Slider

業務全般において

仕事における、失敗の対処法、不遇時代の対処法、人間関係のあり方など基本的な課題から、営業や生産など各職場の課題ごとに役立つピントを採り上げました。

失敗から得られる教訓

若いときは、誰しも失敗をしがちです。
会社でも上司から、若いときは「失敗を恐れるな、失敗をすることで経験が積まれ、人間が大きくなる」と教えられます。

「私の履歴書」に登場する執筆者たちの多くも、大失敗の経験を語っています。
失敗を、①どのように考え、②どのように受け止め、③どのように対処し、④のちにどう生かしていったかは、たいへん参考になります。

 青木は東電社長のとき、政治献金の廃止を決めた。それを発端に、政府から冷遇を受けたため、その責任を取って1961年に会長に退き、木川田一隆にあとを託した。青木は国家公安委員長、日本社会人野球協会の会長も務めた。

 明治31年(1898)静岡県生まれの彼は、一橋大学を出た大正11年(1922)、未来の「毛織物王」を夢見て東京毛織に入る。1年後、抜擢され販売課に毛織部を新設する。
 いかにコストダウンするか研究熱心のあまり、工場内部に入っていき、工場長、技術者、現場担当職長などに直接話しかけて解決策を研究し、問題点をどしどし常務に報告した。常務はそれを元に工場長などを詰問するため、青木は現場からは迷惑がられた。彼の仕事熱心さが、逆にたくさんの敵をつくることになったのだ。

 関東大震災(大正12年)後、鈴木商店が東京毛織の経営に参加することとなり、毛織部の彼は失職する。そして小規模な日本陶管に入るが、1つしかない愛知の田舎工場に赴任させられてしまう。
 しかし心機一転し、朝早くから工場に行って職長たちと親しみ、夜は彼らを茶菓でもてなし、話を聞いた。経営の核心を知るために、原価計算も研究した。彼のこうした仕事ぶりは、職長たちからも「今度の人は前の人たちとは違う、話のよくわかる人だ」とほめられ、周囲から好感をもって迎えられた。
 青木はこの工場へ来て以来、いっさい自己主張せず、ひたすら人の言うことを聞いた。それがかえって彼の信頼を増し、人望をつくることになった。彼は自分の今までの失敗の原因を理解し、克服して大きな収穫を得たのだった。
 この気づき以後、昭和3年(1928)品川煉瓦支配人となり、同13年(1938)には社長に選ばれる。そして同26年(1951)電力再編成のときには東京電力取締役に迎えられ、同33年(1958)に社長になった。後年、彼は当時の心境を次のように語っている。

 「いままでは自己を主張しすぎて、人にいれられなかった。こんどは人のいうことを聞くことによって、自分というものをうけいれられた。いままでは事ごとに敵をつくったが、こんどはことごとく味方となった。世の中とはこうしたものだ。自分一人で生きているものではない。大勢の感情のあつまりが世の中だ。しからば自分の意見を通そうと思うなら、まず聞いてやるのが順序だ。こうして私は半年足らずして、胸中の悶々たる思いをぬぐいさることができ、ふたたび世の中に希望を持つようになった」(『私の履歴書』経済人四巻 237p)

          *          *
 日本社会では「和の精神」を尊ぶ傾向がありますから、ビジネス社会でも、まわりに配慮した自己主張が必要となります。
 私の場合、同期入社に営業成績が抜群の人物がいました。彼の家庭が事業をやっていた関係で、彼は商売のやり方、人との接し方が同期や1、2年先輩よりはすぐれていたのです。
 彼は自分の商売のやり方、取り組み方を先輩や上司に採りいれるよう強く進言していました。「この方法は、会社にとって良かれ」と思っての進言ですから、正義感に燃えて行動したのです。
 しかし次第に上司や先輩からは疎んぜられるようになり、異動が繰り返され、ついに彼は会社を去ってしまいました。会社は彼の才能を生かし切れなかった損失、彼は自分の才能をうまく組織の中に生かせなかった損失が残りました。

岡崎は戦後、池谷鉄工、丸善石油の社長として再建に貢献した。昭和27年(1952)、恩師の美土路昌一の要請で民間航空会社の日本ヘリコプター(現:全日空)設立に協力して、同社の取締役となる。
 昭和36年(1961)全日空社長に就任し、37年に訪中、「日中長期総合貿易に関する覚書」(通称:LT協定)によるLT貿易では中心人物になり、日中国交回復実現にも多大の貢献があった人物である。
明治30年(1897)岡山県生まれの岡崎は、大正11年(1922)東京大学を出て日銀に入るが、昭和14年(1939)、上海に渡り終戦まで在留した。
入行間もない昭和2年(1927)の金融恐慌のとき、彼は日銀本店の営業局勤務だった。静岡の新池田銀行から3万円の特別融資申入れを調査役と相談のうえ、受入れてしまった。
 ところが、決済を求めて池永局長に書類を出すと不許可だった。そのまま帰宅した翌日曜日、「局長も委員会も判を押さないものを貸してしまった、大責任だ」と思うと、さすがに心配になり、食事ものどを通らない。胃が重苦しくてやりきれなくなった。
 思い詰めて尊敬する先輩に相談に行くが、重病の奥様を看病している病院の病室では切り出せず、あきらめて帰宅してしまう。夜、ついに退職の決心をして辞表を書き、翌日に備えた。
 次の日、池永局長にこの案件処理を聞かれ、「貸してしまった」と言うと、「そうか、貸したのか、貸したのならいいじゃないか」と言い、あっさり判を押してくれた。
 岡崎はそのとき、3日間の進退問題の悪戦苦闘を振り返り、辞めずにすんだというだけではなく、心が救われた感じがしたという。彼はこのときの経験を、次のように教訓として肝に銘じている。
「あのときの永池さんの態度は、生きた教訓として私の一生を大きく左右しています。辞表を書くまでに参っている人間を暖かく包んで希望を与えて下さる態度が、自然ににじみ出ていたのです。間違ったことをした人間に勇気を与え、より向上させてやろうというやり方は、ことばで聞いただけではどうもわからないようです。私は自分で大きな体験をしたものですから、会社の若い人が失敗したようなときには、その体験をもとにしかれるわけです。またこの体験が、今日まで大きな失敗なしに過ごせ、多少でもお役に立つ仕事をさせてもらえる一つのカになっていると思います」(『私の履歴書』経済人10巻 414p)
          *          *
 このエピソードに似た経験を、私ももっています。
 営業所長のとき、一定の市場を早期確保するため予算申請をしますが、回答期限が過ぎてもなかなか許可がありません。周囲の状況もあり仕方なく予算の先行投資を部長決裁が下りる前に実行したのです。
 ルール違反ですから、実績が出なければ辞表を覚悟していました。そのときの部長が「おれの決済が遅れたから、責任の半分はおれにある」と言って、不問に付すようまわりに掛け合ってくれました。
 このとき私は、「同じ間違いはするまい。この上司について行こう」と固く決心したのでした。上司には、部下を包む度量があってほしいものです。

