高原慶一朗 たかはら けいいちろう

その他製造

掲載時肩書ユニ・チャーム会長
掲載期間2010/03/01〜2010/03/31
出身地愛媛県
生年月日1931/03/16
掲載回数30 回
執筆時年齢79 歳
最終学歴
大阪市立大学
学歴その他愛媛県松山高校
入社関西紙業
配偶者見合:7歳下学生
主な仕事城山製紙、国光製紙(父)、独立(大成化工)、米国視察、チャームナプキン、紙おむつ、NBC会長、海外展開
恩師・恩人丸田芳郎
人脈早坂暁、開高健(大学)、丸坊主(森下泰、塚本幸一)、藤田田、研ナオコ、野田一夫、大川功、志太勤、関本忠弘
備考性格(勉強魔・教育魔・実践魔)、父:郷土名士
論評

1931年 〈 昭和 6年〉 3月16日 – 2018年 〈 平成 30年〉 10月3日 )は愛媛県生まれ。 実業家 。 父が経営する家業の国光製紙(現ユニ・チャーム国光ノンウーヴン)専務を経て、1961年大成化工(現ユニ・チャーム)を設立し、同社代表取締役社長に就任。日本経団連 評議員会副議長やNBC(ニュービジネス協議会)会長等を務めた。 第2代ユニ・チャーム代表取締役社長の髙原豪久は長男 。

1.30歳で起業
1961年(昭和36)2月、資本金300万円、社員24人でスタート。1か月の突貫工事で本社兼工場を建てる。同年11月、新聞にこんな広告がでていた。「40年間お待たせしました!」。生理用品メーカー、アンネの広告だった。初めて紙で作った使い捨ての商品でたちまち大ヒットしていた。それまでのは脱脂綿やガーゼを使っており、買って調べようと思った。当時生理用品は薬局の奥の棚に置かれ、日陰者扱いだった。
 翌62年9月、日本生産性本部が米国視察団を募集していたので応募した。米国で見た生理用品とその売り方は日本とは全く違い、衝撃的だった。日蔭と日向だった。このギャップこそ商機と捉えた。頭の中が晴れた。紙の機能の中で拭うことを生かした商品はまだそれほどなかった。人口の半分は女性だ。消費財だから自分たちで価格を決めて売ることもできる。これまでバラバラに思い描いていた新たな起業のアイデアが生理用品と出合って一つに収れんした。
 そして何より、女性に尽くす商品であることが心を動かした。子供のころ献身的に家のために働く母の姿を見て、何かできないものかと考えていた。大学時代、ガールフレンドから生理が不快なものであることを聞いたのも覚えていた。女性の不快な思いを少しでも取り去ることができれば、それこそ社会的に存在意義のある会社になれると思った。

2.自己反省の丸坊主で再出発
1970年1月、療養中だった母が亡くなった。私は強烈なマザコンだったので前後を忘れて号泣した。母の死で事業にさらに傾倒する。そのかいもあり、翌年にアンネを抜き去り、ナンバーワンになるが、自分に課した高い目標のために社員に負担がかかっていた。会社の成長が社員の幸せに繋がると考えていたが急ぎ過ぎた。激務で体調を崩す社員も出た。母の教育熱心さを人材育成に生かそうといろいろ社外のスパルタ式の研修に社員と参加したが逆効果の面もあった。
 社内を一丸にまとめ上げる姿勢に欠けていた。リーダーは部下に対して要望性、共感性、通意性を求められるが、それらのベースにあるべき信頼感が稀薄になっていた。「なぜあんなことをやらせるのか」と不満も聞かれた。
 迷いも出てきた。そんな時、相談相手の森下泰さん(森下仁丹社長)、塚本幸一さん(ワコール社長)が仲間や社員との約束を守れなかったケジメで丸坊主になっていた。さて、自分はどうするか?創業から10年が過ぎ、社内は急成長ゆえの歪(ひずみ)が出ていた。リーダーとして新たな姿勢を見せる決意として、自分も丸坊主になった。心機一転の意味だった。

