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個人ではどうしようもないときがあります。運命というか歴史の転換点の場合があります。

太平洋戦争末期で日本国の戦略・戦術が失敗に終わり、敗戦が濃厚になってきたときです。この戦争の終結に向けて、天皇や政府の首脳陣が、いかに日本国民を安全に帰結させることができるか、またその終戦宣言後の混乱を平穏に鎮めるか、そして新しい日本国の再出発のための法律などの手配を準備するか、などに頭を悩ませていました。

「私の履歴書」では、登場人物がそれぞれの与えられた任務から使命感を持って立ち向かった裏話を語ってくれています。これらを抽出しました。

日本でいちばん長い日の前後

1945年7月、太平洋戦争末期。連合国は日本にポツダム宣言受諾を要求。無条件降伏か、それとも本土決戦か。連日連夜、閣議が開かれるが議論は紛糾する。8月6日に広島に原爆投下、8日にソ連が日ソ中立条約を破棄し宣戦布告、そして9日に長崎に相次いで原爆が投下され、事態はますます悪化の一途になった。
8月9日の御前会議では、無条件降伏は軍隊であって国家としてではない。それなら日本国の存在がなくなることはないとして、日本国は厳重に主権を保持しつつ戦争を終結しうるので、ポツダム宣言を受け入れることとなった。
しかし、阿南惟幾・陸軍大臣は「陸軍としては、このままここで戦争を終結することになれば、国体の護持について確信が持てないので反対」と強硬に主張。これに同調する意見もあり、閣議不統一で休憩となり、結論を持ち越す。

そして14日の御前会議となるが、その4日間に外務省はポツダム宣言の解釈上の最後の詰めを行っていた。それは「戦争の終結」か、それとも交渉を有利に引き出す「本土決戦」か、両派により適正な判断をしてもらうための、連合国側との交渉であった。
連合国と解釈の確認(下田条約局課長が下記に詳細)を取った上で、陛下から終戦のご聖断が下ったがその後の玉音放送の録音、その保管、これを阻止しようとするクーデター(宮城事件)など、目まぐるしく緊迫した時間が過ぎる。ちょうど、半籐一利による小説『日本のいちばん長い日』のような、8月14日から「ご聖断」が下った前後の緊迫した「履歴書」登場人物の関与や活動をここに集めてみた。

広島県生まれ。東京大学卒業後、内務省入省。1945年4月から8月まで内務次官。戦後衆議院議員。厚生大臣、文部大臣(6期も努め文部の灘尾と言われた)、衆議院議長。

 灘尾は1945(昭和20)年4月に内務省次官に任命された。直後に「国民義勇隊」の組織づくりを全国の知事の協力を得て行う体制となった。
 ところがこの組織ができるにしたがって、軍部をはじめ各方面の関心が高まり、この総司令官に当時の単一政党であった大日本政治会の総裁・南大将を迎える話が出た。灘尾は内務大臣と一緒にこれを断った。灘尾は国内が物資の不足でどんどん疲弊している情況下で、次のように証言している。

「終戦直前に内務省が手がけた『国民義勇隊』は、未曾有の困難が日本に押し寄せるのを予想し、それに対処するための最後の国民の動員組織であった。戦場にすべてを駆り立てようとしたのではない。
 地方では、所によって曲解され、竹ヤリ訓練あるいは軍事教練の真似事をするようなじたいはあったが、私どもの真意はそんなところにはなかった。勤労総動員的なもので国民の力を結集する純粋なものであった。(中略)
 身びいきに聞こえるかもしれないけれど、なんとか戦争が続けられたのは、明治から培われた県庁などの行政組織があったためと思う。全国の人たちが、県庁を中心に一致団結して動くという体制があったればこそ、どうやらやっていけたのであろう。
 しかし、ありとあらゆる統制法規がどんどん出されても、地方ではそれを消化するだけの力はなくなっていた。県庁ではどうやら処理できても、町村役場に回ったころは、通達は積んで置かれるだけになっていただろう。統制経済といっても、裏の方では自由経済であった」

「統制経済といっても、裏の方では自由経済であった」とは、日本経済全体が疲弊していて、食料も一般の生活物資も欠乏していた証拠だから、天皇の戦争終結のご聖断は、国民を救ったことになる。国民義勇隊は玉音放送がされた1週間後の8月21日に閣議で廃止が決定され、同年9月2日に解散された。

