大山健太郎 おおやま けんたろう

商業

掲載時肩書アイリスオーヤマ社長
掲載期間2016/03/01〜2016/03/31
出身地大阪府
生年月日1945/07/03
掲載回数31 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
高等学校
学歴その他布施高
入社下請け自営業
配偶者スチュアデス
主な仕事下請け脱皮、漁具、園芸、ペット、収納、問屋>販路>ホームセンター>自販ベンダー(メーカー兼問屋:工場兼物流センター)>業態メーカー(ホームセンター兼業)>小売業、デパートメントファクトリー、毎年千点新規、取扱16000点、家具、海外進出、ネット通販、若手育成塾、
恩師・恩人
人脈一力雅彦、畑正憲、浅野史郎
備考マーケットインでなくユーザーイン経営、祖父韓国人(漢方医)
論評

1945年(昭和20年)7月3日[1] – )は大阪府生まれ。日本の実業家、アイリスグループ会長。アイリスオーヤマ株式会社代表取締役会長。2011年仙台経済同友会代表幹事(2021年終身幹事)、日本ニュービジネス協議会連合会副会長、東北経済連合会副会長、東北大学総長顧問、復興庁復興推進委員会委員を務める。氏は、凄い発想とアイデアの持ち主で、新しいビジネスモデルの革命児であった。製造業、卸、小売業などのいずれの業種にも属さない「ユーザーイン」考えの全く新しい業態を開発した人でした。

1.下請けプラスチックメーカーから出発
下請けプラスチックメーカーから出発し、漁業用ブイなどを自社開発して下請けから脱皮し、園芸、ペット、収納などを自社ブランドの品揃えを豊富に製造販売する。それも最初は特定地域のホームセンターが中心だったが、全国展開するため、全国卸と取引を始める。しかし、オイルショック時の倒産の危機を思い出し、「好不況にかかわらず利益を出せる会社」を目指すため、販路を自分で確保する(ベンダー機能を持つ)ことにした。これは不況時の苦い思い出として、仲間だと思っていた問屋が価格の安い他のメーカーに仕入れ先を移し、大口の商圏を失い年間売上高が半減したことに由来する。

2.生活者の不満を解消する手段は?
単なるメーカー直販なら自社製品を直接納入するだけですむが、メーカーベンダーは違う。メーカーベンダーとはメーカー兼問屋であり、自社工場が物流センターを備えていることになる。小売店の品揃え提案や売り場作りも請け負う。ブラスチックなど自社製品以外にユーザーインのコンセプトからユーザーニーズによる商品の品揃えと配送も必要となる。毎回の配送もケース単位でなく単品となる。ここで物流の仕組みや社員の意識を根本的に変える必要があった。これは非常に高いハードルではあったが、最大の効果は、小売の現場と直結することで、他のメーカーに比べ商品開発の目線が生活者に近づいたことだった。ものづくりは目的ではなく、生活者の不満を解消する手段だと再認識。プロダクトアウト>マーケートイン>ユーザーインの考えがここで確立した。

3.ネット通販に進出
小売業現場の店長はお客様が求める商品を置きたい。しかし小売業の本社バイヤーはデフレ下で既存店売上高の前年割れが続くと他店との違いだけを気にし始め、特に競合店の価格の安さだけを求めがちになる。そして競合品の安い模倣品がでると店頭の商品が入れ替わる。この弊害を抜本的に解決したのが公式サイトによるネット通販だった。このネット通販が、中国に進出して反日で不買運動が起こった際、人目を気にせず購入できるアイリス製品の大幅な売上増にも繋がった。また、提案型商品は陳列だけではその良さが伝わらない。売り場作りと接客を請け負う「セールス・エイド・スタッフ(SAS)」という制度を作り、指導員を得意先の店舗に派遣し始めた。この制度で顧客の相談に応じる形で商品の良さを提案でき売り上げ増に結びついたのと、売り場で集めた生の声から、データだけでは見えない潜在ニーズや既存商品の課題もわかり商品開発に生かせた。

4.東日本大震災への対応
2011年3月11日。私は「ドラッグストアショー」の出店準備のために千葉市の幕張メッセにいた。大きな揺れとともに、コンクリートの床がドカンと音を立てて砂ぼこりが立ち込め、皆が会場から飛び出す。「震源地は宮城県沖だ」。とっさにそう感じた。本社や自宅のある宮城県では、この2日前にも震度5弱の揺れがあり余震が続いていたからだ。
 インターネットで震源地を確認後、社員と成田空港に向かう。巨大地震の時、鉄道も道路も不通になるのは30年前の宮城県沖地震で経験済みだ。成田発仙台行きの便がある。ところがワンセグテレビの中継を見ると、なんと仙台空港が津波にのみ込まれていく。とんでもないことが起きていた。道路が修復されて車でようやく宮城県に入ったのは13日朝だった。宮城県内に入ると、携帯電話が一切通じない。全て自分の目で確かめるしかない。
 翌日(14日)月曜朝には毎週定例の朝礼がある。私は社長として決断を迫られていた。社員もまた被災者である。避難所生活を強いられている人も多い。「会社のことはいいから、家族と一緒にいてあげなさい」。そう言うべきなのか。しかし、アイリスオーヤマという会社はカイロ、マスクなど生活用品全般を製造販売する会社である。今まさに東北の人々が私たちの商品を待っているのは明らかだった。
 朝礼に使う集会場は天井が崩れて使用できず、事務所前に集まった。誰もがうなだれていた。私は語りかけた。「家族が心配だろう。しかし私たちの商品を出荷することが東北の復興になる。未来を見すえ、前に進むことだ。人を出せない代わりに3億円を寄付する。皆は東北のために、ここにとどまって仕事をして欲しい」。社員たちが一斉に顔を上げ私を見た。不安の色は消え、決意がみなぎっていた。

おおやま けんたろう

大山 健太郎
生誕 (1945-07-03) 1945年7月3日(79歳)
日本の旗 日本 大阪府南河内郡道明寺村
出身校 大阪府立布施高等学校
職業 実業家
活動期間 1964年 -
子供 大山晃弘(長男)
栄誉 大連市栄誉公民、藍綬褒章、仙台市特別市政功労者賞、旭日重光章
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大山 健太郎(おおやま けんたろう、1945年(昭和20年)7月3日[1] - )は、日本の実業家、アイリスグループ会長。アイリスオーヤマ株式会社代表取締役会長。

  1. ^ 第17回日経フォーラム 世界経営者会議 講師プロフィール
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