米山が、バドミントン、テニス、ゴルフなどのスポーツ用品メーカー・ヨネックス株式会社の創業者として、キング夫人、ナブラチロア、モニカ、ヒギンズなど世界のトップ・プロをテニスのスポーツアドバイザーに起用し、世界企業に発展させた手腕は高く評価されている。
大正13年(1924)新潟県生まれの彼は、尋常高等学校卒後、陸軍工廠に入り、軍需工場で家業の木工技術をみがく。
 そして、より高度な技術を必要とする船舶特攻隊に転入隊するが、終戦となり昭和21年(1946)、米山製作所を設立し、独立する。
彼が昭和32年(1957)に始めたバドミントンラケット事業は当初順調だった。OEM(相手先ブランドによる生産)供給先のバドミントン用品メーカーから品質を評価され、低価格品以外に中級価格品も製造するようになったからである。
 売上は月間100万円単位で伸びたが、これは「木製のラケットにも必ず新素材が登場する」と考え、早めに手を打ったのが奏功したのだ。この決断の裏には、過去の苦い経験があった。
 それは、米山の会社が魚網の浮きを作り始めて5、6年たった昭和28年(1953)のことである。例年であれば受注がどっと増える秋に、注文がまったく来なかった。得意先に手紙で問い合せても、音沙汰がない。
 やっとわかった原因は、前年に魚網はすでに木綿からナイロン製に替わり、浮きもそれに合わせてプラスチック製に変更されていたということだった。桐製の浮き製造に集中していた彼の製作所は大ピンチを迎え、倒産寸前まで追い込まれた。
 そのときの経験が、今回のバドミントンのときに教訓として生きた。彼はそれを次のように語っている。

「材料の研究にも力を入れた。浮き木製からプラスチックに変わり、たたきのめされた経験は忘れようとも忘れられない。素材の研究開発の先頭に立っているのは、どうやら米航空宇宙局(NASA)だとわかった。NASAの動向にたえず目配りする必要があると思った。情報収集を怠るなと社内にもハッパをかけた」(「日本経済新聞」2005.4.10)
          *          *
 技術の進歩は日進月歩です。
 IT技術はドッグイヤーで、1年が6年に相当する速さで革新が起きており、バイオ技術、ナノ技術などの進歩も著しいものがあります。
 ベンチャー企業は、これらの技術に果敢に挑戦し、新しい市場を開拓していきます。現在の技術や経営資源に満足していると、ライバルやベンチャー企業に追い越される運命をたどることになります。
 消費者ニーズや市場動向には、常に注意を払う必要があります。

失敗から得られる教訓
1. 自分の意見を通そうと思うなら、まず相手の意見を傾聴しよう。
日本社会では「和の精神」を尊ぶ傾向があるので、ビジネス社会ではまわりに配慮した自己主張が必要となります。
2. 実務に密着した職務遂行を通じて、具体的に指導することを心がけよう。
OJT指導は、職場の問題発生時に上司が現場で解決法を指導する必要があり、部下の特徴を生かすように心がけることです。
3. 常に消費者ニーズと市場動向に注意を払おう。
消費者心理は常に変化します。企業は顧客志向を目指しますが、売上が順調だと慢心してしまいます。消費者ニーズの変化に対応するには、競合企業の動向など、市場動向に注意を払う必要があります。

不遇時代の対処法

人生をなんの苦労もなく、順調にすごせる人はいません。誰でもどこかで不遇時代を経験しています。
ビジネスパーソンにとってはその原因の大部分が、不本意な左遷や子会社への出向、配属異動、職場の人間関係によるものなど、仕事に関係しています。

そのとき本人は、会社や上司を恨み、悶々とした鬱積の日々を送りますが、「私の履歴書」の執筆者たちは、その不遇時代に黙々と努力を続け、次の飛躍に備えて力を貯え、大成していきます。

土川は「労務の土川」として知られ、犬山モンキーセンター、明治村など中京圏振興に大きく貢献した人物である。

 明治36年(1903)、愛知県生まれの彼は、昭和3年(1928)京都大学を出て、旧名古屋鉄道に入り、将来を嘱望されていたが、合併後、愛知電鉄側から就任した社長に睨まれる。その上不運は重なり、妻、そして父を失う。
 会社ではいろいろ努力し実績も挙げるが、理由をこじつけられて閑職の厚生部長に左遷させられた。この厚生部長は、青年たちの心身鍛錬も受け持つ所長でもあった。
 鍛錬所は東濃地方の山深い温泉地にあったため、毎月2週間はここで暮らした。配所の月をながめるには格好の場所だし、青年の起居をともにする生活は、剣道選手時代の合宿生活の続きのようだった。
 暇はあるし、書物も読める。青年と歴史を語り、人情を語り、精神修養について語り合える場所でもあった。その後も左遷はあったが、このときの青年たちとの交流で、人情の機微や青年たちのものの見方や考え方を勉強することができたという。
 昭和20年(1945)、運輸部長の職責のまま名鉄労組の初代執行委員長となる。 その後、社長になった彼が提唱し、主導する「労使一体感」は経営の根幹につながったが、左遷の連続で苦しかった当時を振り返り、「左遷哲学」を次のように語っている。

