立石義雄 たていし よしお

電機

掲載時肩書オムロン名誉会長
掲載期間2012/11/01〜2012/11/30
出身地大阪府
生年月日1939/11/01
掲載回数29 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
同志社大学
学歴その他
入社立石家業
配偶者NY万博コン パニオン
主な仕事御室(オムロン)、西式健康、能楽、NY, 無人省力化、社長への手紙(3000名に)、
恩師・恩人
人脈津川雅彦(小・同級)、冨山和彦、大前研一、水谷顕(山)
備考父:一真 創業者
論評

1939年(昭和14年)11月1日- 2020年(令和2年)4月21日)は、日本の実業家。オムロン創業者立石一真の三男で、同社代表取締役社長や、同社代表取締役会長、京都商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭等を歴任した。1987年、兄の立石孝雄の後任として、同社代表取締役社長に就任した。「会社は創業家のものではない」との考えから、1990年に創業者の苗字を冠した「立石電機」という社名を「オムロン」へと改称した。また、社内カンパニー制の導入に取り組んだほか、積極的な海外進出により、社長就任前から退任までの16年間で、海外での売り上げをおよそ4倍、国内外での合計売上を1.9倍へと大きく押し上げた。日本社会に与えた影響も小さくなく、駅の自動改札機や銀行の現金自動預け払い機 (ATM) の事業化・普及に貢献した。これらの業績から、同社の中興の祖と称された。2003年、作田久男に社長を譲る。

1.自動券販売機が手動券売機?
阪急電鉄北千里駅に自動改札機を納入して改善するための一部始終を私は営業の最前線で体験した。「できませんと言うな」。それが口癖の父の叱咤激励を受けた技術陣の奮闘には頭が下がるが、「できませんと言うな」の精神は営業部門にも貫徹していた。自動改札機や自動券売機のほか、自動感応式信号機を主体とする交通システム、銀行のCDなどの売り込みに懸命だった。
 自動改札機に難色を示していた国鉄から軟券印刷式自動販売機の注文を受けた。300台を大阪環状線の全駅に設置、1966年1月に稼働させるという。納期まであまり時間がない。工場に頼み込んだ。昼夜兼行の作業で何とか納入にこぎ着けたが、いくつかの駅では現地組み立てで徹夜の調整作業が続いた。遂に始発電車が動き出す時刻になった。微調整が終わらない。券売機に硬貨が投入されると、裏側で立石電機の社員が切符を受け、取口に出す。「あっ、手が見えた!」「手動券売機や!」。
 自動券売機の一斉導入は当日の夕刊で大きく報じられた。自動改札機の導入は関西で先行した。関東の電鉄会社は国鉄との乗り入れが多く慎重だったが、それでもジワジワと設置が進んだ。駅の改札風景も次第に変わった。

2.社長への手紙
1987年6月26日の株主総会後の取締役会で、社長就任が正式に決まった。33年に父が創業し、長兄の孝雄が引き継いだ経営のバトンを渡された。8年間にわたって社長を務めた孝雄が会長、副社長だった次兄の信雄が副会長、父の一真は相談役になった。
 約6000人いる立石電機本体の社員向けキャンペーンは「社長への手紙」という。私宛に手紙を書いてもらい、すべてに返事を出す。私の似顔絵を載せた用紙を作って私へのメッセ―ジを自由に書いて欲しいと呼び掛けた。チャレンジ精神を取り戻す契機にしたかったので、大企業病の症状から調べ始めた。
 3000通余りの手紙が来た。要望、提案、悩み、不満、希望、やりがい、組織間の壁・・・。真摯な内容がほとんどだった。並行して「ざ・KURUMAZA」と名付け、現場を巡回、その様々な課題を肌で感じた。1年間で500人ほどと対話した。社内チームで内容を分析して会社の刷新につなげる方策を検討した。私が下した結論は「課長を変えよう」だった。
 課長は組織のキーマンだが、大企業病の「病根」でもあると思った。指示待ちで果敢な行動力が総じて影を潜めている。課長が変わらねば会社も変わらない。そこで管理職昇格6年目の課長を対象として休ませることにした。しかも3か月。「長期リフレッシュ休暇」と名付けた。まずは仕事を離れて、ゆっくりと自分を見つめ直し、新たな視点、広い視野から仕事をとらえ直して心技体をリフレッシュして欲しいと考えた。
 私の方は休む間もなく返事を書いた。何しろ3000通である。1年半かかった。長期リフレッシュ休暇は1988年に始まった。当時としては大胆な試みで、マスコミの大きな話題になった。

追悼

氏は‘20年4月21日に新コロナ感染で80歳で亡くなった。この「履歴書」登場は’12年11月の73歳のときであった。親子が実業家でこの「私の履歴書」に登場したのは、五島慶太五島昇(東急グループ)と井植歳男井植敏(三洋電機)、立石一真・立石義雄の3組だけである。

1.父の助言
氏は「私の履歴書」の初日に、父親をつぎのように紹介している。
私は3男で、父の後に社長になった長兄・孝雄に次ぐ三代目。47歳のとき、父に「社長をやらんか」と言われ、父や長兄と違って技術系ではないのを気にする私を「市場の側から技術を見ろよ」と諭した。それが私の中で「顧客から学ぶ」に育った。
父は思索と実行の人で、真骨頂は確固たる理論と考察に裏打ちされた未来予測にあった。社会の変化の中で人が生き生きと創造的に暮らす道を考え、その過程で生じるニーズをいち早く創造して製品開発をしろと説き、実践した。
とある。氏は経済学部出身で、入社以来一貫して営業現場を飛び回ってきた。だから現場の顧客意見や市場ニーズはいち早くつかむことができた。それを父親は理解していたからこそ、「市場の側から技術を見ればいい。その代わり、技術者の気持ちを分かってやれ」と助言されたのだと思う。これらを忠実に守り実行したことで、世界企業に押し上げることができたのだろう。

2.級友・津川雅彦君
氏は御室(おむろ)小学校に通っていたが、同級生に俳優の津川雅彦がいた。彼は子役で映画によく出ていて、よく学校を休んだが、「色白の貴公子」と呼ばれ、クラスの人気者だった。彼は氏の家にも遊びに来たが、目当ては氏の隣に住む同級生のフランス人形のような美少女だった。体が弱くて学校を休みがちだから、給食のパンを届け出る役割を彼が「おれが届けたるわ」と申し出で譲らない。そして、わざわざ遠回りして、鳴滝までいそいそと足を運ぶのだから、少年のころから女性にはマメだった、と書いている。
しかし、氏も女性にマメだったに違いない。ニューヨークに赴任中、1962年ニューヨーク万博の日本館コンパニオンに選ばれた10人の一人をデート3度目でゲットしたのだから、その実力が推し量られる。この赴任中にジョン・F・ケネディの暗殺事件が起こったとある。氏の24歳の時だった。

立石 義雄(たていし よしお、1939年昭和14年)11月1日[1] - 2020年令和2年)4月21日[2])は、日本実業家オムロン創業者立石一真の三男で、同社代表取締役社長や、同社代表取締役会長京都商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭等を歴任した。

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  2. ^ 弊社名誉顧問 立石義雄 逝去のお知らせ | オムロン”. www.omron.co.jp. 2021年1月20日閲覧。
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