赤城宗徳 あかぎ むねのり

政治

掲載時肩書衆議院議員
掲載期間1973/02/01〜1973/03/02
出身地茨城県
生年月日1904/12/02
掲載回数30 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他水戸
入社耕地整理組合長
配偶者記載なし
主な仕事26歳で村長(16年間)、県議、衆議員(32歳)、農林大臣(6回)・ソ連交渉、アイク来日・自衛隊出動拒否、日韓交渉
恩師・恩人
人脈水戸高(江戸英雄、小川栄一、岡崎勝男、法華津孝太、川崎千春)、三木武夫、松村謙三、河野一郎
備考代々名主(大地主)
論評

1904年(明治37年)12月2日 – 1993年(平成5年)11月11日)は茨城県生まれ。政治家、教育者、剣道家。第2次岸内閣で内閣官房長官、そして、日米安保条約改定をめぐる政局では、1959年第2次岸改造内閣にて主務大臣である防衛庁長官に就任する。1960年、安保闘争に際して反対する数万人規模のデモが連日国会を囲む中、首相岸信介に自衛隊の治安出動を打診されるが、“自衛隊が国民の敵になりかねない”と反対したことで知られる。農林大臣、内閣官房長官、防衛庁長官などを歴任。農林水産大臣を務めた赤城徳彦元衆議院議員は孫。親戚に元経団連会長・稲山嘉寛がいる。

1.26歳で村長
昭和2年(1927)東大卒業後の11月、私は茨城の上野村耕地整理組合長に就任した。獅子奮迅という形容を許してもらうならば、3百町ほどの水田の用排水整備と築堤、区画整理の仕事をやった。これをほぼ2年で仕上げた。工事の監督には農用の馬を乗り回した。その馬がクセのある馬で、スキを見ては、尻を撥ね上げて振り落とそうとする。何度か道路の上でやられた。
昭和6年(1931)4月に若槻内閣が誕生した。その7月、村政収拾のためとして、村会一致で、村長に推された。26歳だった。当時、農村の負債は50億円と言われ、政府は全国市町村に経済厚生委員会を設置させ、自力更生を指導した。私は「上野村経済厚生計画書」をつくり、これをテキストにして、村内部落に、毎晩座談会を開き、私も出席して村民と懇談した。また、失業対策として、大々的に土木工事を興した。役場を中心に、学校、産業組合および籾(もみ)貯蔵石造倉庫、郵便局などを集中し、ここを中心として環状的に各部落網を貫いて、編入した県道と結び付けた。

2.終戦当日(1945年8月15日)
小磯内閣に代わった鈴木貫太郎内閣は、終戦の意図十分であり、小山亮君などは早くもバドリオ政権(イタリア降伏時の政権)になぞらえて議会質問したりしていた。7月26日のポツダム宣言、次いで広島、長崎の原爆、ソ連の対日宣戦などいよいよ窮状著しい。それでも私たちは、無条件降伏だけは避けたいと、大西軍令部次長を夜中訪問し、その旨を要請した。
 しかし、ついに8月15日の玉音放送である。私はラジオを叩きつけて悲憤の涙を流した。阿南陸軍大臣の自害、愛宕山の集団自爆、宮城前、代々木練兵場などで自決者が続出した。二重橋前の玉砂利に正座して終日頭を垂れている人々の姿が忘れられない。