東京府生まれ。1931年東大を卒業後、外務省に入省。条約局長、駐ソ連大使を経て事務次官。次いで駐米大使。最高裁判事。プロ野球コミッショナー。

 下田はモスクワ滞在2年足らずで、昭和20年3月帰国命令を受けた。当時、ドイツはすでに敗北直前にあり、日本の戦局も極端に不利になっていた。彼がモスクワをたってからソ連国境に出るまでに、通常の所要日数の倍近くかかった。シベリアを東行する列車は日に何回となく待避線へ入れられ、長い列車が轟音を立てて追い越していく。ソ連はいよいよ関東軍の背後を突くべく多数の兵員と大量の武器弾薬を、ソ連国境に向けて急送しつつあった。
 下田は6月下旬、条約局第1課長に任ぜられ、上司から7月下旬に入手の「ポツダム宣言」の正確な訳文と解説を作るよう命ぜられた。この訳文が今日でも「六法全書」に載っている同宣言の日本文であるという。下田は当時を振り返り、次のように証言している。

「ポツダム宣言の出た後、終戦工作を進める外務省では、息詰まる緊迫した日が続いた。8月6日広島に原爆投下、次いでソ連参戦をみるや、政府はついにわが国体さえ護持し得るなら、この宣言を受諾するという方針を固め、連合国にこの点の確認を至急求めることとなった。同時にこの宣言は『天皇の国家統治の大権』を変更する要求を含んでいないとの了解のもとに、これを受諾する旨を8月10日スイス、スウェーデン両中立国政府を介して申し入れることにした。(後略)

 しかし、実は連合国から送られてきた回答文の中には、日本文に訳す上で見逃すわけにいかない、非常に困った箇所が2つあったのだという。

「これを直訳すれば徹底抗戦派の主張に力を与えることになるのは明らかであった。
 その一つは天皇の国家統治の大権の取り扱いで、原文には連合国最高司令官にsubject toとあり、直訳すると『隷属する』になってしまう。これでは大変なことになるので、『制限の下におかれる』と意訳した。
 また、もう一つは日本国のultimate form of governmentで、直訳すればまさに『国体』である。原文では、それは『ポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとする』となっているので、そのまま訳したのでは、徹底抗戦派が、それでは国体の護持にならぬとして、戦争継続を主張することは火を見るよりも明らかであった。
 そこで『最終的の日本国の政府の形態は……』と意訳して、天皇陛下は無キズで、その下にある政府の形態が国民の意思によって自由に決められるともとれるようにしたのである。
かくて8月14日の御前会議でご聖断が下り、翌15日、終戦の玉音放送が行われた。外務省のさんさんたる焼け跡に整列し、これを拝聴したわれわれ一同は、涙の滂沱(ぼうだ)と流れ落ちるのを止めようがなかった」

 下田が意訳した上記「天皇陛下の無キズ」「国体の護持」の2つは、日本の根本方針であったから、外務省は連合国側との息詰まる折衝で合意にこぎつけた。
 この確認が取れたからこそ、最後の御前会議で陛下のご聖断へとつながった。外務省の高官や下田は自分の命を賭しての交渉だったと思われる。

北海道生まれ。1924年東京大学卒業、内務省に入省。富山県知事、内務省警保局長、警視総監、北海道知事、参議院議員、自治大臣歴任。兄は町村敬貴で元参議院議員、息子に町村信孝がいる。

 町村は昭和20年2月に新潟県知事に就任したが、2ケ月後の4月には鈴木貫太郎内閣が成立したのに伴い、警視総監に任命された。そして終戦前夜と当日を次のように書いている。

「いよいよ8月15日を明日に迎える前夜、私は総監室で仮眠をとっていた。するとまだ夜も明けやらぬうちに、『坂下門にいた皇宮警察官が姿を消し、代わりに兵隊が立っている』との報に続いて、『総理官邸に軍が押し入り、総理の私邸も襲われたが、総理は無事』『NHKが軍によって占拠された』などの情報が次々に入ってくる。総理官邸にいた迫水久常書記官長も、官邸を抜け出して私の総監室に見えた。
 軍隊の反乱行為は陸軍が解決すべきと考えていたので、かねての打ち合わせ通り、警保局長の水池亮君が陸軍大臣に、そして私は東部軍管区指令官に、すみやかな解決を求めるべく駆けつけた。
 東部軍管区指令部は今の第一生命ビルにあって、司令官は田中静壹大将であった。田中司令官は私の顔を見るや、『まことに申し訳ないことを仕出かしました。私はすぐに宮城に向かい、必ず解決して正午の陛下のご放送に支障がないようにいたします』と、決意を表情に出して言われ、司令官は副官ただ一人を連れて宮城に向かった。(後略)

 田中司令官は、3月からの空襲により明治神宮や明治宮殿が消失した際、帝都防空の責任者として進退伺を出したが、昭和天皇に慰留されていた。その陛下の緊急時は国家の一大事、と駆けつけた。

