糸川英夫 いとかわ ひでお

学術

掲載時肩書組織工学研究所長
掲載期間1974/11/10〜1974/12/06
出身地東京都
生年月日1912/07/10
掲載回数27 回
執筆時年齢62 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他東京高
入社中島飛行機
配偶者記載なし
主な仕事小学(電気砲、電磁砲)、マムシに咬まれ、医学、音楽、航空機設計、脳波心電機、音響、ロケット
恩師・恩人谷一郎、清水健太郎教授
人脈能村竜太郎、サトウハチロー、松平康隆
備考クリスチャン
論評

1912年7月20日 – 1999年2月21日)は東京生まれ。工学者。専門は航空工学、宇宙工学。中島飛行機に入社し、帝国陸軍の九七式戦闘機、一式戦闘機 隼、二式単座戦闘機 鍾馗などの設計に関わった。また、独力でジェットエンジンを研究・開発。ペンシルロケットに始まるロケット開発や宇宙開発を先導し、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる。氏はとにかくマルチタレントで万能選手の感じだった。

1.マムシに咬まれて進路変更
高校2年の夏休みだった。中学に行くようになり、夏は千葉房総の清澄山でへびを捕える喜びを覚えた。ある日一人で山歩きをしている間に、全長40cmぐらいのマムシを見つけた。棒切れ一本で捕まえ家に持ち帰った。昼食の間、麦わら帽子を被せて、この中に放しておいた。昼食が済んで、さてアルコール漬けにするつもりで、ガラス瓶にアルコールを満たし、麦藁帽子をとった途端、マムシは正確に、私の右手の人差し指を狙ってジャンプした。しまった!と思ったがもう遅かった。
 とっさに指の根元をキリキリにあり合わせの紐で縛ったうえ、今度は油断なく、マムシをアルコール漬けにした。マムシはアルコールの中でたちまち静かになり、やがて、一個の静物と化した。しかし私の右人差し指はみるみるうちに膨れ上がって、2倍くらいの太さになった。海の家へ戻ってからは、右手が丸たん棒のように太くなり、右手の5本の指は、3倍ぐらいに太くなって、異様な様相となった。高校2年3学期のノートはすべて左手書きである。右手はまだ三角巾で吊られていたから。それまで医学部外科志望だったのを、工科に切り替えたのはこの事件のためであった。右手がダメでは外科医になれないと思ったから。

2.初ロケットは絶体絶命のピンチだった
昭和33年(1958)6月30日、午後4時52分であった。天候不良が続き、実験期間が長引いたことから、漁業組合から強い圧力がかかっていた。既に1,2,3号機ロケットは失敗していた。最終意思決定まで6日間かけた。K-6の4号機の打ち上げ決断をした。祈る、という気持ちをこの日ほど切実に思ったことはない。
 午後4時、空一面を覆っていた厚雲が、左右に開いて、V字型の青空が見え、まるで「さあ来い、待っているぜ」と声をかけたような気がした。白い煙を後に引いて、K-6は一直線に、このV字型の晴れ間に吸い込まれて行き、気温、風、観測用の発音弾は、時限装置でセットされた時刻に次々にロケット頭部から、空間に射出され、スタンバイの地上観測陣が、地上にセットした特殊マイクのネットワークに、やがて、次々と宇宙からのメッセージが伝えられてきたのである。
 このとき、「ヤッタ!」と心の中で叫ばない人がいたら、精神的不具者であろう。

3.私の専門テーマ変遷と他人評
私の専門は昭和10年(1935)から20年まで飛行機、昭和20年(1945)から29年までの医学、音響学、30年(1955)からのロケット、と不思議に10年を節に専門が変わっている。外からの問題は友情である。ジャーナリストの神崎倫一氏が経済誌で私のことをこのように評してくれていた。
 「ロケット博士。100人中99人くらいが糸川さんについて抱いている観念である。つまり、それくらい国産ロケットの打ち上げ成功が鮮烈な印象を与えたことの証拠だろう。まるっきり間違いとは言えない。だが、それは糸川さんの志のワン・ノブ・ゼムに過ぎなかったのではあるまいか。ロケット打ち上げには想像以上の膨大な学際技術の集積が必要である。糸川さんは組織工学のシンボルとして、一番ややこしそうなロケットを採り上げてみたのである。成功は注ぎ込んだ金と労力の比率からみて、アポロ計画よりすごい。恐ろしく好奇心の強い人である。どんな畑違いの話でもドッテンと耳を傾け、次に口から出てくるときには、糸川哲学の体系の中に組み込まれているのにオドロク・・・」。

糸川 英夫
1961年撮影
生誕 1912年7月20日[1]
東京市麻布区
死没 (1999-02-21) 1999年2月21日(86歳没)
長野県丸子町
国籍 日本の旗 日本
研究分野 航空宇宙工学
研究機関 中島飛行機
東京帝国大学第二工学部
東京帝国大学航空研究所
東京大学生産技術研究所
東京大学宇宙航空研究所
出身校 東京帝国大学工学部
プロジェクト:人物伝
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糸川 英夫(いとかわ ひでお、1912年7月20日[1] - 1999年2月21日)は、日本工学者。専門は航空工学宇宙工学ペンシルロケットに始まるロケット開発や宇宙開発を先導し、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる。86歳、脳梗塞にて死去。

  1. ^ a b 『朝日現代用語 知恵蔵 1990』朝日新聞社、東京都中央区築地5-3-2、1990年1月1日。雑誌60031-01。 
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