようと、カウンターの前に立ったところへ大きな揺れがきた。当時、レコードははしごをかけて棚から取り出したほどだから、見上げるほど上まで積んであった。その上の方のレコードが数枚、スーツと抜けて落ちてきた。これは危ないと身を引いたところへ、ガラガラと数千枚のレコードが落ちてきたのである。いまのLP盤と違って、材質も硬く型も大きい。これが何千枚と一挙にくずれ落ちたのだから、気付くのが一瞬おくれたらその下敷きとなり、命もなかっただろう。
くり返し襲ってくる余震の中で、商品整理を済ませ、シャッターを閉めた午後四時ごろやっと帰宅命令が出た。交通機関は途絶しているので、千駄ヶ谷の下宿まで歩いて帰った。警視庁前を通ると、道路が一面に地割れしていた」(『私の履歴書』経済人十四巻 342、343p)
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吉村昭著「関東大震災」の被災者の証言によると、震度6は「必死になって立ち上がろうとしたが、土地が上下となく、前後となく、左右となく、複雑に揺れて立つことができなかった。丁度、暴風雨に襲われた小舟の甲板に立っているようであった」とあります。
今回の東日本大震災でも東京は震度5強ですが、高層階ビルの最上階では横揺れが1m~3mあり、「とても立ってはおれず、床に座り込むしかなかった」と経験者は語っています。
陳列商品で重量物や壊れやすい貴重品は、身の安全・保護と物の保全の観点から、注意が必要です。

日本国へなど、経営リーダーからの提言

これは各執筆者が読者に「言っておきたい」「わかってほしい」「伝えたい」内容を「履歴書」の最後に記載したものです。

執筆者の心情を吐露しているものとして抽出しました。

 これまで、自分の経歴を大づかみに語ってきたが、最後に私の財界に対する注文を一つ。それは第一に経済道義の高揚ということだ。いまの日本の財界に一番欠けているのはこれだと思う。ことに出血競争がよくない。もともと商売というものは損することもあれば得をすることもあり、これは致し方ないが、はじめから損を覚悟で無茶な競争をやるのは、極端にいえば背徳行為であろう。三十一年前アメリカに行っていろいろな場所を視察し、多くの人に会ったが、各所で聞かされたのが、経済理念というものである。最近のアメリカでは、まずコンシュマー(消費者)に対する責任が第一で、次がシエアホルダー(株主)に対する責任、レーバー(労働者)に対する責任、最後にコミュニティ(社会)に対して責任があるという考えでやっている。

今の日本は「分断国家」である。国の形こそ朝鮮半島や以前のドイツのように分断されてはいないが、実体は二つに分かれている。

経済の世界では、世界的に競争力のある非規制業種と、競争力のない規制業種とが同居している。種々の規制でがんじがらめになり競争力を失った産業の存在が、生活コストを高騰させ日本に住む人々の生活を圧迫している。
しかし、規制業種の中でも、自らの創意工夫により、競争力を高める企業が出てきつつある。自己責任で競争を勝ち抜こうとする企業が、どんどん伸びていくような制度や仕組みを国が整備していく必要がある。

政治・文化の世界でも、やはり国際派と国内派という二つの勢力が同居している。世界各国から著名な政治家・経済人、学者が参加する国際会議のダボス会議に行くとよく分かる。
日本からも政治家や経済人が出席するが、メンバーは国際派と呼ばれる人たちで固定しがち。一方日本以外からの参加者を見ると、世界最大のソフト会社であるマイクロソフトのビル・ゲイツ会長や中国の朱鎔基首相など国を代表する経営者や政治家が当たり前のように出席している。先進国で国際派・国内派なんて色分けが今でもまかり通っているのは日本ぐらいだ。

一言で言うと、この国には「二つの日本」が存在する。グローバルな視点で眺めると、こうした状況は異質だ。次の世紀に日本が世界と共生し、光り輝く国でいるためには、二つの日本を一つにしていく必要がある。
では日本はそのために何をすればいいのか。突き詰めればグローバルな舞台で通用する人材の育成に行き着く。例えば、情報技術(IT)の普及でグローバル化が進展する中で、IT教育を強化していくことは不可欠だ。単にパソコンを使いこなすだけでなく、ソフトを創造できる人材を育てる必要があるだろう。中略。

私は以前から「若者、女性、地方、外国人」に期待すると言ってきた。戦後の日本社会を作り上げてきたのが「中高年、男性、中央、日本人」だとすれば、今必要とされているのは、そうしたいわゆるエスタブリッシュメントとは異なる人たちの発想だと思うからだ。成功体験に縛られたエスタブリッシュメントは自己否定できない。かく言う私だって似たようなものだ。
たとえ今は少数派でもいい。日本を光り輝く国にしようという志を持った人たちが新しい国を創っていってほしい。日本を変える意志を持った人だけが日本を変えられるのだから。

 いまや、財政体質の健全化が国家的な課題だが、あえてもう一点、政と官との関係に触れて筆をおくこととする。政治家は公務員の力をもっと引き出していただきたい。公務員は分を心得つつも、国民のための行政府のあり方に「志」を持って取組んで欲しい。
(日本経済新聞 2004.4.30)

八十年近い人生で身に染み付いた思いは日々新たに確信の度を増している。それは、お客様は来て下さらないもの、お取引先は売って下さらないもの、銀行は貸して下さらないもの、というのが商売の基本である。だからこそ、一番大切なのは信用であり、信用の担保はお金や物ではなく人間としての誠実さ、真面目さ、そして何よりも真摯である、ということだ。
 爛熟期を迎えた日本は成功の裏で大きなゆがみを蓄積したまま、考えられないほど豊かになりすぎたのではないか。政治や行政、金融などゆがみは様々だが、根っこにあるのは人間の問題だと思う。
 日本人は食べられることの有り難さを忘れ、自分たちがいかに贅沢をしているのに気づかず、それを当たり前と思い込んでいる。驕れる者久しからず。感謝の心を忘れ、己の力を過信する者の末路は、洋の東西、時代の今昔を問わない。そういう私自身、バベルの塔を上り詰めた愚か者ではないかと自問している。恐ろしいことが待ち構えているような気がしてならない。
中略。
 日本人、そしてヨーカ堂グループの社員には、自分たちがいかに恵まれているかに思いをいたし、謙虚になって志を立て、明治維新、戦後改革に続く第三の創業に挑戦してもらいたい。そうすれば、必ずや、明るい未来が開けると確信している。
(「私の履歴書」経済人三十八巻158,159p)