 後になって、宮城に向かった田中司令官は首謀者の畑中少佐らを集めて厳しく説諭されたので、彼らも非を詫びて自害を遂げ、事件は鎮圧されたのだった。(中略)
 8月30日、連合軍司令官マッカーサー元帥が厚木に降り立った。それを伝えるラジオ放送を聞いて、田中大将は、静かに自害されたのである」

 終戦後、この第一生命ビルに連合国本部が置かれ、マッカーサー最高司令官が執務することになる。
「田中司令官は首謀者の畑中少佐を集めて厳しく説諭」とあるが、反乱軍も簡単には説得されなかったであろう。田中大将は反乱軍の国を想う純粋な気持ちに同情しながらも、必死の説得に努め、それに成功する。しかし、8月30日に田中大将が自害された原因を、町村は「反乱軍への同情」とその「司令官としての責任遂行」の両面だと察して、哀悼の意をここに書き記したように、私には思える。

東京府に入江為守子爵・貴族院議員の三男として生まれる。父・為守も侍従長であった。生家は歌道冷泉派の宗家・冷泉家の流れを汲む「歌の家」。1929年東京大学卒業。学習院の講師、教授を経て、1934年に宮内庁侍従、69年侍従長となる。侍従在任中の『入江相政日記』(朝日新聞社)は有名。

 入江は8月15日午前3時、天皇陛下が「終戦勅語」の録音を2度(2枚)され、吹上御所にお帰りなった後やっとベッドに入り、ウトウトした。そのとき宮城事件が起きた。これは1945年(昭和20)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件であった。
 日本の降伏を阻止しようと企図した将校たちは。近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自殺もしくは逮捕され、日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。入江はこのときの緊迫した様子を次のように証言している。

「すぐにたたき起こされ、『大変なことになっているのに、なにをぼやぼや寝ているのか』と。私をたたき起こしたのは、徳川(侍従次長)、戸田(東宮侍従長)の両侍従。この吹上の御文庫は、すでに反乱軍によってすっかり取り囲まれており、電話線は、みんな切られてしまっていた。(中略)
 そこらにいる皇宮警察の人の協力で、鉄扉の桟(さん)をすっかりおろした。戦争以来、シャッターは、毎晩必ずおろしていた。鉄扉も閉めたが、上下二段の桟は、一つだけしかおろさなかった。戦争中は、爆風を防ぐための鉄扉なので、ひとつだけで十分だったのが、これから襲いかかろうとしている日本人の敵に対しては、閉めておかなくては。4年間の戦争中、一度もおろさなかったものだから、錆びついていて、どうにもならないが、皇宮警察の力持ちが、ぶらさがるようにして、すっかりおろしてくれた」

 反乱軍の大尉がやってきて武装解除を命令されたが、入江は「傍系の指図で解除するわけにはいかない」と拒否する。すると直後に一個小隊か一個中隊かが、押し寄せてくる予感がした。「これらの連中は陛下を擁して、本土決戦をしようとしている。陛下を奪われてはならない」と緊張感が走る。
 もし、撃ち合いになり皇宮警察官5人のすべてがやられ、この部屋にどっと迫って来た場合、「陛下はどこだ」と詰問されれば、永積侍従と2人で「さぁ、どこにいらっしゃるか」と、その辺のドアを開けてみたり、トイレを探したりの時間稼ぎをするしかないと腹をくくっていた。どんなに食い止めようとしても、力は及ばない。しかし、陛下のところに連れて行くわけにはいかないと。
 入江は恐怖に怯え、緊張した数時間が過ぎた。すると急にドアが開き、カーキ色の軍服が現れた。ドキッとしたが、よく見るとそれは田中静壹大将であった(町村金吾の「履歴書」参照)。そのとき、初めて「助かった」と思ったと書いている。

東京府生まれ。学習院、陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て1938年、陸軍大学卒業。陸軍少将竹田宮恒久王の第1王子で、母は明治天皇の第6皇女常宮昌子内親王、昭和天皇の従弟にあたる。

 竹田は戦争末期の1945年(昭和20)7月に、関東軍参謀から東京の第一総軍参謀に転任を命じられていた。彼の後任は新進気鋭の瀬島龍三参謀(のちに伊藤忠商事・会長)であった。
 8月6日、広島に原爆投下、その3日後には長崎にも投下された。こうした情勢下で、終戦の色が漂い始め、陸軍の統帥部では当然ながら深刻な議論が交わされた。皇族の間でも終戦につながる話し合いが行われてもいた。竹田は皇族の立場から次のように証言している。

