西岡常一 にしおか つねいち

建築

掲載時肩書宮大工棟梁
掲載期間1989/11/01〜1989/11/30
出身地奈良県
生年月日1908/09/04
掲載回数29 回
執筆時年齢81 歳
最終学歴
農業高校
学歴その他生駒農学校
入社農作業1年
配偶者農家娘
主な仕事塔組は木の癖組み・人の心組、法隆寺の大修理→薬師寺金堂・西塔の復興・伽藍(飛鳥→白鳳)
恩師・恩人祖父・常吉、佐伯定胤(法隆寺管長)
人脈橋本凝胤(薬師寺長老)・高田好胤(管長)、小川三夫(弟子)、幸田文、竹島卓一、太田博太郎、安田暎胤、白鷹幸伯、
備考代々宮大工棟梁
論評

1908年(明治41年)9月4日 – 1995年(平成7年)4月11日)は奈良県生まれ。法隆寺専属の宮大工。戦後は法隆寺の工事が中断され、「結婚のとき買うた袴、羽織、衣装、とんびとか、靴とか服はみんな手放してしもうた。」と述懐する如く、生活苦のため家財を売り払わざるをえなくなった。一時は靴の闇屋をしたり、栄養失調のために結核に感染して現場を離れるなど波乱含みの中で法隆寺解体修理を続けるが、その卓抜した力量や豊富な知識は、寺関係者のほか学術専門家にも認められ、1956年(昭和31年)法隆寺文化財保存事務所技師代理となる。さらに1959年(昭和34年)には明王院五重塔、1967年(昭和42年)から法輪寺三重塔(1975年(昭和50年)落慶法要)、1970年(昭和45年)より薬師寺金堂、同西塔などの再建を棟梁として手掛ける。

1.宮大工は工業校より農業校へ行け
小学校6年生になった時、私の進学をめぐって父と祖父の意見が対立した。父は図面が描ける工業校を推したが、祖父は農業校へ行け、と主張したのである。
「人間も木も草も、みんな土から育つんや。宮大工はまず土のことを学んで、よく土を知らんといかん。土を知って初めて、そこから育った木のことがわかるのや」と。いやいやながら農業校に進んだ。

2.土の命
大正13年(1924)生駒農学校を卒業した私に、祖父は大工をさせるどころか、「3年間学んだことを実際にやってみい」と命じ、一反半ほどの耕作地を与えた。米収穫が終わって、祖父に報告すると、ねぎらってもくれない。「おかしい」という。私の収穫量は3石だった。普通の農民なら、一反で三石半は穫れる。一反半なら4石半なければならない、というのである。「これは、どういうことやと思う?」と、祖父は私に訊ねた。
 「お前は、稲を作りながら、稲と話し合いせずに、本と話し合いをしていた。稲と話し合いできる者なら、窒素、リン酸は知らなくても、今、水を欲しがっとるんか、今、こういう肥料を欲しがっとるちゅうことかが、分かるんや。本と話すから、稲が言うこときかんのや」。そして、「これからいよいよ、お前も大工をするんやが、大工もそのつもりで・・・」と、話が核心に入った。
 「木と話し合いができなんだら、本当の大工にはなれんぞ」。―木と話すーこれだったのである。

3.心を組む・・・祖父から口伝
夜は祖父にあん摩を頼まれた。私にもまれながら、祖父はいろんな話をする。「木というものは、土の性(さが)によって、質が決まる。山のどこに生えているかで、癖が生まれる。峠の木か谷の木か、一目でわかるようにならなあかん」「どこそこの瓦は土が上等や」などといった話から、大工さんの評価をする。
―堂塔の建立には木を買わず山を買え、「一つの山の木で、一つの堂、塔をつくるべし」というのである。吉野の木、木曽の木と、あちこち混ぜて使ってはならない。木は土質によって性質が異なる。同じ環境の木で組んでいく。その木組みについては、―堂塔の木組みは木の癖組みー、木は生える場所によって、それぞれ癖を持つ。それを見抜き、生かして組め、建物の寸法の都合に合わせて組んだりするなということでもある。続いて「木の癖組みは工人等の心組み、工人等の心組みは匠長が工人等への思いやり」と。

4.適材適所(法隆寺の金堂建築に口伝を生かす)
寺は南側が正面になる。木には陽おもてと陽うらがある。南側が陽おもてで、木は南東に向かって枝を伸ばすから、節が多く、木目は粗い。陽うらの方が木目はきれいに見える。切ったあとも、木の性質は残る。日光に慣れていない陽うらを南にして柱に据えたりすれば乾燥しやすく、風化速度は早くなる。太陽にいわば訓練されている部分を、陽のさす方向に置く。陽おもての方が木はかたい。四つ割りにした柱も、南東側を柱に、北西側を軸部や造作材にと振り分ける。これが木の生命を延ばす重要な技法でもあった。
 さらに山の頂上、中腹、斜面、南か北か、風の強弱、密林か疎林かで、それぞれの木質は異なる。そうした木の性(しょう)も考慮に入れて、見事に使い分けていた。まさに、―適材適所―を実践している。口伝に言う「木は生育の方位のままに使え」の通りだった。

5.ヒノキは千年越え「動く」「香る」
総じて、木の自然の環境をいじくらず、そのまま活用している。それが、寸法や規格に従って切っては絶対にできない美しいバランス感覚を生み出したのだ。時代が下がるにつれて、スギ、マツなどが建材に使われるようになる。解体修理などではっきりしたことだが、スギなら七百年、八百年、マツなら四,五百年はもつ。
 しかし、千年以上ビクともしないヒノキに勝るものはない。なぜなら、千三百年前のヒノキを解体修理の際、土など荷重のものを取り除くと、二日たち、三日たつと、木は1cm、2cmと少しずつ少しずつだが、元の形に戻っていった。修復の必要からカンナで削ると、ヒノキ特有の香りが漂ってきた。大工ならわかるが、生の木の匂いだった。

薬師寺西塔

西岡 常一(にしおか つねかず、1908年明治41年)9月4日 - 1995年平成7年)4月11日)は、法隆寺専属の宮大工

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