「こう左遷が連続すると私にはおのずから左遷哲学が生まれてきた。左遷、栄進なんてものはいろいろな見方がある。いかに左遷されてもそれによって世間の同情が集まるような時は五分と五分でたいした左遷にならぬものである。左遷のたびに易々とこれに従い、会社発展のために努力すると、これ意外な同情を得られるものであることがわかってきた」(『私の履歴書』経済人十三巻 272p)
          *          *
 この「左遷でも会社発展のために努力すると、意外な同情をえられるものだ」は大変な達観の境地です。
 私も地方に左遷され、その恨みから半年ほど仕事の手抜きをしたことがあります。手を抜いた遅れを取り戻すのにずいぶん苦労をしました。具体的には職場の人間関係、仕事の精通度などがスムーズにいかないのです。手抜きは自分が一番よく知っているものです。ヤケを起こせば自分に必ず跳ね返ってきます。心ある人は、必ずどこかで見てくれています。それを信じて、自分のために努力する必要があります。

八尋は、社長・会長の在任中はイラン革命、イラン・イラク戦争の勃発で暗礁に乗り上げた日本・イラン合弁のイラン・ジャパン石油化学プロジェクトの処理に奔走し、清算を決断した。また、商社出身者として初めて経団連の副会長を務めた人物である。

大正4年(1915)東京生まれの彼は、昭和15年(1940)、東京商科大学(現:一橋大学)を卒業し、三井物産に入社する。終戦はサイゴンで迎えた。
 昭和25年(1950)、ゴム貿易の自由化を迎え、財閥解体で分割された第一物産(現:三井物産)神戸支店のゴム課長に就任。神戸はゴム工場が多く、ゴム商売の中心地で、ゴム取引所もできたばかりだった。
「ようもうけるな、八尋くん」といわれるくらい活躍したが、調子に乗りすぎて大失敗をしでかす。
 昭和29年(1954)、生ゴム100トンを買ったところ、相場が半値にまで暴落し、大損を出してしまった。損失を取り返すべく、必死に挽回のチャンスを狙ったが損の上塗りばかりで、心労のため血尿が出る日々をすごすことになった。
 このとき、実はこの損失が表面化する前に本社物資部ゴム課長への栄転が内定しており、トントン拍子の出世コースの階段を昇ろうとした矢先の出来事だった。
 結局、水上達三常務にこの失敗を報告して陳謝したが、間もなく〝位冠剥奪〟でヒラ社員に降格された。
 業務部預かりの身で、新人並みの電信整理が1日の仕事になった。屈辱の灰色の生活は6か月間続いた。水上常務は廊下ですれ違った八尋に、「底値鍛錬百日だよ、きみ」と秘かに力づけてくれたという。「しがみついていれば、いつか必ずチャンスが来る」との意味だと理解する。
 そこで彼は、「時期が到来して敗者復活の機会が巡ってきたとき、それを自分のものにできるかどうかで、その後の人生は180度変わってしまう」と考え、努力を続けた。
 そしてついに、その時が来た。まず、輸出化学品課長代理に任ぜられ、降格から2年ぶりに化学部に新設された石油課長で大活躍することになる。
彼は当時を振り返り、何事も粘り強く、あきらめない、そうすれば道は必ず開けると気づきを与えてくれた水上常務に今も次のように感謝している。

「私にチャンスを与えてくれた人はだれあろう、水上達三さんその人だった。『どうだ、まいったか』―。この言葉は一生忘れまい」(『私の履歴書』経済人二十七巻 48p)
          *          *
 私も不本意な降格人事を経験したことがあります。入社20年目に、花形だった営業部から地味な総務部に異動になりました。
 職位は、部長職の支店長から本社総務部総務課長です。外部から見ると総務次長の下になりますから、2ランク下がったことになります。
 営業担当役員が「おまえの将来を考えてこの人事を認めた」と言ってくれましたが、「いままでの自分への評価が今回の人事ですから、不本意です」と大いに不満をぶちまけました。私は営業が大好きで、それなりの実績も上げていましたので、この人事が不満ですっかりやる気を失くしてしまいました。
 課長席に坐って業務上必要な会社の諸規則や過去の重要契約文書の点検をしていても、まったく頭に入ってきません。楽しかった営業時代の思い出ばかりが蘇ります。
 午後からの諸法令の勉強会で、眠くてついウトウトし、副社長から「こらぁー、居眠りしている課長がいるぞ!」と大声で叱られるなど、意気消沈の毎日が続きました。
 こうした悶々とした日々を送っていたある日、以前上司だった社長とトイレで隣り合わせになりました。「あまり元気がないな。おまえのことを心配していたんだ。慣れない仕事で大変だろうが、会社で重要な部署だからヘソを曲げないでやってくれ。俺はおまえの仕事ぶりを見ているから、ヤケを起こさず頑張れ」と言われました。
「そうだ。自分を見てくれている人もいるんだ。自分が怠けると、そのツケは必ず将来自分に返ってくるはずだ。こころ入れ替えて一から出直そう」と決心したのです。
「何事も粘り強く、あきらめない、そうすれば道は必ず開ける」と気持ちを切り替えたことにより、総務部の重要性がよくわかるようになりました。
 それは弁護士、警察、他社などの交渉ごとや、取締役会や経営会議の議題がすべてわかるため、支店長時代では知り得ない会社全体の動きや重要課題に関与できることでした。
 総務部の重要性がわかると、その職務をまっとうするための勉強をしようと考えます。そのため、商法(現:会社法)や証券取引法(現:金融商品取引法)など、重要な諸法令を勉強するのも苦にならなくなりました。
 人間、不思議なもので、気持ちの持ち方で苦労が楽しみに変わったのでした。

