野田岩次郎 のだ いわじろう

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掲載時肩書ホテルオークラ会長
掲載期間1981/05/31〜1981/06/27
出身地長崎県
生年月日1897/02/15
掲載回数28 回
執筆時年齢84 歳
最終学歴
一橋大学
学歴その他東商予科
入社三井物産
配偶者米国カリタ嬢
主な仕事日綿転籍、財閥解体委員(三井・三菱・住友・安田・中島・野村・浅野・大倉・古河・鮎川:56人対象)、川奈ホテル、ホテルオークラ
恩師・恩人平生釟三郎、大倉喜七郎
人脈新関八洲太郎、大屋晋三(高商)、神谷正太郎、水の江滝子、中山定義、中山素平、奥村綱雄、小林一三、山本為三郎
備考過度経済力集中排除法実行の内幕を詳細に記述
論評

1897年(明治30年)2月15日 – 1988年(昭和63年)12月15日)は長崎県生まれの実業家。第二次世界大戦後、連合国占領統治下の日本に於いて、持株会社整理委員会(HCLC)常務委員・委員長として財閥解体に当たり、HCLC解散後は京阪神急行電鉄、後楽園スタヂアム、三井船舶の顧問、川奈ホテル相談役を経て、1959年に大成観光社長に就任。そしてホテルオークラの立ち上げに参加。日本ホテルの国際化の礎を築いた。1975年には日本ホテル協会会長に就き、観光行政の強化や史跡・自然保護を訴えた。

1.持株会社整理委員会の内幕
この委員会は、公正取引委員会や国家公安委員会と同じように民間人で構成しながら行政権を持つという米国式の委員会で、日本にはなかった組織であり、委員は財界人や日本政府の官僚はダメ、民間人でも財閥に関係した人、現在財閥関係の会社にいる人はダメだとされていた。
 この委員会の組織づくりは昭和20年〈1945〉の秋ごろから始まり、昭和21年の正月には、内幸町にあった高千穂ビルの一室に準備事務所を置き、三和銀行頭取の中根貞彦さんと私の二人で電気コンロに当たりながら方針を語り合った。三和銀行総務部長だった近藤彰敏君を引き抜いて委員会の総務部長にすえ、また横浜正金銀行から大月栄一という人を財閥整理課長とした。これが事務局の原型である。
 委員の人選では、GHQが直接推薦したのが東大教授の脇村義太郎氏と毎日新聞論説委員で後の統計委員会事務局長の美濃部亮吉氏であった。中根さんが選んだのはシャルル・ジイドの研究家で神戸商大教授の飯島幡司氏、興銀前理事の笹山忠夫氏、大和証券前会長の車谷馬太郎氏、弁護士で前司法次官の大森洪太氏、それに秩父セメント常務の諸井貫一氏であった。
 昭和21年4月20日に持株会社整理委員会令が発令され、5月3日には前記メンバーが設立委員となり、委員長選びなどが始まった。

2.GHQ側人物の思い出
最も思い出深いのは、最初の経済科学局長のクレーマー大佐、5人員会のメンバー、反トラスト・カルテル課長のウェルシュ氏である。ウェルシュ氏とはことごとに激論を交わしたものだった。彼は大学教授上がりのニューディール派で、財閥解体の仕事をあまりにも覚書に忠実に論理的に進めようとしたため、日本に対して厳しいものとなった。しかし、非常に清廉潔白な人で、日本の企業からの贈り物はすべて返していた。あまりやり方が厳しく、また米国の対日占領政策も変わったため、任期半ばで帰国させられた。
 ウェルシュ氏の下の担当官の中でブッシュ、ランドール、ギレスといった人たちも真面目に仕事をした。彼らはウェルシュ氏ほどの急進派ではなく、日本の実情もよく理解していて、常識的であり、私とは非常に親しかった。ところが手を焼いたのは、民生局のミス・ハドレーで、自分で三井、三菱、住友などの財閥に出かけて調査をしてきては、整理委員会の仕事は手ぬるい、もっと厳しくやるべきだと盛んに横ヤリを入れてきた。日本では社会党に友人が多く、後に財閥の研究で博士業をとった。

3.ホテル・オークラ引受け条件と合意
昭和34年〈1959〉春に大倉喜七郎さんと話し合い、①私は人の下につかない、全部トップでなくてはやるつもりはないこと、②元野村鉱業社長で東洋精機で手伝ってもらっていた青木寅雄君を役員として迎えること、③私も株を持つことであったが、3つの条件を全て受け入れていただいたので引受けることにした。
 そして現在、日本にあるホテルは全部欧米の模倣であって日本の特色を出していない。欧米から高い運賃を払って日本に来るのは、日本の風土、習慣、文化、つまりローカルカラーを味わうために来るのだから、私がホテルを任されたら、日本の文化、美術、伝統を採り入れたものにしたいと言い、大倉さんとも完全に意見が一致した。そして6か月間無給で働き、その後の給料は税込25万円、交際費は10万円になった。

野田 岩次郎(のだ いわじろう、1897年明治30年)2月15日 - 1988年昭和63年)12月15日)は長崎県長崎市出身の実業家第二次世界大戦後、連合国占領統治下の日本に於いて、持株会社整理委員会(HCLC)常務委員・委員長として財閥解体に当たり、HCLC解散後はホテルオークラの立ち上げに参加。日本ホテルの国際化の礎を築いた。

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