麻生磯次 あそう いそじ

学術

掲載時肩書学習院長
掲載期間1968/04/07〜1968/04/28
出身地千葉県
生年月日1896/07/21
掲載回数22 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社朝鮮総督府
配偶者記載なし
主な仕事東大図書館、高女教師、六高教授、京城帝国大学教授14年、「江戸文学と中国文学」一高校長、学習院長
恩師・恩人藤村作教授
人脈阿部能成、尾高朝雄、清宮四郎、矢内原忠雄
備考千葉氏子孫
論評

1896年(明治29年)7月21日 – 1979年(昭和54年)9月9日)は千葉県生まれ。国文学者。 第六高等学校教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、東京大学教養学部教授、学部長、文学部長、1960年定年退官、東京大学名誉教授、第19代学習院院長などを歴任した。1944年 東京帝大より文学博士 「近世文学の支那的原拠と読本の研究」など。

1.「江戸文学と中国文学」本の刊行
大正(1925)の終わりになって、法文学部と医学部からなる京城帝国大学が発足することになり、教授として赴任した。新設の大学であるから、いきなり豊富な図書を望むのは無理であったが、購入の予算はかなり潤沢に用意されていた。だが京城において、江戸の新資料を集めるのは何としても不便である。古書目録などに頼っていては、とても間に合うことではない。外地にあっては江戸文学を研究するには、何か新しい手段を考えなければならない。そこで私は場所がら手に入りやすい中国文学に目を付けた。
 馬琴は里見八犬伝の執筆に際し、水滸伝や西遊記や三国志演義に比べて遜色のないものにしたいと意気込んでいたが、当時の作家は中国の小説を耽読し、それを種本にして文壇に新風を吹き込んだ。
 私は比較文学の研究方法に従って、中国文学の影響をできるだけ精密に調査し、比較によって彼我文学の特質を明らかにしようとした。単純な翻案や模倣に満足している作はむしろまれで、換骨奪胎して趣向を新たに加え、あるいは日本的な潤色を試みるという作が少なくない。それによって江戸作家の創意的能力を理解することになった。これを1300枚にまとめ学位論文とし、「江戸文学と中国文学」を刊行した。

2.旧制高校の消滅日記(一高校長時代)
思い出の多い旧制高校は、昭和25年(1950)3月末をもって消滅することになった。3月24日の私の日誌には。こんな記事が見えている。
 「一高最後の卒業式の日である。朝、安倍能成さん宅に、杉敏介先生を訪ね、祝辞をお願いする。一時から卒業式、杉、安倍、天野の歴代校長が壇上に並ぶ。二時から茶話会。現旧職員同窓会の役員、卒業生などが図書館に参集。杉、安倍、天野、田中耕太郎、高橋穣、柳沢健等に話してもらう。次いで一同門前に集まって、第一高等学校の門札を取り外す。七時から晩餐会。千数百名の卒業生先輩が食堂に参集し、すこぶる盛会であった。九時から寮歌際に移り、庭上にかがり火をたき、徹夜寮歌を合唱して、記念すべき日を終わった」。この日に取り外した門札は、長い間教授をしておられた菅虎雄先生の揮毫である。

3.学習院の歴史
昭和41年(1966)私は安倍さんの後を受けて学習院長に選任された。校規により院長は理事長と学長を兼ね、なお幼稚園長でもあった。
 学習院の歴史は古く、その創立は仁考・孝明天皇までさかのぼることができる。明治維新とともにいったん閉鎖になり、明治10年に明治天皇のご意志によって神田錦町に再建された。それから数えても90年になる。その時の建物は烏有に帰したが、正門だけは現在戸山町に残骸をとどめている。目白に移ったのは明治41年で、10代目の乃木希典院長の時である。その時にできた院長官舎は、犬山の明治村に移管された。
 学習院も以前は宮内庁の潤沢な予算で、かなり贅沢な経営をしていたが、戦後は求むべき財源を失い、たちまち窮乏のどん底に落ちてしまった。それから今日までの歩みは全くいばらの道であって、他の私学と共通な悩みを経験している。

麻生 磯次
人物情報
生誕 (1896-07-21) 1896年7月21日
日本の旗 日本千葉県
死没 1979年9月9日(1979-09-09)(83歳)
日本の旗 日本・千葉県
出身校 東京帝国大学
学問
研究分野 国文学
研究機関 京城帝国大学第一高等学校東京大学学習院大学
学位 文学博士
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麻生 磯次(あそう いそじ、1896年〈明治29年〉7月21日[1][2] - 1979年〈昭和54年〉9月9日[2])は、日本国文学者学位は、文学博士東京帝国大学論文博士・1944年)(学位論文「近世文学の支那的原拠と読本の研究」)。東京大学名誉教授。日本学士院会員文化功労者正三位勲一等瑞宝章没後追贈。

  1. ^ 学習院大学国文学研究室「麻生磯次博士年譜・著作目録(麻生磯次博士追悼)」『国語と国文学』第57巻第2号、至文堂、1980年2月、82-87頁。 
  2. ^ a b 麻生磯次』 - コトバンク
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