賀来はカメラの電子化を進める一方、複写機、ワープロ、プリンターなど製品の多角化をはかり大幅に業績を伸ばし、財界屈指の論客としても知られた。
大正15年(1926)、愛知県生まれの彼は、旧制五高を出て戦中、戦後の混乱期に学徒動員や浪人暮らしののち、九州大学を卒業し、28歳でキヤノンに入社。
ハッキリものを言う性格から、上司やトップと衝突することが頻繁にあったため、クビを覚悟したこともあったという。しかし最初の上司は、その性格を「面白い」とし、自分の管轄部下とした。
その経理部では原価計算課に回され、まる6年在籍することになる。ところが、ここの仕事があまり面白くない。分厚い棚卸表から、社内加工費、外注費、個数、単価などを計算し、それを縦横合わせて合計を出す。1枚やるのに1時間ぐらいかかり、毎月何百枚も計算しなければならない。
やっていることは計算機の代わりのようなものであり、せっかく卒業した大学での知識など、まったく必要としない。
「こりゃ、ひどいところに勤めたな」と思ったものの、新入社員の身で「つまらぬ仕事はできない」などと投げ出すわけにもいかなかった。
そこで、スポーツ好きで明るい性格でもあった彼は、次の名案を実行した。

「つまらないようにおもいながら仕事をしたのでは、自分が不幸になるだけである。つまらない仕事でもやりようがあるだろうと考えて、計算を“スポーツ化”することを思いついた。中学生のころ砲丸投げに熱中し、毎日少しでも記録を伸ばすのを楽しみにしていた。その楽しさを思い出し、毎日、仕事、仕事量を記録することにしたのである。そうすると、今日は六枚やった。明日は七枚に挑戦しようと、記録更新の意欲がわいてくる。(中略)。
工夫の末、計算の能率は三、四倍になり、そろばんにも熟達した。それに、いやな仕事でも時間が短く感じるようになったし、私を異常と見た人たちも、半面、真面目で裏表なく、よく働くと認めてくれた」(『私の履歴書』経済人二十九巻 278、279p)

このときの賀来の下積みの事務経験が、カメラ主体企業のキヤノンを、複写機、ワープロ、プリンターなど事業の多角化に成功し、業績を伸ばすことになったのです。
*          *
いやなことでも面白くしようとするポジティブな発想が、仕事にも人生にも必要なときがあります。
仕事を楽しく、愉快に取り組めるよう努力する才能は素晴らしい。まず、自分の得意なこと、楽しめることを仕事に結び付ければ、気持ちが楽になります。それにより与えられた仕事に精通することで上司からの信頼を得、将来につながった好例です。

会社の傍流を歩いて社長になった佐藤は、発泡酒、缶チューハイ、ウイスキーの投入などアルコール総合化戦略で市場シェアの長期低迷を食い止め、ライバル企業を追い越す上昇気流に乗せたことで高く評価された。

昭和11年(1936)、東京生まれの佐藤は、同33年(1958)、早稲田大学を卒業し、キリンビールに入社する。その翌年、神戸支店営業課に配属となるが、実態は内勤で、キリンで花形といわれた営業とは違い、空き瓶回収の伝票処理などの地味な仕事だった。
 赴任して半年後、彼は上司に支店全体の業務や人員配置の見直しを求めたが無視される。この上申を快く思わなかった支店長に「きみは中小企業のほうが向いているよ」と屈辱的に言われ、不本意な近畿コカコーラボトリングへの出向となる。
 出向前の東京での研修の際、「ルートセールスの担当だ」と言われ、トラックに乗って朝から晩まで都内の小売店を走り回ったが、実際に現地に出向してみると、また、仕事の内容が違っていた。
 仕事は内勤職で、上司である年配の部長と、社員は実質彼1人のようなものだった。しかし、与えられた仕事を、1つひとつ誠意をもってこなすことで、実務のエキスパートになることができた。
 この出向で、彼は次のような「悟り」を得ることができたと述べている。

「定款こそできていたが、経理に関する規定は何もない。走りながら考えるしかなかった。開業に必要となる大阪府や大阪市、税務署への届出も期限ギリギリに間に合わせた。
 固定資産の減価償却は『定率法』か『定額法』か。在庫評価は『後入れ先出し法』か『総平均法』か…。まだ社会人になって三年目だったが、次から次へと経理のルールを決めなければならない。疑問点があると、原価計算や簿記の辞典と首っ引きになって考えた。仕事に追われながら、人間、どこへ行っても勉強はできるなと思った」(「日本経済新聞」2005.9.8)
          *          *
 会社や社会の仕組みを、原点から実務で経験している人は強い。
経済が右肩上がりで成長しているときは、営業型のリーダーシップが望まれるが、不況期や激動期には、堅実で実務的なリーダーシップが望まれます。
 頭では理解していても、地味な実務はなかなか素直に取り組めないのが人情です。しかし、この下積みに耐えて努力した蓄積が人間を成長させ、いざというとき、次のステップの出番に期待に応えることのできる人材になれるのです。

不遇時代の対処法
1. 失敗しても腐らない。必ず心ある誰かが見てくれている。
何事も粘り強く、あきらめないでチャレンジしていれば、道は開けてきます。必ず訪れる敗者復活戦のときに対応できるか否かです。そのときのためにも、不遇のときの努力は必要なのです。
2. 会社の発展のために努力すると、まわりから意外な同情が集まる。
現在社会から存在価値を認められている会社を発展させたいのは、労使とも共通の価値観です。真面目に職務に精励していれば、必ず共感する人が増えてきます。心ある上司ほど、評価してくれるはずです。社会的価値のある会社を発展させる努力をしましょう。
3. 仕事は明るく、前向きのスポーツ感覚で取り組もう。
いやいややる仕事は能率が上がりません。楽しく取り組めるような工夫をすることが求められます。自分流の〝仕事を楽しめる努力〟をしましょう。
4. 出向は試練と受け止めよう。
人生には無駄なものはありません。いろいろな経験が肥やしとなって、それぞれの人生を豊かにします。不遇時代は自身の成長のために必要な〝肥やしの時代〟と認識し、そこで体験するさまざまなことを次のステップアップの糧としましょう。

