舘豊夫 たて とよお

輸送用機器・手段

掲載時肩書三菱自動車相談役
掲載期間1995/09/01〜1995/09/30
出身地東京都
生年月日1920/01/03
掲載回数29 回
執筆時年齢75 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他東京高
入社三菱重工
配偶者神重徳 大佐娘
主な仕事中日本重工業、水中翼船、三菱商事、三菱自動車、クライスラー、工販統合、ベンツ、中国・韓国、ASEAN,浦和レッズ
恩師・恩人久保富夫、牧田与一郎
人脈飯田庸太郎、堤清二、大前研一、アイアコッカ、田部文一郎、末永聡一郎、梁瀬次郎
備考航空機、船舶、自動車(陸海空経験)、エリマキトカゲCM
論評

1920年1月3日 – 1998年4月9日)は東京生まれ。実業家。昭和17年三菱重工業に入社。三菱商事をへて,三菱重工業とアメリカのクライスラーの合弁で誕生した三菱自動車工業へ46年に移り,58年社長,平成元年会長。販売会社を統合,アメリカでの合弁工場建設を推進。のちクライスラーとの資本提携を解消し,同社の自立につくした。

1.水中翼船の市場開拓
私が艦艇課長になった1960年ごろ、水中翼船が脚光を浴びていた。このため課長の仕事の傍ら、こちらの市場開拓にも関与した。きっかけは同年11月、新三菱重工業の技術懇談会で、神戸造船所と名古屋製作所との協力による水中翼航洋全没型船の開発が決まったことだ。翌61年には西武百貨店から東京湾などで水上タクシーとして実用化できないかとの引き合いがあり、プロジェクトは強力に進められた。
 「MHF―4型」と称し、水面貫通型の延長5m、幅1.8m、機関出力百馬力、最高速度60~65km、座席数6人の船だった。「乗用車並みの快適なスピードと乗り心地」をキャッチフレーズにカタログも作り、芦ノ湖や霞ケ浦、東京湾などで試走もした。一隻100万円の価格を提示することで、試作艇を含めて15隻を名古屋で製作した。しかしその後の試験の結果、対波浪性や実用性、ユーザー側の採算性などの問題があり、63年半ばにプロジェクト中止の指示が下った。技術関係者や私は、ほぞを噛む思いだった。

2.労働組合本部の書記長に就任
新三菱重工業で船舶営業を担当していた1953年5月から、労組本部の書記長に1年だけ専従した。組合本部専従だと本社がある神戸での勤めのため、妻子とは別居しなければならない。また2万2千人も抱える組合の要職は大役だ。こんな思いから当初は、専従就任をためらっていた。
 しかし旧三菱重工の3分割前に本社職員組合の書記長、分割後には組合東京支部の副委員長など、非専従で3年間組合活動をしていた。この経験を買われてか、敬愛する基政七委員長や兄貴分だった岩松悌二郎氏から強く要請され、1年の約束で引き受けることにした。締結したばかりの労働協約に基づく労使による経営協議会の具体的な運営方針や夏冬の一時金、春の賃上げ交渉、それに賃金体系の整備、不振の静岡工場閉鎖、上部団体一本加盟の推進などが課題だった。
 書記長は会社との交渉窓口だし、大会や中央委員会でも翌日の一般報告や運営方法などの勉強、準備もしなければならず、割に合わないと思ったこともある。それでも、会社との交渉や組合での議論が纏まった時の喜びは大きかった。

3.三菱自動車の自工・自販統合
1983年6月末、社長3期、会長2期を務めた久保富夫さんが相談役に退かれ、私が5代目の社長に就任した。私は密かに3つの誓いを立てた。(1)自工・自販の統合、(2)株式上場、(3)米国での乗用車生産を、機を見て実現することだった。
 1984年1月早々のロサンゼルスでのクライスラー・アイアコッカ会長らとの社長としての初会談は、84年度の乗用車対米輸出自主規制での三菱自動車枠12万2千台をどう配分するか当面解決すべきテーマだった。この話が片付いた後、私は東京を出発する前から胸に秘めていた自工と販売とを統合したいとの思いを初めてぶつけてみた。「車の開発から生産、販売、管理は一つの傘の下でないと力が出ない。ク社もかねて工販の効率化を言ってきた。既にトヨタも工販が合併した」「ただ、三菱の場合、工販が合併するとク社の出資比率が15%から14.7%に下がるので、自販の国内販売権を自工に譲渡する形で統合するのではどうか」。私は懸命だった。ア会長からの反論もなく、しばらくして「了解した」との一言が出てきた。
こうして同年5月26日、統合契約に調印、同日記者会見した。そして、10月1日、念願の工販統合で新生三菱自動車工業がスタートした。

舘 豊夫(たて とよお、1920年1月3日 - 1998年4月9日)は日本実業家

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