3.テレビCM(研ナオコさん)の威力
1976年(昭和51)夏。人気上昇中で女性から好感度が高い歌手の研ナオコさんをテレビCMに起用した。当時、生理用品のCMは業界の自主規制で食事や子どもが視聴する時間帯、日曜・祝日には流せなかった。商品そのものを映すのも、説明の表現も具体的なものは駄目だった。
 表現の壁は表現で崩すことにした。ただ、他にも壁はあった。そもそも有名タレントが生理用品のCMに出ることがなかった時代、彼女の所属事務所も難色を示した。拝み倒してようやく実現。タンポンのCMはでき上った。覚えていらっしゃるだろうか?月の砂漠の楽曲に合わせて縫いぐるみのラクダに乗った姫(研さん)がコミカルな会話を交わす。
侍従「姫。まだでございますか」 姫「もう、無事にとおりすぎました」 
侍従「私としたことが・・」 姫「男はいらぬ心配はしないことよ」
 数々の制約の中で女性に共感と親近感を伝えるのに腐心した。この年の人気CMに選ばれ、売り上げにも貢献した。また翌年、やはり研さんを起用し「まだお厚いのがお好き?」も、たった11文字で商品特性と女性の気持ちを見事に表現してくれた。
 紙おむつでもCMは大いに威力を発揮する。商品コンセプトは外出時に使ってもらうことで、CMコピーは「おむつが街にやってきた」。新宿副都心で紙おむつ姿の赤ちゃんが鼓笛隊を引き連れてヨチヨチ歩くCMだ。地滑り的に勝利を収めトップに立つことができた。

追悼

氏は’18年10月3日87歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は2010年3月で79歳のときであった。

1.ノート魔は性格
氏は「1番になると母が喜んでくれる」ため、勉強もまじめにした。「予習復習は欠かさず、何でもノートに残した。ノート魔は大人になっても変わらない。ゴルフの昼食時でも大学ノートを出し、相手から何かを学び取ろうとして、驚かれることはザラだった。今でも会社の執務室に700冊のノートが並び、読み返している」と書いている。

2.海外展開
消費社会の構造変化をとらえる嗅覚は鋭かった。生理用品、紙おむつ、老人用紙おむつ、ペット用品と紙を軸に成長分野へと事業領域を拡げ、勝ちパターンはアジアを中心とした新興国へも当てはめ成長させた。宣伝能力も優れており、従来のナプキンは厚いことが安心感となっていたが、これを技術力で半分の厚さでも変わらない商品を開発した。これを研ナオコの軽妙なキャラクター起用で「まだお厚いのが、お好き?」のセリフが評判となる。この商品が当たり、同業アンネを抜き去り、日本一となった。

3.晩年に蹉跌
しかし、晩年に蹉跌も経験している。ニュービジネス協議会(NBC)の会長に前任のCSKの大川功氏から引き継ぐことが内定していたが、初代理事長の野田一夫氏からクレームが付いた。そのクレーム理由を高原氏は「根っからのナンバーワン志向が鼻についたのだろう。勉強会では必ず最前列に座り、質問も最初に手を挙げる。宴席でもノートを拡げペンを執った。最初は「勉強熱心ですね」と言われたが距離を置く人もいた」。NBC会員530をまとめるには自分の非を改めることでこの難関を切り抜けた。

髙原 慶一朗(たかはら けいいちろう、1931年昭和6年〉3月16日 - 2018年平成30年〉10月3日)は、日本実業家ユニ・チャーム創業者で、同社初代代表取締役社長や、日本経団連評議員会副議長等を務めた。従四位。第2代ユニ・チャーム代表取締役社長の髙原豪久は長男[1][2]

  1. ^ 「髙原 慶一朗」の家系」思い出のアルバム
  2. ^ “ユニ・チャーム創業者の髙原慶一朗さん死去”. 朝日新聞デジタル. (2018年10月9日). https://www.asahi.com/articles/ASLB94SQFLB9ULFA00Z.html 2018年10月9日閲覧。 
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