人間関係のあり方

「私の履歴書」でも、有名経営人が次のように「人間関係のあり方」について披瀝してくれています。

松田は、日本の小売業として初めて売上高1000億円を突破させた経営者である。明治29年(1896)香川県に生まれた彼は、大正8年(1919)に慶応大学を卒業し、「きょうは帝劇、あすは三越」と言われていた華やかな三越に入社する。
 昭和初期の不況期は中国の京城支店ですごすが、当時、ここでは比較的豊かな在留邦人の購買力を吸収するのが商戦のカギであった。
 現地の花柳界の芸能祭をデパート内で開催するという、彼のアイデアは当たった。その見物に来た客が売り場に立ち寄り、それが売上に結びつくという好循環で、京城支店の業績を上げたのだった。
 戦後、三越本店長で常務時代、文化・娯楽に飢えた庶民のために、日本橋店内の三越劇場において、古典芸能や新劇の上演、三越名人会、三越青年歌舞伎、落語会、素人名人会の名企画を次々と発表・実行した。
 その企画は、「欧米のデパートの顧客は買い物だけが目的であるが、日本の百貨店は慰安を求め、文化を求めて来店する」という慧眼によるものだった。
 これらは「文化コミュニティ」と呼ばれるようになり、来店客数は増え、業績向上となって戦後三越の再建を果たすことができた。のちに彼は、商売の原点である「人間関係のあり方」を次のように語っている。
「小さいころはきかん坊でわがままだった私が、はからずも客商売従事するうちに『忍』そして『努力』『誠実』ということがわかるようになった。客商売で大切なのは、対人的に物を考え、相手の気持ちを忖度することである。自分を殺すことも必要となる。それもまた忍である。難題といえども、これが人間関係であるかぎり、相手の立場を考え、誠実をもって努力するならばおのずと解決する。そういう信念が生まれ、それが一つの自信になったように思う」(『私の履歴書』経済人十四巻 386p)
          *          *
誠実が信用につながり、その信用の蓄積から人脈が拡がっていきます。そしてその人脈の広さ・太さがその人物の力量と評価されます。
人との付き合いは、原点である「誠実さ」をもって対応するようにしたいものです。

神谷は、トヨタを販売面から世界企業に育て上げ、「販売の神様」と称された人物である。
 明治31年(1898)、愛知県に生まれた神谷は、大正6年(1917)、名古屋市立商業高校を卒業して三井物産に入社し、シアトルやロンドン駐在員として7年間在職するが、同社の学歴偏重、閨閥尊重の風潮を嫌い、退職する。
 ロンドンで鉄鋼会社「神谷商事」を設立し、順調に業績を上げていたが、インドなど、現地での炭鉱者によるストライキなどで経営が一気に傾き、廃業して日本に帰国する。
 帰国後、英語に堪能であったことからアメリカの自動車会社のゼネラル・モーターズ(GM)の日本法人にスカウトされ、入社。しかし、昭和10年(1935)、豊田自動織機が自動車の生産に乗り出すため、同社社長・豊田喜一郎から入社を勧誘され、その熱意に動かされて、給与600万ドルのGM社から、報酬が5分の1の120万ドルになる豊田に転職する。
 自動車販売を任された彼はトヨタの全国販売網を構築し、「定価販売」「月賦販売」を取り入れるほか、「自動車教習所」など自動車を取り巻く環境整備にも功績を挙げた。
 神谷は昭和33年(1958)にアメリカを視察したとき、今後はGM、フォード、クライスラーのビッグスリーが、大型・中型車に加えてコンパクトカーに力を入れると予言した。
 その予言は見事的中し、間もなくビッグスリーがコンパクトカーに進出したため、日本の輸出車は市場競争に敗れてしまう。神谷はそのときの予言的中の極意を次のように述べている。
「これは、何もわたくしが、特別な勘や才能をもっているからできたわけではない。相手の立場に立って物事を考え、判断する、というわたくしの思考パターンから思い当った発想であったに過ぎない。(中略)。
 ところで、こうした物の考え方は、単にビジネス社会におけるのみならず、実社会においても有用であるように思えてならない。実社会には折衝を必要とする機会も多い。交渉の場に臨んで一方的な主義主張を押しとおそうとすれば、対立が対立を呼ぶ結果に終るに違いない。わたくしは、そのようなおそれがあるときには、もし自分が相手の立場にあったら『わたくしがいま行なっている主張をどう受けとめるであろうか』と自問自答することにしている。そうしてみると、それまで気がつかなかった考え方が生まれ、案外、思わぬ解決の糸口が見い出せるものだ」(『私の履歴書』経済人十五巻 433p)
          *          *
交渉ごとは、自分中心や会社都合の利点をアピールして進めがちですが、相手の立場を考えて共存共栄の精神で提案しなければ成功しません。

