石原廣一郎 いしはら ひろいちろう

化学

掲載時肩書石原産業会長
掲載期間1964/08/05〜1964/08/28
出身地京都府桂
生年月日1890/01/26
掲載回数24 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
立命館大学
学歴その他
入社合資会社 南洋鉱業
配偶者幼馴染・相思相愛
主な仕事マレー半島ゴム園、鉄鉱石、石原産業->石原産業海運、神武会・明倫会、2.26事件連座、四日市商業団地、立命館理事長
恩師・恩人中川小十郎(立命館総長、元台湾銀行頭取)
人脈松方幸次郎、津島寿一、徳川義親、斎藤劉、末川博、(巣鴨一緒:大川周明、近衛文麿、東条英機、岸信介、板垣征四郎)
備考天満宮司の分家
論評

1890年(明治23年)1月26日 – 1970年(昭和45年)4月16日)は京都生まれの実業家で石原産業の創業者。1916年にマレー半島に渡航し鉄鉱山の発見・開発に成功。東南アジア各地や日本国内での鉱山開発や、海運業へ事業を拡大した。1931年の満州事変勃発後、南進論提唱の好機が到来したとして日本に帰国し政治活動を展開、国家主義的団体神武会・明倫会を創立して世論を喚起し、二・二六事件では叛乱軍に資金を提供して逮捕された。戦後、A級戦犯容疑で巣鴨に拘禁されたが、不起訴となり釈放。

1.マレー半島で鉄鉱石発見
大正5年(1916)2月11日、妻と3歳の長女、二人の青年を入れ、シンガポールに向け神戸港から出発した。当時私は27歳だった。経営するゴム園では、その木からゴムを収液するのに3年かかるので、その間鉄鉱石の調査にとりかかった。人跡未踏の山中に野宿したり、水牛の群れに追われて命からがら逃げたり、虎や象のなまなましい足跡を見るのは毎日のことだった。
 大正8年の夏、バトパハ川の支流を遡り、ワニの甲羅干しや野猿が頭上で数百匹いるところを過ぎた、一面の灌木地帯で一休みした。今度も失敗だろうなぁと思いながら腰を下ろした時、脚下に黒い岩がある。黒光りして、オヤ、変だぞ。見渡せば、あたり2,3百坪はみな黒光りの岩だ。「鉄鉱石だ」と歓声をあげた。
当時の世界主要製鉄国の鉄鉱石年間使用量は米国2千5百万トン、仏国1千5百万トン、英国、ドイツが各1千万トン見当であった。これに対しわが国の製鉄事業は官営の八幡製鉄所が主力で、原料鉱石といえば内地2千トン、朝鮮20万トン、中国40万トン、その他合わせて年間60~70万トンの貧弱さだった。このような背景のもとで、私はマレーの鉱山を開発し、優良かつ低廉な鉄鉱石を内地に送り込もうとしたのだ。

2.二・二六事件の関与
私は昭和11年2月の衆議院総選挙に京都府二区から立候補した。この選挙には歌人の武将として知られた陸軍少将斉藤劉さんが終始応援してくれた。そのころ斎藤さんは栗原安秀中尉とその仲間の青年将校がよく出入りしていた。2月20日、斎藤少将から電話があり、「栗原たちが急に金が要るから、よろしく頼む。何としても今日明日中に欲しい」と要請された。そこで私は「それでは東京の書生に言っておくから、第一銀行の小切手で5千円受け取ってくれ」と言って電話を切った。私は翌21日の選挙結果で頭が一杯だったので、その電話のことは気にも留めていなかったが、その金が二・二六事件に関係していたのだった。
 26日の夜明け、たしか6時ごろだったと思うが、斎藤少将から「今朝5時、歩兵3連隊を出動させて要所を襲撃、いま首相官邸を占拠した。直ぐ、上京されたい」という、文字通り「寝耳に水」の電話があった。
 かくて斎藤少将は4月に東京代々木の衛戍(えいじゅ)刑務所に収容され、私は6月4日、憲兵隊の手で憲兵隊本部に留置された。憲兵隊の取り調べで、私が栗原中尉に渡した5千円は、決起当日出動したトラックの代金に使われ、一部は西園寺邸襲撃費として浜松連隊に、残金は山王ホテル、「幸楽」の支払いにそれぞれ充てられていたことがわかった。
 2週間ほどして、私は代々木衛戍刑務所に移された。その4日目の夜、獄舎内は夜通し何となくざわめいていて、容易に寝付かれなかった。すると翌朝、5名ずつが、3回にわたって連れ出された。銃殺刑が執行されるのだ。彼らが獄舎を出るとき、大声で「一足先に、冥土で待っているぞ」と元気に叫んで行った。その日一日は陰鬱そのものであった。 
 私は12月初めに起訴され、同月26日から特設軍法会議に付された。軍法会議は3人の将官と一人の大佐で構成された。鈴木検察官(法務大佐)は起訴理由について、①決起資金提供による反乱ほう助罪、②反乱者の自刃を勧め、反乱の目的達成を図ったことによる反乱予備罪、の2点をあげ禁固12年を求刑した。

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