「そんなある日、天皇陛下の思し召しにより、男子の皇族全員が吹上御苑内の地下防空壕に集まった。陛下は緊張されたご様子で、『これ以上戦争を続けることは国民をただ苦しませるだけである。ここで戦争を終わらせたい。今後は日本の再建のために尽くしてもらいたい』という趣旨のご決意をもらされた。われわれは『陛下のご英断に従い、国体維持に全力を尽くします』という意味のお誓いをした。これは終戦を決定された御前会議の前日(13日:筆者注)であったかと記憶している。(中略)
8月15日の玉音放送は市谷台上の第一総軍司令部で拝聴した。翌日、陛下の思し召しで仮宮殿に参内すると、浅香、東久邇、閑院の各宮といっしょになった。『何のお召しか?』と話し合っていたら、東久邇以外の三人がいっしょに御前に呼ばれた。
 陛下は『ご苦労だが、すぐに各方面の派遣軍へ行って停戦を伝えてもらいたい。いままで戦ってきた軍隊が急にホコを収めるのはむずかしいことだろうと思うが、これ以上不幸な戦争が続かないように、自分(陛下)の気持ちを第一線の将兵によく伝えてもらいたい』とおっしゃられた。浅香宮は支那派遣軍、閑院宮は南方派遣軍、そして私は関東軍に行くことになった。東久邇宮に組閣の大命が下ったのはこのすぐあとだった。
 我々の飛行機はすでに用意されており、翌17日にたつこととなった。しかし満州(現中国東北)ではソ連軍が侵攻しつつあるときだし、いつ米軍が本土に進駐してくるかもわからない。私は再び生きて帰れないことを覚悟して、その夜を徹して身辺の整理を行った。
こうして天皇陛下から下命された鎮撫使として関東軍へ終戦の聖旨を伝えに行った」

 この記述によると、8月15日の玉音放送の翌日16日に、4人の皇室が天皇陛下に集められている。そして、海外の主要前線基地に行き、陛下からの停戦命令を伝え、「不幸な戦争が続かないよう鎮撫せよ」との司令は、用意周到で戦争の現場事情を知悉した言動であったと感動した。この皇室4名の活用はお見事だと思わず唸ってしまった。

山形県生まれ。東京大学卒後、内務省に入省。事務次官を8年務める。その間、地方自治法をはじめとする地方自治関連法(地方財政法、地方公営企業法、地方税法、公職選挙法など)や東京都の制度は実質的に鈴木が官僚として作り上げた。大阪万博の事務総長、東京都知事。

 鈴木は1945年(昭和20)4月には、内閣参事官から古巣の内務省に業務課長として戻っていた。そして、8月15日正午、安倍源基内務大臣、灘尾弘吉次官、入江誠一郎地方局長ら内務省幹部とともに、内務省5階の大会議室で、天皇陛下の玉音放送を聞いた。
 みんな、涙で顔をクシャクシャにしながら、この大きなショックを受け止めていた。そして早期復興を目指して動き出す様子を次のごとく記している。

「その日の午後から内務省では直ちに終戦処理体制の検討に入った。戦時業務課長だった私は、部下の奥野誠亮君らとともに、灘尾次官や入江局長の部屋に入って情報収集に努めるとともに、これからどうするべきか話し合った。(中略)
 日本が受諾したポツダム宣言の中には『日本の民主主義の復活強化』がうたわれており、私が昭和8年に入省して以来、携わってきた地方制度も抜本的に見直されるのは、はっきりしていた。(中略)
 GHQは『日本に民主主義を定着させるためには、これまでの行き過ぎた中央集権制を改め、地方にできるだけ権限を移譲させることが必要』として、まず知事の公選制を迫ってきた。21年にこれを実現したのを手始めに、選挙制度の改正、地方自治法の制定、内務省の解体、警察・教育制度の改正、地方公務員法の制定と次から次へと新しい地方制度をつくっていった。これらはいずれも現在の地方自治の土台になっているものばかりである」

 こうして、現在の地方自治の土台をつくった鈴木が、地方行政の生みの親といわれることになった。
 それにしても、日本の官僚は優秀で、国家・国民に奉仕する使命感を持ってくれている。日本の新しい民主主義制度を築くために、玉音放送を聞いたあと、ただちに若い官僚が動き出す姿は感動的であった。
 日本でいちばん長い日は、ご聖断とそれにつながる玉音放送で終わるが、日本の新しい門出の日でもあったのだ。

財閥解体(GHQが日本で推し進めた二大改革は農地改革と財閥解体)

大成観光(現ホテルオークラ)社長。会長。第二次世界大戦後、連合国占領統治下の日本に於いて、持株会社整理委員会(HCLC)常務委員・委員長として財閥解体に当たる。HCLC解散後はホテルオークラの立ち上げに参加。日本ホテルの国際化の礎を築いた人物である。