岡崎は、日本銀行に入行した翌大正12年(1923)、小樽支店に配属となり、そこで3年間、銀行の初歩を習った。
 その後、大正15年(1926)に本店に帰り、文書局、昭和2年(1927)の金融恐慌で特別融資が行なわれるときに営業局に替わり、貸出業務を担当した。
 このとき、彼は郷里の先輩、学校の先生、日銀、関係企業などの人たちからの「人間関係をよくする」ための助言を真摯に受け入れ、実行した。「私の履歴書」では、それについて次のように書いている。
「若いころに聞いていまでも覚えていることの一つは、〝人から手紙なりはがきなりを受け取ったら、必ず返事を書け″という教えです。向こうの人はこちらから何か言っていくのを待っている。待たせるというのは相手に対し失礼だし、うっかりしてこちらが忘れてしまうと、相手の人は感じを悪くしてこちらを信用しなくなる。
立派に書こうとか、ていねいに書こうとか思って長くおくと、つい忘れてしまう。だからはがきでもいいからあまり時間をおかないで返事を出しなさい、ということを言われたのです。そのとき以来今日でも私は実行しております。私がよく返事を出す、また物を送ったのに対し受け取ったとすぐ知らせるというので、きちょうめんだとはめられることがありますが、それよりも、返事をすぐ出すことによって、人とのいい人間関係ができた例がかなり多く、ありがたく思っています」(『私の履歴書』経済人十巻 433p)
          *          *
 私もこの助言を入社2年目に読み、さっそく採用したのを覚えています。当初は字数が少なくて半分ですむ絵ハガキを愛用し、返事を迅速対応することにしていました。今でも、旅行先や美術館、動物園の絵葉書などにお礼や旅先の印象を書いて送っています。
 これにより、次回の面談時には話題ができ、人間関係がとてもスムーズになる例は非常に多かったのです。

 この項では、第一線で活躍するリーダーたちの、人間関係のさまざまな局面を紹介してきました。
 人間関係のあり方を一言でいえば、「相手の立場に立って誠実に対応する」ことに尽きます。聖書にもあるように、「自分がしてほしいことを、人にもしなさい」ということです。
 そのためには、相手を思いやる心、相手の気持ちを察知する感性が重要となります。

仕事に対する心構え

人生においても仕事においても、のちのち大きく影響を及ぼす〝節目〟があります。
「心構えの発見」という、重要な出発点もそれにあたるでしょう。
人間、誰にでも自分の行動規範の元となる〝気づき〟があり、それを糧として行動し、成長していきます。

「私の履歴書」に登場する執筆者たちも、人生の節目となる〝気づき〟を挙げていますが、その場面では、①どのように考え、②どのように受け止め、③どのように対処し、④次に生かしていったか、を教えてくれています。

「日本最高のホテル」として帝国ホテルの名を内外で高め、川奈ホテルなど国内有名ホテルの設立にも数多く関与し、日本のホテル業界の草分け的存在となった犬丸は、明治20年(1887)石川県に生まれた。
 彼は明治43年(1910)に東京高等商業学校を卒業するが、成績不良のため就職に苦労し、やむなく南満州鉄道経営の長春ヤマト・ホテルのボーイになる。
 しかし、自分の職業を蔑視する気が抜けず、数年後、出直す覚悟でロンドンに行き修行をするが、ここでもコックではなく窓ガラスふきが日課だった。彼は心中、悶々としていたものの、何をおいても就職することが先決であるため、不平を隠して勤務した。
 窓ガラスふきは汚れ仕事で、しかも危険が伴う。厨房で料理に手腕をふるいたいと熱望していた彼は、この仕事を半ば投げやりにやり続け、心はどんどん空虚になっていった。
 このホテルにはもう1人、窓ガラスふきがいた。すでに初老を過ぎた男で、毎日黙々と仕事に勤しんでいるかに見える。犬丸は心中、ひそかにこの男を軽蔑していた。
 しかしあるとき、犬丸が何気なく問いかけた仕事に対する質問への男の答えが、犬丸に仕事の神髄を悟らせた。

「『君は毎日このような仕事を続け、それをもって満足しているのか』。すると彼は黙って私を廊下へ導き、両側の窓をさして静か言った。
『イヌマル、双方を比べてみろ。拭えばきれいになり、きれいになれば、その一事をもって私はかぎりなき満足を覚える。自分はこの仕事を生涯の仕事として選んだことを少しも後悔していない』。
 私はこのことばを聞くに及んで、一瞬何かに深く打ちのめされたごとく感じた。豁然と悟りを開いた思いだった。実に職業に貴賎なし。なんたるりっぱな生活態度であろうか。私はこの時から窓ガラスふきを天職と心得て専念し、以後職場を変わっても一貫してその気持ちで働くことができるようになったのである」(『私の履歴書』経済人四巻 407p)

 この後、彼はホテル支配人に仕事ぶりを認められ、重用されるようになる。そしてロンドン、ニューヨークで修業し、大正8年(1919)帝国ホテルの副支配人となり、建築家ライト式建築の新館を完成させ、昭和20年(1945)には社長となった。
          *          *
 私はこのエピソードを読んだとき、太閤秀吉の草履取り時代を思い出しました。
 信長に仕えた藤吉郎が、冬の寒い日に主君の草履を懐で温めて出したという話です。与えられた職務を忠実に、誠意をもって務めれば、上司が「見どころのあるヤツ」と正しく評価し、一段上の仕事を与えて本人の力量を試すというのが経営者心理です。与えられた仕事を着実に成果を上げれば、次の一段上の仕事が待っています。
 人は、与えられた仕事ごとに全力で取り組む必要があります。

