鹿島一谷 かしま いっこく

芸術

掲載時肩書彫金家・人間国宝
掲載期間1981/11/10〜1981/12/04
出身地東京都
生年月日1898/05/11
掲載回数25 回
執筆時年齢83 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社15歳奉公
配偶者見合い祖母似
主な仕事20歳独立、帯留め(外物)→花瓶(置物)、皿、鉢、自然美、唐招提寺修理、
恩師・恩人北原千鹿 教授、海野清、
人脈油とり(大根おろし)、小島政二郎、田谷力三、
備考近所 に久我美子、小暮実千代
論評

明治31(1898)年5月11日―平成8(1996)年11月23日、東京市生まれ。代々彫金をする家に生まれ、布目象嵌の技術を伝承する。祖父、父、のち海野清、北原千禄に師事。繊細な絵文様を特色とし、伝統的技法を現代に生かした作風で知られる。代表作に「露草布目象嵌水指」(52年)、「銀地布目象嵌 秋の譜水指」(53年)などがある。

1.彫金の昔展示会は「競技会」
江戸時代には「彫物師」と呼ばれていたが、明治期には「彫金師」に変わっていった。その頃の彫金の展覧会は、「競技会」という名称がもっぱらであった。この言葉に、当時の彫金の一般的な性格や地位が端的に表れていると思う。つまり、彫金展は、「技」を競うものであって、絵画展、彫刻のように、その作品自体の美を展示しあうものではなかったのだ。彫金の展覧会は、一種の”技術コンクール“と言ってよかった。作品の形状、内容を見るより、それをいかに精巧な彫金が施してあるかが、まずは評価の要点であった。”技術オンリー“とでもいえようか。昭和の初めまで、彫金界が”技術オンリー“で技術のみを競い合っていた時代に、いち早く、彫金本来の造形美を世に示して見せたのが、東京美術学校の彫金科を出て、昭和2年(1927)からの帝展で、3年連続して特選になった北原千鹿先生だった。

2.彫金の美とは
私が50代になって、北原千鹿先生などの優れた工芸家に出会い、自覚した美の理念とは何であったか。それは「自然」というものの認識である。言い古されてきたことがらなのだが、頭の中でこしらえた理念と、体で習得した理念とは本質的に異なる。
 だから創作上でのインスピレーションあるいはヒントは、もっぱら自然から受けている。自然の形を作品に転化すれば、いい形ができてくる。今一つは縄文土器のように生活から生まれた形で、これには生活の持つ自然の美しさがある。企んで、何か変わったものをと、人間の知恵によって作品をこしらえようとすれば、見栄とはったりが生じ、本当の生命力が作品から消えていく。品格がなくなる。いやしい気持ちが自ずと現れて、見る目を楽しませてくれない。自然と日々の生活から生まれたものから、人間は離れることができないし、また離れる必要もないのである。自然から発想を受けていれば、行き詰まりもまたあり得ないことを、私は知ったのである。発想の新鮮さは、自然の中に含まれているのだ。

3.彫金もスケッチが重要
地方に行くときでも、ちょっとの散歩でも、私は必ずスケッチブックを忍ばせていく。写生帳も、小学校時代からたまっている。散歩で立木を写すこともあり、虫でも動物でも、何でも、気持ちの動いた時にスケッチ。
 画家ならしごく当たり前のことだが、彫金家にも写生は絶対に必要なのである。別にうまく描こうとする必要はない。写生することで、虫なら虫の、その動作というか心をつかむことができれば、それでいい。スケッチせずに、それをすぐ彫金で表わそうとしても、気持ちを掴んでいないから、本当に進んだ彫金による表現もまた、不可能になる。対象の感じをスケッチによってとらえていないと、抽象化もできない、と言えるだろう。
 彫金は、その作業自体も手間がかかるうえ、いったん作り出したら、工程からして途中で後戻りができないという宿命を持っている。それだけに、鏨を打つ前の準備は完璧でなければならない。スケッチにしても、準備なのであり、そして彫金における準備とは、一つの作品の前だけ行うのではない。毎日毎日、たえず準備しておく必要があるのだ。

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