 野田は1897年、長崎の生まれで、大正7年(1928)東京高商(現一橋大学)を卒業し、三井物産に入社する。英語が得意だったことから、すぐシアトル出張所に配属された。しかし、米国人女性と結婚したため、人種偏見が強い当時の国際結婚は双方の家族や社内の抵抗を受け、やむなく翌年三井物産を退社する。
その後、日綿実業に入社、ニューヨーク支店長で活躍するが、日中戦争を契機に日米関係が悪化のため、1943年9月に、妻子を置いたまま強制帰国させられた。帰国後、嘱託として海軍省に出向。海外放送などの翻訳・分析に従事した。また軍令部に置かれた「対米研究会」に加わり、主にアメリカ人の国民意識について意見提言などで活躍していた。
敗戦後の1946年5月、持株会社整理委員会(HCLC)の委員となり、1949年11月に委員長に就任する。企業とGHQの間に立ちつつ、合計408社に及ぶ持株会社・過度経済力集中排除法指定会社の整理や財閥家族・役員の産業界からの追放という、世界でも類を見ない国家規模の産業再編成を指揮したのだった。
 連合軍総司令部(GHQ)が日本で推し進めた二大改革は農地改革と財閥解体だが、彼は財閥解体を担当し、日本側交渉人として中心的な役割を果たした。彼は次のように詳述しています。

「GHQが財閥解体に取り組むのであるが、GHQの目的は、当初から日本産業の完全な破壊ではなく、世界の産業、商業、貿易の脅威にならない程度の解体であった。経済科学(ESS)局長クレーマー大佐は十月十五日にその線に沿った覚書を出し、四大財閥の自発的解体を促している。
三井、三菱、住友、安田の四大財閥はこれに抵抗したが、まず安田、そして最後に三菱が自発的解体に応じ、十一月四日、政府と協議のうえ解体案を作った。その骨子は①一切の株式と関係企業に持つ権利を、日本政府が設置する持株会社整理委員会に移管し、解体を受ける②三井、岩崎などの財閥一家はすべての事業から引退し、各財閥役員も辞任する――などであり、GHQもこの案を承認した。(中略)
委員会は五年間にこれら指定会社のうち、財閥本社的機能を持っている二十社を解散し、その他は資本関係を整理させ、これら会社が所有していた一億五千五百万余株、額面七十億七千四百七十余万円の株式と、財閥家族の所有していた一千万余株、四億九千七百万円の株式を処分し、それらの企業の従業員と一般投資家に分売した。
 さらにGHQは財閥解体の趣旨をより徹底し、競争原理を導入するため、『過度経済力集中排除法』を日本政府に作らせ、その執行をも整理委員会にゆだねた。この方法に基づき、昭和二十三年二月には主要企業の大部分、三百二十五社が分割の対象企業としてあげられた。(中略)
だが、米ソ冷戦の進行とともに、米政府は対日占領政策を非軍事化から経済自立の促進に転換し、過度経済力集中排除法も『競争を阻害することが歴然たる場合』に限って適用することになり、結局、日本製鉄、三菱重工業など十八社を過度集中と認定し、うち三社を企業分割、四社に持ち株処分、三社に 一部工場の処分を指令したにとどまった。
 持株会社整理委員会は昭和二十六年七月、役目を終えて解散したが、この財閥解体により、財閥ファミリーによる企業支配は全くついえ去った。今日、企業合併などによる巨大企業は復活したが、その資本的、人的な支配関係は、戦前の財閥支配時代とは一変したものとなっているのは周知の通りである」

 朝鮮戦争勃発のため米ソ冷戦が始まり、急遽「過度経済力集中排除法」の対象会社になった325社が、日本の経済力に大打撃を与えないよう日本製鐵、三菱重工など大手18社に絞り込まれたと書いている。
 それでも、この法の完全実施により、財閥による企業支配は大きく後退し、若い戦後企業の台頭を招く事になりました。
 また同時に、高級官僚や財閥系の現役役員クラスは戦争責任を問われ追放となり、若手経営者を登用することになったため、この若手経営者の新しい感覚での経営が経済の活性化を産み、日本の産業を大躍進させる原動力となったのは周知のとおりです。
彼は歴史の転換点で難題に立ち向かい大きな仕事を成し遂げました。それはGHQの財閥解体の真意を見極め、日本産業復興に大打撃にならない落としどころを探り、決着させたことでした。
彼はこの委員会が解散した後、安田財閥が財閥解体で帝国ホテルを手放したため、帝国ホテルに並ぶ国際的ホテル建設の夢を抱いていた大倉喜七郎に協力し、1962年ホテルオークラ(現在のホテルオークラ東京)を開業させる。そして、社長、会長として1964年東京オリンピックを背景に、日本のホテルの質の向上に力を注ぎ、観光行政の強化や史跡・自然保護を訴え貢献したのでした。

