谷川健一 たにがわ けんいち

学術

掲載時肩書民俗学者
掲載期間2008/05/01〜2008/05/31
出身地熊本県
生年月日1921/07/28
掲載回数30 回
執筆時年齢87 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他府立浪速高校
入社平凡社
配偶者記載なし
主な仕事柳田国男(稲作説に対し青銅説)、風土記日本、日本残酷物語、太陽、ウブスナ、青銅の神の足跡、白鳥伝説、地名研究所
恩師・恩人林達夫、
人脈柳田国男、宮本常一、鎌田久子、大島渚、大佛次郎、折口信夫、塚本邦雄、白川静、山折哲雄、
備考父・水俣医師
論評

1921年7月28日 – 2013年8月24日、満92歳没)は熊本県生まれ。民俗学者・地名学者・作家・歌人。近畿大学教授・日本地名研究所所長等を歴任。在野の学者として日本文学や民俗学の研究をおこない多くの研究書を著した。日本文学の源流を沖縄・鹿児島などの謡にもとめた「南島文学発生論」などの業績をあげた。詩人谷川雁、東洋史家谷川道雄、日本エディタースクール創設者吉田公彦(旧名 谷川公彦)ら谷川兄弟の長兄である。長男は考古学者・早大教授の谷川章雄。

1.柳田国男の思想に触れる
1952年、私は平凡社に入社した。私の役目は入手した原稿をリライト(書き直し)する仕事であった。ある日のこと、ふとしたことで本棚に放置したままの文庫本の柳田国男「桃太郎の誕生」を何気なく開いた。そこで驚いたのは、日本の庶民が、お決まりの5大お伽噺を自分流に、自由奔放な筋書きに作り替えていることであった。庶民の発想が、このように生き生きと独創的に発揮されているのを見て、これまで戦後啓蒙思想によって無知な存在として不当に貶められていた庶民は、私の中に復権した。貧しくとも楽しみを追求し躍動する庶民に、日本人の幸福への確信を初めて覚えた。その本の読後感は、私にとって決定的だった。
 柳田国男に会う機会が間もなく訪れた。柳田の秘書役を務めている鎌田久子に出会い、引き合わせてもらった。小田急線の成城にある民俗学研究所で会った柳田は、まるい眼鏡の奥に優しい眼がのぞく小柄な老人であった。私が熊本県の生まれだというと、熊本には丸山学という人がいるが、君が尊敬しなければならぬ学者だと、言った。私は柳田に出会うまで、さまざまな思想の袋を引き裂いたが、そこに見出したものは金貨ではなく、いつも銀貨か銅貨だった。ある日偶然に柳田の袋を開いて、はからずもそこに金貨を見出した時の驚きを忘れることができない。

2.宮本常一から庶民像を学ぶ
「児童百科事典」が終わった後、私が企画したのは、民俗学を中心とした地方誌であり、風土記の近代版を目指した「風土記日本」(全7巻)であった。その編集員会議に宮本常一を呼び、話を聞かせてもらった。
 会議は朝10時から夜までぶっ通しにやったが、宮本はその間中ひとりで喋っていた。ふつう学者の知識といえば、標本室の陳列品のような、どことなくかび臭い匂いがするが、宮本の豊富な旅の経験に裏付けられた知識は、たった今海底から刈り取って来て、潮水に濡れた海藻のように生き生きしていた。私は全身が吸い取り紙のようになって耳を傾けた。
 当時宮本は広大な渋沢敬三邸の一角に建てられた長屋に玄関番のような格好で住み込んでいた。三畳ほどの狭い部屋には、壁際に天井まで届くような本棚が置いてあり、その脇に彼はせんべい布団にくるまって寝ていた。布団の皮は五月の節句の時に立てる鯉のぼりの布地を縫い合わせたものだった。私はそれを見た時、胸に迫るものがあり、今度の企画はきっと成功すると思った。
 宮本は年間200日以上を旅に過ごし、泊まった民家は800軒という大旅行家だったが、世間ではほとんど無名であった。私は柳田国男の導きで民俗学の道に進んだが、民俗学に一生取り組んで後悔しないという確信を得たのは、宮本常一から学んだ庶民像によってである。だから宮本に感謝しすぎることはない。