3.防衛庁長官で自衛隊出動を拒否
昭和34年(1959)6月18日、岸内閣の改造があり、私は今度は防衛庁長官に就任した。翌35年5月20日、清瀬一郎議長は、会期延長、安保条約を強行採決した。一方、5月31日米国ホワイトハウスは、アイゼンハワー大統領の訪日を6月19日から3日間とする旨、公式に発表した。国会あるいは首相官邸へ押し寄せるデモ隊は日一日と数を増し、国会との連絡は、戦時中の防空壕の通路を整理した地下道によらなければならない有様だった。
 6月19日のアイク訪日が迫るにつれて政府・自民党内にも焦燥感が強まり、警備のため、自衛隊を出動させるべきだ、という声が高まってきた。警察当局としては「警備には自信が持てない」と言われ、佐藤栄作蔵相や池田勇人通産相、川島幹事長などからも、「何とか自衛隊を出せないか」としばしば談じ込まれた。
 6月15日夜だったと思う。私は南平台の岸信介総理から私邸に呼ばれ、直々に自衛隊出動の強い要請を受けた。ときは、女子学生の樺美智子さんが国会の構内で死亡した日である。私邸の周りにもデモ隊がひしめいていた。私は前からの理由で、自衛隊を出動させるべきでないことを直言した。岸総理は腕組みしたまま、ただ黙って聞いていた。悲壮な息詰まる一瞬だった。翌日、閣議が開かれ、岸総理はアイク訪日を取りやめてもらうことにしたいと発言された。

赤城 宗徳
あかぎ むねのり
防衛庁長官として海上自衛隊横須賀地方総監部及び第2術科学校を視察する赤城(1959年7月22日撮影)
生年月日 1904年12月2日
出生地 日本の旗 茨城県真壁郡上野村(現・筑西市
没年月日 (1993-11-11) 1993年11月11日(88歳没)
出身校 東京帝国大学法学部法律学科
所属政党 (無所属→)
翼賛政治会→)
護国同志会→)
日本協同党→)
(無所属→)
自由党→)
日本民主党→)
自由民主党岸派椎名派河本派
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
紺綬褒章
衆議院永年在職議員
法学士
配偶者 妻・赤城ヒサ
親族 孫・赤城徳彦

日本の旗 第25・32-34・42代 農林大臣
内閣 第1次岸改造内閣
第2次池田第3次改造内閣
第3次池田内閣
第3次池田改造内閣
第1次佐藤内閣
第3次佐藤改造内閣
在任期間 1957年7月10日 - 1958年6月12日
1963年7月18日 - 1965年6月3日
1971年7月5日 - 1972年7月7日

日本の旗 第11代 防衛庁長官
内閣 第2次岸改造内閣
在任期間 1959年6月18日 - 1960年7月19日

内閣 第2次岸内閣
在任期間 1958年6月12日 - 1959年6月18日

選挙区 (茨城県第3区→)
旧茨城3区
当選回数 15回
在任期間 1937年4月30日 - 1938年2月14日
1942年4月30日 - 1945年12月18日
1952年10月1日 - 1976年12月9日
1979年10月7日 - 1990年1月24日

在任期間 1935年[1] - 1944年[1]

その他の職歴
茨城県上野村
1931年[1] - 1945年[1]
第13代 自由民主党政務調査会長
総裁:佐藤栄作
(1965年 - 1966年
第8代 自由民主党総務会長
総裁:池田勇人
1961年 - 1963年)
テンプレートを表示

赤城 宗徳(あかぎ むねのり、1904年明治37年〉12月2日 - 1993年平成5年〉11月11日)は、日本政治家、教育者、剣道範士栄典正三位勲一等

農林大臣(第25・32-34・42代)、防衛庁長官(第11代)、内閣官房長官(第17代)、衆議院議員(15期)、茨城県会議員、茨城県上野村長、自由民主党政務調査会長(第13代)、同総務会長(第8代)、同副幹事長、同茨城県支部連合会会長などを歴任[1][2]

弟はNHK専務理事を務めた赤城正武[2]、孫は農林水産大臣や衆議院議員を務めた赤城徳彦[2]

  1. ^ a b c d e 広報うしく 2012年1月1日号』(PDF) 1064巻、牛久市市民活動課、2012年1月1日、16頁https://www.city.ushiku.lg.jp/kouhoushi/2012_01_01/image/2012_01_01.pdf2023年11月29日閲覧 
  2. ^ a b c 赤城 宗徳”. コトバンク. DIGITALIO. 2023年11月29日閲覧。
[ 前のページに戻る ]