稲山は、昭和45年(1970)、分割された八幡製鉄と富士製鉄を永野重雄と協力し合い、苦心の末、再合併して新日本製鉄社長となる。また、経団連会長となり、日本を代表する経済人となった。また、「ミスターカルテル」と呼ばれ、「競争より協調」を尊重し、「がまん」哲学の信奉者でもあった。
 明治37年(1904)、東京生まれの稲山は、昭和3年(1928)東京大学を卒業し、商工省に入省して八幡製鉄に勤務する。戦時体制の国家総動員法により、同16年(1941)に設置された鉄鋼統制会に出向し、政界・官界・経済人の人脈ができる。
 財閥解体の影響で同25年(1950)、日本製鐵が八幡製鉄と富士製鉄に分割されたが、八幡製鉄の常務、副社長、社長と登りつめる。
 彼は気配りの人、配慮の人だった。「私の履歴書」においても、お世話になった人、学友、先輩、後輩、上司、同輩など詳細に人名を上げ、1人ひとりをていねいに説明している。
 紹介する人名が飛び抜けて多いのは、気配りと趣味が広いからである。粋な茶屋遊び、謡曲、端唄、ピアノに琴、スキーに馬、ゴルフ、マージャン、将棋に碁など、それぞれに幅広い人脈を持っていた。
 明るく茶目っ気があり、気配りの人柄のため、多くの人を惹きつけたのだ。次に紹介する「面談順位の心構え」は、入省間もない八幡時代の教訓だが、新日鉄でのちに社長となる斎藤英四郎も「私の履歴書」で、上司の稲山からこれを教えられ実践したと書いている。
「中井長官は私にとっては製鉄所にはいる時からの無二の恩人であるが、処世の道についてもずいぶん教えられることが多かった。人に面会する時は地方の人を先にし、地元の人を後にしろ。ことわる人には急いで会え、引き受ける人は待たしてもよい。また、長い取引関係にある場合は相手方に利益を与えなければいけない。損をさせればやがて自分にかえってくる。まことに含蓄のある言葉だと思う」(『私の履歴書』経済人八巻 253p)
          *          *
私の場合、来客による面談はあまりなかったので、次のように解釈し、実行しました。
頼まれごとがあった場合は、依頼主にその内容の進行状況を中間報告することで、忘れていない意思表示をしました。また、依頼内容に沿えない場合は、早めに私から回答するように心がけました。
特に注意したのは、依頼主から依頼内容の回答を督促されるような事態にはしない配慮でした。

この項で紹介した仕事に対する心がまえをまとめると、次の3つになります。
1.与えられた仕事に対して誠意をもって全力で取り組む。
2.成功するには知識だけではだめで、これを創意工夫して自分の知恵として生かす。
3.相手の立場を考えて対処する。

 ハワイにコーヒー農園を取得した鳥羽は、コーヒーの全国フランチャイズ展開に初めて成功した人物である。
 昭和12年(1937)、埼玉県に生まれた鳥羽は、家庭の事情で高校を中退したため、16歳で社会に出る。見習いコック、バーテンダーなどを経験したあと、コーヒー店オーナーに見込まれ、19歳の店長として店を任されるようになる。
 20歳のとき、以前の勤め先の主人からブラジルのコーヒー農園に招かれ、単身渡航し、農園の現場監督として現地の労働者と共に汗を流して働いた。
 コーヒーの本場ブラジルで学び、生活したことが体の中に染み込み、何ものにも替え難い財産になったという。この経験が、コーヒーの選別、品質、焙煎、コーヒー農場経営への成功に導くことになる。
 彼はブラジル修業のあと、世界一周後に帰国。昭和37年(1962)ドトールコーヒーを創業し、全国にコーヒチェーンをフランチャイズ展開して産業化に成功した。
 彼は学歴がなく、若くして経営者になったため、かえって尊敬する年長の経営者からのいろいろな助言を真摯に受け止めることができた。その一つが「長の一念」という言葉だった。
「課なら課長、部なら部長、社なら社長であるが、長として上に立つ人の一念によって環境がすべて変わる。問題は社員ではなく、トップにある社長にある」と悟ったのだ。
 そこで、自分が納得する「言葉」や「格言」を色紙に書いて「自分の考えを共有化」するため、会社に張り出すのを習慣とした。彼はその心構えの原点を、次のように語っている。
「ある時、ゴルフをしているとコースの途中になぜか石碑があり、『働き一両、考え五両』と彫ってあった。私は『はっ』と立ち止まった。凄い言葉だと思い、記憶に留めた。考えとはアイデアのことだと私は理解した。
 一の努力は一の成果しか生まないが、アイデアを持って一の努力をすれば五の成果が出る。世の中には努力する人や一生懸命な人はゴマンといる。アイデアを持って努力しなければいけないと痛感した。私はこの言葉を非常に気に入り、紙に印刷し工場や本社に貼った」(「日本経済新聞」2009.2.26)
          *          *
この「働き一両、考え五両」という言葉は、山種証券の創始者・山崎種二が祖父から教えられ、実行したとも巷間に聞きます。
 山崎は自分で考え出した相場観測で、米の売り方に成功します。何事も他人からの知識の蓄積だけではだめで、それを生かす本人の知恵と才覚が求められるています。

 安居は、同期の仲間と比べて取締役就任がずいぶん遅れたが、この言葉を自分に言い聞かせて誠実に仕事し、その実力が回りに認められて、花を咲かせた。

 昭和10年(1935)、京都府生まれの安居は昭和32年(1957)に京都大学を卒業して、繊維メーカーの帝国人造絹糸(現:帝人)に入社する。工場勤務、大阪本社に次いで海外出向するが、台湾で合弁事業、ビデオ事業・自動車販売など多角化事業の撤退を担当するものであった。
 次は欧州拠点の撤退、4回目の出向で帝人商事へ。彼は転勤、出向の連続で、子会社への出向は通算20年、そのうち10年は海外だったという。最後のお勤めと思ったインドネシアが好きになり、定年までいたいと願っていた。
 同期からの出世競争からも遅れていた50代後半、第2の人生をそろそろ考えているとき、本社に呼び戻される。同期から6年も遅れて57歳の取締役となったのだ。
 社長になったのは5年後の62歳だった。その後、舌ガンで社長を退任し、70歳で会長を退き、これから自由な生活に入ろうとしていた矢先、当時の小泉首相から中小企業金融公庫の総裁を要請される。
 安居は不本意な出向、事業の撤退業務、山あり谷ありのサラリーマン人生のすべてを、自分を偽らず、一生懸命生きてきた。その彼が日本政策金融公庫総裁となったいま、「心構え」の生活信条を次のように述べている。