皇室の財産分離(戦後の日本国憲法から、皇室財産は国に属するものとなった)

大蔵官僚、実業家。元大蔵事務次官。元太陽銀行頭取、太陽神戸銀行会長。

河野は1907年、広島県で生まれ、陸軍軍人だった父親が退官し東京で事業を始めたため、9歳から東京で育つった。1930年3月、東京大学を卒業し、大蔵省に入省する。1943年、軍属でシンガポールに赴任し、占領地域の財政金融を担当した。
そして、帰国後1945年3月、大蔵省復帰、主計局第1課長となるが、8月15日からの終戦後は、財政破綻状態のなか、1945年度予算の組み直しやGHQの費用(米軍駐留費など)を担当する終戦処理費、さらに警察予備隊創設費用など、戦後GHQ占領下の財政処理に奔走することになった。
しかし、彼は大蔵省からの出向により政府部内の憲法改正準備委員会に所属していたため、皇室財産の分離にも関与することになったのでした。

 皇室財産は、明治の大日本帝国憲法下では御料(ごりょう)あるいは御料地(ごりょうち)と呼ばれ、帝国議会の統制外にありました。そして、御料そのものは憲法制定以前から存在し、大部分の御料の形成は憲法制定に深いかかわりがありました。それゆえ、それまでは皇室財産には膨大な御料(高輪、新宿御苑、各府県神社など土地)が含まれていました。
 しかし、敗戦後の日本国憲法では、憲法上の明文により、皇室財産は国に属するものとされ、皇室の費用は予算に計上して国会の議決を経ることとなったのでした。その分離課程を彼は次のように証言しています。

「新憲法は昭和二十一年十一月三日に公布され、その半年後に発効することとなった。私たちはそれまでに明治憲法下の諸制度を変えなくてはならなかった。その第一番が皇室財政制度の切り替えであった。
 それまでの皇室の会計は、国とは別に宮内庁の経理になっていたが、新憲法では、宮中府中の別は許されず、一切の皇室財産は国に帰属し、皇室の費用も国の予算に計上、国会の承認を要することとなった。皇室財産といっても、神器、御陵墓、正倉院など、それに伊藤博文が明治憲法発布前に編入したといわれる数百万町歩の帝室林野がある。これに一般国民と等しく財産税がかけられることになった。
 評価の結果、皇室財産の総額は三十七億円、これにかかる財産税が三十四億円で、この分は物納で国に帰属した。残りも憲法の規定で国に帰属するが、一部身の回り品などを、天皇の私的財産として残した。その額は最高の財産税を払ったある財閥の人の手取り額を勘案して決められた」

 皇室は儀式に用いる屏風や刀剣などのほか、海外の賓客などから献納された美術品、明治の院展などで買い上げた美術品(絵画・書・工芸品)や文化財を所有しています。この他、神器、皇居、各地の御用邸、御陵墓(伊勢神宮、仁徳天皇陵など)、正倉院、京都御所、御料牧場などもあります。これらの価格を時価評価し、財閥の創業者と同じレベルで財産分離を行なったと証言しています。財産税34億円を数百万町歩の林野で物納したそうですが、その中には山林や新宿御苑、各府県神社などの土地・建物も入っていました。因みにフリー百科事典で調べると、土地だけで20,136ヘクタールが2,718ヘクタールになり、全体の13.5%に縮小されました。どれでも、平成24年3月31日現在の皇室財産(皇居など15点)は土地・建物をふくめ、514,122百万円となっていました。
 それにしても、彼は新憲法における天皇(皇室)の位置づけと存続などを熟慮し、必要な財産保全をおこなったのでした。彼が歴史の転換点に立ち向かい、平穏に内容を決着させた功績は大きいと思われます。
また、昭和天皇の崩御後の1989年(平成元年)6月に、皇室から国庫に美術品約6000点が寄贈され、これを保存、研究、公開するための施設として三の丸尚蔵館が1993年(平成5年)に開館され、この中には、江戸時代の国宝級のものや画家・伊藤若冲の絵30幅シリーズも含まれていました。これは国家財産ですね。

特攻隊の出撃3例

太平洋戦争末期における日本軍の航空機の数的不利と航空機燃料の品質悪化や航空機の生産過程での品質低下などのほか、米軍のB29,艦載機等に代表される飛行機の飛躍的機能向上により、日本軍の航空戦力が劣勢になっていました。
通常の航空攻撃では十分な戦果を敵艦隊から挙げ難くなっていたため、少数の兵力で有効な戦果を挙げる必要があり、最も確率の高い方法として特攻隊が編成されました。