3.現地調査で「ウブスナ」の語源発見
私が小浜を訪れたのは昭和46年(1971)の秋で、敦賀半島に残っている産(うぶ)小屋を調べた。産小屋が実際に使われなくなったのは、1970年に、敦賀半島の尖端に原子力発電所が作られると、立派な道路が付き、敦賀市の産院で出産するようになったためである。産小屋は取り壊されたり、物置小屋になったりして、見る影もなくなった。私が常宮の産小屋を訪れた時も、既に納屋に使われていて、当時をしのぶものは天井から垂れ下がっている力綱しか見当たらなかった。
 納屋の持ち主である河端亀次郎という老人に聞くと、産小屋は床板を張らず、小屋のつい先の海浜の砂を運んで一番底に敷き、その上にワラシベをのせ、ワラシベの上にはムシロを、ムシロの上に布団を敷いたという。産婦はソン踞の形で坐り、垂れ下がった力綱を握り締めて分娩した。
 そこで、「では、産小屋の底に敷く砂を何と呼ぶのですか」と私が訊ねると、河端老人は「ウブスナ」と答えた。それは机上の学問ではなく、現地で民族調査をする者に与えられた至福の一瞬であった。柳田国男でさえ不明としていたウブスナの語源がその時分ったのである。ウブスナを産小屋の砂と考えると、疑義は氷解した。

4.安易な地名変更に憤りで行動
日本の地名は1962年に施行された住居表示法によって大きな改変を強いられた。戦後の混乱期に派生した町名や地番を整序するのが目的で始められたものであったが、その法令が、過去の地名を考慮せず、極めて恣意的に新しい地名を造出するという、おそるべき結果を招くのに時間がかからなかった。
 住所表示法の施行から最初の5年間に、市街地の地名の4割方が抹殺され、改変された。日本の国情も歴史的経緯も無視した改変が横行するのにたまりかねた私は、地名改変に憤る草の根の人々を糾合して全国組織「地名を守る会」を発足させた。住所表示法の施行から16年経っており、新地名の眼を覆うような乱脈さからすれば、遅すぎる旗揚げと言わざるを得ない。しかしすべての運動は遅すぎる時点になって、ようやく始まるのである。それにもかかわらず「地名を守る会」は全国に大きな反響を呼んだ。
 地名を軽視し、安易に改変することの背景には、地名についての無知が潜んでいることに思い当たった私は、地名を守る運動と、地名研究活動を併用しなければならないと考えた。そこで神奈川県と川崎市当局に働きかけ、その援助の下に、1981年に川崎市に「日本地名研究所」を設立した。爾来、今日まで27年が経過している。

追悼

氏は、’13年8月24日に92歳で亡くなった。民俗学の巨人・柳田国男や宮本常一氏はこの「履歴書」には登場していない。柳田国男氏の影響を強く受けたが、柳田の「稲作偏重」に真っ向から批判した「青銅の神の足跡」を著した。

曽我氏に敗れた物部氏が崇拝した「白鳥」伝説や沖縄の過酷な人頭税課税などから、歴史の負の情念に着目し、霊性や死生を巡る観念の解明を軸に、独自の視点から民族活動を展開した。

また、今も残る日本の地名の重要性を唱えて伝統的地名の消滅反対運動も起こし、日本地名研究所を設立した。日本各地を自らの足で回り、特に奄美諸島や南島文化について考察・発信した。これら独自の視点による民俗学を樹立したことで「谷川民俗学」とも呼ばれている。

谷川 健一
人物情報
生誕 (1921-07-28) 1921年7月28日
日本の旗 日本熊本県水俣
死没 2013年8月24日(2013-08-24)(92歳)
学問
研究分野 民俗学地名学日本文学
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谷川 健一(たにがわ けんいち、1921年7月28日 - 2013年8月24日[1]、満92歳没)は、日本民俗学者地名学者・作家歌人近畿大学教授・日本地名研究所所長等を歴任。2007年文化功労者選出。

在野の学者として日本文学民俗学の研究をおこない多くの研究書を著した。日本文学の源流を沖縄鹿児島などの謡にもとめた「南島文学発生論」などの業績をあげた。

  1. ^ “谷川健一氏が死去 民俗学者・文化功労者”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2013年8月25日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2402Z_U3A820C1CC1000/ 2020年3月22日閲覧。 
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