「思えば、私からやりたいと言って就いた仕事は無い。普通の人間だから、不本意な人事に、会社を辞めようかと迷ったこともある。
 ただいかなる時にも腐らなかった。どちらかと言えば前を向き、少しだけだが未来を夢見て生きてきたように思う。自分なりに納得のいく結果を出せたら、それでよい。少なくとも自分をごまかさずに生きてきたつもりである。本当はこうすべきだと思いながら、目先の利益や上司の意向などを気にかけて自分を偽れば、必ず悔いが残る。他人はごまかせても、自分はごまかせない」(「日本経済新聞」2009.10.1)
          *          *
私は文章のこのくだりを読んで、同情と同感で涙を禁じえませんでした。
「私の履歴書」に登場する多くの経営者が、会社の傍流を歩んでも腐らず、与えられた職場単位で懸命に働き、自分の職務を果たしていくという信条に打たれたのです。
 その努力の蓄積が実力となり、周りの多くの人々から高く評価されるようになっていくのです。
「目先の利益や上司の意向などを気にかけて自分を偽れば、必ず悔いが残る。他人はごまかせても、自分はごまかせない」は心ある人にとって珠玉の言葉です。

商売のネタ

松下幸之助、早川徳次らに代表される無学歴の創業者は、アイデアを次々とひらめかせて事業を進め、成功していきます。
私は、このアイデアの元はなんなのかと思ったのでした。

そして次にご紹介する江崎利一の「五感をフル活用」を読んだとき、「商売のネタ」は「仕事の問題解決のネタ」でもあると感じました。

 江崎はいわゆる「オマケ商法」の先駆者だが、オモチャ屋と冷やかされながらも創意工夫のオマケ商法で、大阪を中心とした関西圏でグリコ事業を軌道に乗せた。
 明治15年(1882)、佐賀県は佐賀平野の片田舎で生まれた江崎は、明治30年(1897)に高等小学校を出ると、すぐに実家の薬種商を継ぐことになる。
 朝飯前の塩売りから登記代書と次々と働き、19歳のとき、亡くなった父親の借金を完済した商才をもつ。
 大正4年(1915)、佐賀の町を歩いていると、買い集めた空き瓶を忙しそうに荷造りしている光景に出会う。その理由を訊ねると、その空き瓶に中身を詰め替えて、二度も三度も利用するのだという。ビールの空き瓶が多いが、ぶどう酒も増加傾向にあったため、商売のヒントをここで掴む。
「そうだ! ぶどう酒の大樽を仕入れて、小さい瓶に詰め替えて売れば、必ず儲かるに違いない」と考え、彼は自分で扱うクスリのうち、栄養強壮剤などに代わってぶどう酒を売り出し、成功する。
 続いてグリコキャラメルを「一粒三百メートル」のキャッチフレーズで販売し、大成功する。戦後、アーモンドチョコ、ワンタッチカレーで急成長し、オマケ商法の先駆者としても有名になる。
 江崎は、商売のネタ探しの極意を次のように語っている。
「アタマとマナコの働かせ次第で、商売というものの妙味がいかに無尽であるかをつくづくと感じさせられた。それからというものは、目、耳、頭、手足をゆだんなく働かせるようになり、周囲の物事に対しいっそうの注意力、観察力を傾けた」(『私の履歴書』経済人七巻 154p)
          *          *
営業マンだった私は、お得意さんの望むものを探すことによって接し方が変わり、提案内容も違ってくることに気がつきました。
 それは、五感を働かせてお得先やこれから交渉する人の情報や価値観をよく調べ、その人が大切にしている仕事、専門、趣味、家族などを中心に話題を持ち込むと、容易にこちらを受け入れてくれるということです。
 これにより、商売のネタも仕事のネタも五感を働かせて、周囲や相手を注意深く観察することだ、と思ったのです。

 中山は、音響会社「ミノルフォン」(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)のほか、十数社の「太平グループ」代表としても知られている。
 明治33年(1900)、岡山県に生まれた中山は、高等小学校を出て、苦学しながら関西大学を卒業するが、1年後の昭和5年(1930)に「関西電話建物会社」を設立する。
 創立後5年、経営は軌道に乗り、学生時代、一杯の素うどんで夕食をすませていた彼は、月給700円の経営者となる。しかし、経験不足のため会社を乗っ取られ、終戦を迎える。
 駐留軍相手の「みやげもの屋」やシイタケ栽培を手掛けたあと、昭和25年(1950)に再び月賦住宅販売の太平洋住宅を創業し、成功する。
 その後彼は、大成火災保険、太平ビルサービス、太平観光、太平音響(のちのミノルフォン)など、太平グループを育て上げた。
 大きな資金を持って商売を始めたわけではない彼の、商売に対する姿勢は、「資本のかからない商売をする」ことがモットーだった。
 商売というものは、時代の移り変わり、国際、国内情勢の変化を見ながら工夫していけば、次から次へと生まれてくるものだという考えである。
「ヒントは生活の中にある」として、仕事を成功させる原則を次のように披瀝している。
「その基本は、まず、大衆に喜ばれるもの、時代の要求を反映したものはなにか、と考えることである。そして、次に商品がかさばらないで、重くないこと、すなわち、カタログで商売できることである。次に、できる限り大ぜいの人の協力を得ることである。自分ひとりでやっても、それは一つの『力』にはならないことを知っておくべきである。そしてこの際、自分だけいい目を見ようとはせずに、協力者と共存共栄をはからねばならない。
 この原則を守れば、必ず、仕事は成功する。『自分には資金がないから……』と言って、あきらめてはだめだ。金のない者にとっても、金を得る道はある。それは頭だ。私が育った時代に比べれば、世の中に流動性はなくなった。しかし、頭の使いかた、アイデアしだいで、これからでも一つの商売を生み出すことはできる。新奇な商売、だれも気づかない商売を考え出すことが、金のない者が金を得る道である。そのヒントは生活の中にある」(『私の履歴書』経済人十巻 37p)
          *          *
「商売のネタ」について総括すると、中山の「商売ネタのヒントは生活の中にある」という言葉は、当たり前ですがドキリとさせられます。
コロンブスの卵かもしれませんが、グリコの江崎と同様、日常生活を注意深く見つめ、五感を働かせて大衆が喜ぶものを見つけ出しています。