特攻(特別攻撃)とは、爆弾を搭載した軍用機や爆薬を載せた高速艇等の各種兵器が、敵艦隊を目標に乗組員ごと体当たりする戦法である。
太平洋戦争末期の日本で、陸海軍あげての大規模な作戦として実施されたが、乗組員が生還する可能性は皆無に等しく、「出撃」や「突入」は、すなわち「死」を意味しました。

大正13年(1924)東京生まれ。昭和19年(1944)海軍経理学校入校。同22年(1947)東大卒、大蔵省入省。同54年(1979)大蔵事務次官。同57年(1982)日本専売公社総裁。同60年(1985)日本たばこ初代社長。同63年(1988)東証理事長、平成6年(1994)退任。

*長岡は昭和19年(1944)9月、築地の海軍経理学校の現役主計科士官に合格した。半年間で即席の海軍士官に養成されるのだから、訓練は相当に厳しかった。学業のほかカッター、相撲、駆け足などがあった。雪の日のカッター訓練は苦しかったが、食事の内容も日に日に悪くなっていったという。
 彼は昭和20年(1945)4月1日に愛知県明治村にある海軍航空基地に配属され、管理部門の中枢である文書課長兼秘書課長のような仕事に就いた。当時のやるせない気持ちを次のように記している。

六月一日、少尉に任官した。沖縄方面への特別攻撃隊がわが隊から出撃するようになっていた。私は帽子を目いっぱい振って見送った。帰還する飛行機は皆無だった。
特攻隊。出陣前夜は酒保からお酒の特配をした。副官部の私の部屋がある隊舎の隣の隊舎で、最後の宴が開かれている。初めは勇ましい軍歌、続いて酒席でよく歌うような流行歌が聞こえてくる。そして最後に、どの隊員も「雨々降れ降れ母さんが・・・」などと童謡を歌って灯が消えるのだった。(日本経済新聞2004.4.8)

最初は勇ましい軍歌、しかし最後の歌は、どの隊員も「雨々降れ降れ母さんが・・・」を歌ったという。特に「母さん・・」の言葉に心を込めて歌ったはずです。幼き日の思い出と感謝とお詫びが交錯して、きっと涙声になったことでしょう。このシーンを思い出すだけで胸にジーンときます。

静岡県生まれ。1940年東京商大予科、学徒出陣、大竹海兵団に入隊。特攻隊員となるが出撃直前に敗戦。46年東京商大卒、兼松入社。80年に社長、会長。絵画、短歌などの趣味人。

*鈴木は昭和15年(1940)に東京商大予科に入学するが、予科生活2年半で「学年短縮」となり大学生となる。そして昭和18年(1943)海軍に入隊して広島県大竹、茨城県土浦、鹿児島県出水航空隊に転属し、猛烈な飛行訓練を受ける。そして、昭和20年(1945)4月特攻隊志願書に署名し、出撃の順番を待つ身となった。今日は自分の名前が呼ばれるか、今日はなかったから明日か?そんな運命の日を待つ毎日だった。そのときの心境と情景を次のように語っている。

毎夕、五時、翌朝発信の特攻隊編成表が発表される。白い巻紙が壁に張られる運命の一瞬、全員の目は釘づけとなる。異様な声が渦まき、隊内は騒然となる。指名された者の周りに人が集まるが、彼はじっとしてはおられない。残りの人生が一挙に凝縮されてしまったのだ。
 やがて別れの盃が交わされる。灯火管制の暗幕がひかれた部屋の中で冷や酒を前において遺書を書き直す者、行李を開けて整理する者、伊藤はローソクに火をつけて、許婚者の写真を火にかざした。「もう一度見せろ」と言う戦友の声に答えず、写真はメラメラと燃え上がった。伊藤の目にはその炎が映っていた。
 酒がまわると歌がでる。「同期の桜」がいつまでも続く、肩を組む者、手をつなぐ者、何人かの目には涙が光っている。やがて飛行場からエンジンを暖める暖機運転の音が響いてくる。夜明けが近く発進の時間が迫ったことを知らされる。
 まだ世が明けきらぬ早朝、征く者、送る者全員が指揮所に集合する。冷たいアルミの湯飲みに冷や酒が注がれ乾盃をする。特攻隊整列の号令がかかる直前、ハプニングが起きた。出撃する石田がモジモジし始めた。彼は襟元から何かつまみ出した。「虱だ、つれて征くのも可哀そうだ、面倒見てくれ」。彼はそれを戦友の首筋に落とした。「じゃあ、征くぞ」。きりっとした顔から白い歯をのぞかせて敬礼すると、くるりと踵を返して去っていった。

