福田一 ふくだ はじめ

政治

掲載時肩書衆議院議長
掲載期間1983/01/01〜1983/01/31
出身地福井県
生年月日1902/04/01
掲載回数30 回
執筆時年齢81 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社新聞聯合社
配偶者記者同僚妹
主な仕事官庁記者、同盟通信社、政治部長、南京支部長、寺内寿一元帥、世界時報、3回落選、建設業、今川焼、通産大臣(官僚の夏)、衆院議長
恩師・恩人岩永省一、藤原長司
人脈石田和外、志賀義雄、細川隆元、迫水久常、鳩山一郎、大野伴睦、池田勇人、佐々木良作、椎名悦三郎
備考囲碁の交友多し
論評

1902年4月1日 – 1997年9月2日)は福井県生まれ。政治家。自民党衆議院議員、第62代衆議院議長。自民党では大野伴睦→船田中派に属した後に、無派閥。法務大臣在任中にダッカ日航機ハイジャック事件が発生、神谷尚男検事総長らと共に犯人釈放に断固反対したが、福田赳夫首相の超法規的措置方針に逆らえず、犯人側の要求に屈する形で勾留中の日本赤軍メンバーを釈放、周囲の慰留を振り切って大臣を引責辞任した。ひめゆりの塔事件時の自治大臣兼国家公安委員会委員長を務める。

1.記者シンガポール時代
昭和17年(1942)2月15日の日本軍シンガポール占領の翌日に開設した同盟通信社の支局は、7月に南方総局に格上げされ、私が局次長になった。総局長は東京にいた編集局長、松本重治さんが兼任なので、実質的には私がフィリピンから仏印に至る南方各地の支局を統括することになった。南方支局が開設されたころ、支局の数は、マニラ、スラバヤ、サイゴン、ハノイ、バンコク、ラングーンなど12だったが、この後、逐次ふえ、後には9支社、23支局、支局に働く日本人記者の数は400人近くになった。
 当時の飛行機は今のように快適な設備は何もない。イスさえなく、ジュラルミンの床にゴザを敷き、機内の壁に張ってある網につかまって座っているのである。とにかく、いつ落ちて死ぬかわからない。あまり気持ちの良いものではなかった。特に南洋特有のスコールの時には、海面に出て200mぐらいの低空をはって飛んで行く。機長からは「もし山などの障害物があっても、見えてから2秒後には死ぬのだから、覚悟してください」などと脅かされていた。

2.南方捕虜地で週刊誌を出す
昭和20年8月の終戦後、シンガポールを英国軍が占領したのは1か月経った9月15日であった。マウントバッテン将軍と共に進駐してきた部隊の中には、戦前、神戸で神戸クロニクルという英字紙の主筆をしていたケナード氏もやってきた。そこでケナード氏と交渉して、「あなた方も占領政治をやる上で必要でしょうし、各地にいる日本人も事態の推移が分からなくては不安なので、これまでシンガポールなどで発行していた新聞を継続させてほしい」と頼んだところ、了解してくれ「世界時報」という週刊誌を出すことになった。
 終戦時、南方には軍人、軍属、民間人と合わせて70万人ほどいたが、明日の身も知れぬ時期とあって、この「世界時報」は、ロイター電の翻訳が主だったとはいえ、世界や日本の戦後の動きが分かると喜ばれた。

3.慣例事務次官推薦を拒否(通産大臣時代)
昭和37年(1962)7月18日の池田内閣の第二次改造で、私は通産大臣として初入閣した。この時、海外から日本の輸入自由化を求められ、それまでの輸入自由化率を70%から一気に88%まで高めたが、米国以外は強い不満が残った。そこで特定産業振興臨時措置案(特振法)を立案して、国会に諮ったが野党の強い反対でダメだった。しかし、この法案が廃案となった直後から、日産プリンス、旧王子系3社、富士・八幡、日商・岩井産業、日レ・二チボーなど各業種にわたって大型合併がでたので、この法案の成果だ。
 この特例法案を成立させようと苦労している最中に、松尾金蔵次官が辞意を表明した。後任は企業局長の佐橋滋君というのが省内のコンセンサスであった。官界では次官の人事はまずその省内で“次は誰それ”と言わず語らずのうちに決まり、大臣はそれを発令するだけという不文律となっていた。けれどもこれはおかしい。民主主義政治の下、国民の多数の支持を得た政党内の閣僚である大臣が、女房役である次官を決めることができないということはない。そこで私は特許庁長官の今井善衛君を昇格させ、佐橋君は特許庁長官として暫く勉強してもらうことを記者会見で話した。この人事は後の通産行政には大きな影響を与えた。これまでの次官は佐橋君ら国内産業保護主義の「国内派」であったのに対し、今井君以後は貿易振興を中心とした国際通商中心主義の「国際派」がほとんど次官となり、貿易開放体制をより進める結果となったのである。

福田 一
ふくだ はじめ
生年月日 1902年4月1日
出生地 日本の旗 福井県大野市
没年月日 (1997-09-02) 1997年9月2日(95歳没)
死没地 日本の旗 東京都板橋区
出身校 東京帝国大学(現・東京大学
前職 同盟通信社記者
所属政党民主自由党→)
自由党→)
自由民主党大野派船田派→無派閥)→)
無所属
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
衆議院永年在職議員
法学士
カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ

日本の旗 第62代 衆議院議長
在任期間 1980年7月17日 - 1983年11月28日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第35代 法務大臣
内閣 福田赳夫内閣
在任期間 1976年12月24日 - 1977年10月5日

内閣 第2次田中角栄第2次改造内閣
三木内閣
在任期間 1974年11月11日 - 1976年9月15日

日本の旗 第19代 自治大臣
第33代 北海道開発庁長官
内閣 第1次田中角栄内閣
在任期間 1972年7月7日 - 1972年12月22日

日本の旗 第21・22代 通商産業大臣
内閣 第2次池田第2次改造内閣
第2次池田第3次改造内閣
第3次池田内閣
在任期間 1962年7月18日 - 1964年7月18日

その他の職歴
日本の旗 衆議院議員
福井県全県区
当選回数 14回
1949年1月23日 - 1955年1月24日
1958年5月22日 - 1990年1月24日
第18代 自由民主党国会対策委員長
(総裁: 田中角栄
1973年 - 1974年
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福田 一(ふくだ はじめ、1902年4月1日 - 1997年9月2日)は、日本政治家自民党衆議院議員、第62代衆議院議長(在任期間・1980年7月17日-1983年11月28日)。自民党では大野伴睦船田中派に属した後に、無派閥となる。

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