稲垣平太郎 いながき へいたろう

化学

掲載時肩書日本ゼオン相談役・日本貿易会会長
掲載期間1968/12/07〜1968/12/31
出身地岡山県岡崎
生年月日1888/07/04
掲載回数25 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他一高スト 新渡戸校長のとき
入社古河合名
配偶者同級生の姪
主な仕事駐在(米、伊、仏、独)、富士電機、時事新報、日本特殊鋼管、横浜護謨(ゴム)、商工大臣、日本ゼオン
恩師・恩人古河虎之助
人脈津島寿一・君島一郎・三村起一(一高同期)、松永安左衛門、和田恒輔、林屋亀次郎、伊藤正徳(慶應・時事)
備考富士電機(古河のフ、ジーメンスのジ)、胆石(世界2位:長さ10,円周11cm)
論評

1888年7月4日 – 1976年4月23日)は岡山県生まれ。実業家・政治家。参議院議員、商工大臣(第33代)、通商産業大臣(初代)を歴任した。第一高等学校 (旧制)中退を経て、1913年慶應義塾大学理財科を卒業。三井物産に内定していたが、古河財閥当主・古河虎之助から直接入社依頼の電話があり、古河合名に入社する。第一次世界大戦後ドイツに派遣され、ジーメンス社との折衝の上、1923年日独合弁の富士電機が設立され、専務に就任した。以後時事新報常務(1932年)、横浜ゴム専務(1942年)を経て、1945年横浜ゴム社長に就任する。日本貿易会会長、ニッポン放送会長、日本ゼオン会長、中央政策研究所理事長などを務めた。

1.反新渡戸派で弁舌(のち自主退学に)
明治38年(1905)、私は一高に入学した。私は勉強の方はほどほどにして、ボート部と剣道部の両方に入って、もっぱら体を鍛えた。弁論部の委員にもなったし、3年のときは全寮委員会の委員長に祭り上げられた。3年の一学期に入ろうとしたとき一高の校長が、狩野亨吉氏から新渡戸稲造氏に代わった。それまでの一高は弊衣破帽をもって鳴っていた。だが、新渡戸さんは、弊衣破帽は非文明きわまる悪習で、みっともないことだから直ちにやめようと言い、大いに欧化主義を唱えた。
 反対派の運動部と新渡戸校長擁護派との対立が頂点に達しようとしたとき、暴力でなく話し合いで解決しようとなった。新渡戸側からは鶴見祐輔、前田多門、魚住影雄の諸君が立った。いずれも弁論さわやか、そうそうたる顔ぶれである。ところが運動部の連中は、腕っぷしには自信がっても、ヨシおれが、という者はいない。それでとうとう「稲垣、お前やれ」と担ぎ出されて、私は3人を相手にひとり壇上に立たされた。
 それはそれでよかったのだが、3人を相手に討論したことで、私がアンチ新渡戸であることが、非常に鮮明になってしまった。しかも頭目であるというので、校長におべっかをつかう教授や生徒監に睨まれて、何かとその追及を受けるようになった。

2.ジーメンスと合弁会社(富士電機製造)を
大正7年(1918)11月、ドイツが降伏して第一次大戦は終わった。大正8年春から1年3か月の滞独中に私は3つほどの“戦果”を挙げた。その第一はジーメンスと古河との発電機製造についての合弁である。ジーメンスに目をつけたのは、ジーメンスが日本に初めて発電機を売ったのが古河だったという縁と、当時ドイツにいた山本英輔海軍大佐(後の海軍大臣で山本権兵衛元帥のおい)が、「戦争中、ドイツ潜水艦のモーターと探照灯は驚くべき機能を発揮した。あれを日本に持ってくる方法はないか。海軍が保証する形をとってもよい」という言質を私に与えていたからであった。
 ちょうどジーメンスには、古河に初めて発動機を納めたヘルマン・ケスラーという人がいたので、この人を通じて、日本にジーメンスと古河の合弁会社をつくる話を進めた。私の見込み通り、ジーメンスでは「今は海外に単独で進出できないから、日本に工場をつくって一緒にやるのは大変いいことだ」と、話はとんとん拍子で進み、大正8年には仮調印までいった。ところが両社とも問題が発生したので交渉は膠着状態になっていたが、大正12年、ついに日独合弁の「富士電機製造」が成立した。私は31歳だった。
 富士電機という社名の由来は、古河の「フ」と、ジーメンスの「ジ」を取って「フジ」とし、富士が日本の霊峰であるところから、「富士電機」と命名したものである。マークもFとSを組み合わせて作成された。

3.GHQと商工省との日米親善野球
昭和24年(1949)2月15日吉田内閣のとき、私は商工大臣に就任した。当時日本の貿易は、GHQの経済局が握っていて、その指示を受けて貿易庁が動くというロボットのような状態にあった。私は就任とともにこれを商工省に取り戻したいと思い、マーカット経済科学局長と何度も交渉した。この局長は、戦後日本に米国プロ野球サンフランシスコ・シールズ(3A)を日本に呼ぶのに一役買ったほどの野球好きだった。私がGHQと商工省との親善野球試合を局長に申し入れると、彼は「よし、やろう、ただし君も出ろよ、オレもでるから」と言う。野球のことになるとがぜん調子がいい。「僕はセカンドだ。君もセカンドをやらないか」「OK」。
 と言うわけで同年春、日比谷公園の運動場で親善野球が行われた。商工省チームは局長クラスで、その中に投手の武内征平(現トヨタ自動車顧問)、捕手の玉置敬三(現東芝副社長)、一塁手の武内竜次(現外務省顧問)などの諸君がいた。GHQの方もマーカット二塁手以下それ相応のメンバーである。
 私は試合中、フルベースで二塁に飛んできたフライを、グローブからこぼれた球を両手で胸に抱きしめて事なきを得た。結局11対8で勝ったが、私がそのとき落球しておれば負けていたかもしれない。このあと私はマーカット局長に「君の方は負けたのだからビールをおごれ」と、一同でごちそうになった。座がくつろいだとき、私は「これからはあまり堅いことを言わないでいきましょうや」と局長に言った。事実、それ以後、彼はあまりうるさいことを言わなくなった。

稲垣 平太郎
いながき へいたろう
生年月日 1888年7月4日
出生地 岡山県岡山市
没年月日 (1976-04-23) 1976年4月23日(87歳没)
出身校 慶應義塾大学理財科
前職 富士電機専務
時事新報常務
横浜ゴム会長
所属政党民主党→)
民主自由党→)
(無所属→)
自由民主党
称号 正三位
勲一等瑞宝章
勲二等旭日重光章
藍綬褒章

内閣 第3次吉田内閣
在任期間 1949年5月25日[1] - 1950年2月17日[2]

日本の旗 第32代 商工大臣
内閣 第3次吉田内閣
在任期間 1949年2月16日 - 1949年5月25日

選挙区 全国区
当選回数 1回
在任期間 1947年5月3日 - 1953年5月2日
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稲垣 平太郎(稻垣 平太郎[3]、いながき へいたろう、1888年7月4日 - 1976年4月23日)は、日本実業家政治家位階正三位

参議院議員商工大臣(第33代)、通商産業大臣(初代)を歴任した。

  1. ^ 『官報』第6711号337頁 昭和24年5月31日号
  2. ^ 『歴代内閣・首相事典 増補版』吉川弘文館、2022年、pp.506-507
  3. ^ 『官報』第11369号6頁 昭和39年11月4日号
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