緊張した出撃の一瞬にこのユーモアがあった。鈴木の鋭い観察眼と友への熱い友情と惜別の情がにじむ。それだけに戦争の非情さと残酷さが浮き彫りになった表現でした。

大正13年(1924)愛知県生まれ。昭和19年(1944)海軍兵学校卒。同20年(1945)5月沖縄に向け特攻をかけるが撃墜・救助される。同21年(1946)帰国。同27年(1952)学習院大卒、聯合紙器(現:レンゴー)入社。同59年(1984)社長。平成7年(1995)会長。平成16年(2004)死去、80歳。レンゴーの創業者・井上貞次郎は父方の叔父。

*長谷川は昭和16年(1941)12月海軍(江田島)兵学校に入校したが、一週間後に日本は太平洋戦争に突入した。ここでは、歴史や英語、化学や物理の他、航海術や戦史、砲術など専門的な軍事の授業と肉体を鍛錬する激しい訓練を受け、昭和19年(1944)3月に卒業し、航空隊に進む。そして希望通り少尉候補生に任官し、霞ヶ浦航空隊で三ヵ月半、操縦と偵察の基礎訓練を受けた。
 そして、昭和20年(1945)5月24日鳥取県の三保基地で辞世の句を作り、翌日の出撃に備えた。彼は本人の出撃と戦闘状況などを次のように克明に証言している。

出撃。島には標高二百―三百メートルの山がある。視界ゼロ、超低空飛行なので山が見えた時は遅い。「ぶつかるぞう。どうしよう」。高度を上げようかと思っていると、突然、雲に切れ間ができた。切れ間に戦艦とおぼしき敵艦と駆逐艦数隻が見えた。
 敵艦隊を発見しても、すぐ突っ込まなかった。出撃前の偵察機からの報告を思い出したからだ。空母数席を含む大艦隊が沖縄周辺にいるとあった。戦艦と駆逐艦がいれば、後方には必ず空母がいる。戦艦は射撃を開始した。「左、急旋回」。敵艦には目もくれず、空母を求めて北上した。銀河(陸上爆撃機)は貴重だったから、「極力、空母を狙え」が暗黙の了解だった。
 途中、再び乱雲に突っ込んだ。何分飛んだだろうか。突然、被弾した。私の前を弾丸が下から突き抜け、きな臭いにおいが座席に充満した。小山秀一一飛曹と吉田湊飛曹長が同乗していた。伝声管で「小山」と呼ぶが返事がない。レバーを「吉田」に切り替えようとしたが、機は左に傾き滑って落ちる。右手近くに重巡洋艦らしきマストが見えたと思った瞬間、気を失った。
 体に何かに当たる感じで意識が戻ると、海の上でちぎれた翼に波で打ちつけられていた。翼の向こうに吉田飛曹長が浮かんでいるのが見えた。彼は重傷を負いながら「長谷川中尉」と呼んだ。手を握って「しっかりしろ」と叫んだ記憶もある。米艦隊の真ん中だ。悪夢を見ているようだった。また、意識が途切れ気味になる中、小型艇が近づいてくるのが見えた。

長谷川が、死の瞬間までこのように克明に記憶しているものだと驚きを感じました。まさに九死に一生とはこのことでしょう。米軍の駆逐艦に収容された彼は、グアム島で手当てを受け、ハワイの海軍病院に1ヶ月ほど入院した後、収容所で捕虜生活をおくっているが、グアム島に向かう途中、監視の目を盗んで自殺を図ったが未遂に終わったとも書いている。
 私は広島に赴任中、多くの来広者を江田島の教育参考館を案内しました。ここには海軍兵学校の生徒たちの戦争資料が4万点以上も展示されています。神風特攻隊の「敷島隊」第一号出撃の水盃写真、真珠湾攻撃などの特殊潜航艇乗員、回天特別攻撃隊員など2633の英霊、そしてこれらの人たちの遺書や遺品が展示されています。これらの人たちの平均年齢は19.8歳と書かれていました。撃墜されて黒煙を上げ墜落していく飛行機写真や、事故による沈没で海底から脱出できない潜水艦長が、死を目前にして監督責任のお詫びや任務として事故原因の究明を書いている。しかし酸欠のため意識が朦朧としている中、字もだんだん乱れていく遺書を追い読み読みしているうちに、見学者は粛然とした気持ちなります。多くの修学旅行生も入館時は帽子をかぶり、私語が多くざわついていますが、展示が進むにつれ、帽子をとり私語を止め、真剣に遺書や遺品を見つめています。そして出口では目を真っ赤にして礼をして退出するのです。それだけこの教育参考館は無言の教育の場となっていました。