矢嶋英敏 やじま ひでとし

精密

掲載時肩書島津製作所会長
掲載期間2004/07/01〜2004/07/31
出身地群馬県
生年月日1935/01/25
掲載回数30 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他
入社防衛庁
配偶者共立女子大
主な仕事YS-21、アフリカ担当、5機販売、島津、航空機事業>全部門、リストラ断行、田中耕一ノーベル賞
恩師・恩人藤原菊男
人脈藤田元司、佐々木信也(慶応同期)、堀越二郎、東条輝雄(英機次男)、遊佐上治、安居祥策
備考計画5%、実行95%
論評

1935年(昭和10年)1月25日 – 2021年 (令和3年) 7月7日 )は、日本の防衛庁官僚、実業家。防衛庁に入省し、輸入課契約係から創立直後の日本航空機製造株式会社へ移り、第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である「YS-11」の販売に当たる。西アフリカ地域を担当。更に、42歳で島津製作所にスカウトされて航空機部品の売り込みに奔走。当社の社員でノーベル化学賞を受章した田中耕一のノーベル賞受賞決定の第一報を、アメリカ出張中に聞く。会社創設以来、27年ぶりに京都大学出身者以外の経歴で社長に登り詰め、赤字だった会社を奇跡のV字回復を達成させた。株式会社島津製作所元代表取締役社長、代表取締役会長、相談役。社団法人京都工業会会長、社団法人日本分析機器工業会会長、財団法人関西文化学術研究都市推進機構理事長。

1.日本航空機製造会社
この会社は、昭和34年(1959)にできた会社で、私が防衛庁を辞めて入社したのは半年後の12月だった。日本初の国産旅客機「YS-11」を製造、販売する会社だった。飛行機による大量輸送時代は間違いなくやってくる。果てしない将来性を感じた。青空を悠然と飛び、雲を切り裂いて旋回、降下、上昇する飛行機が大好きだった。そのメカニズムにも興味を抱いていたから。
 配属されたのは企画部。私は24歳の生意気盛りである。そこには設計部長の要職にあった東条英機元首相の次男、東条輝雄さんがいた。眼光鋭く、頭が切れ、あだ名が「カミソリ東条」。論理的な人で、私は思考力を鍛えられた。情もあった。私の生涯の恩人の一人である。
この会社には優れた「飛行機野郎」が集まっていた。「零戦」の堀越二郎、「隼」の太田稔、「紫電改」の菊原静男・・・。戦争中、戦闘機の名機をつくって名を馳せた人たちが勢ぞろいした。まさにオールスターキャストだった。太田さんは富士重工から出向して取締役企画部長になった。零銭の設計者として世界的に有名な堀越さんと菊原さんは強力な社外サポーター。この3人に、「飛燕」を設計した土井武夫さん、試作機「航研機」開発の中心だった東大航空研究所の木村秀政先生の二人の協力者を加え、世間では「5人のサムライ」と呼んだ。

2.島津製作所からスカウト
昭和47年(1972)、会社の業績悪化の影響を受けて、YS-11の製造中止が決まった。製造は中止されたが、日本航空機製造は存続した。内外に売った182機のアフターケア、社員の転織斡旋、資産の処分といった残務整理が山積していた。「将来の見えない飛行機を追っていても仕方ないな」と捨て鉢な気持ちになっていたころ、島津製作所の事業部長で後に七代目の社長になる西八条實さんが、「我が社に来てくれませんか。ボーイングに直接、部品を輸出したいが、経験者がいない。部長として腕を振るって欲しい」と誘われた。「部長」に魅かれたわけではない。「直接」が決め手だった。ターゲットは767である。空気調和装置や油圧のモジュールなどを直談判でボーイングに売り込むのだ。そのことに奮い立った。新天地へ出陣。屈託も迷いも吹っ切れていた。52年〈1977〉6月のことだった。

3.社長に就任して
1977年に入社して20年余りがたち、外様意識は払しょくされていた。だが、私はキカン坊で猪突猛進型。「お公家さん一家に紛れ込んだ野武士」と言われたこともある。専務になって「実行できない計画は計画ではありません」と大きなことを言ったばかりに、97年に策定した「2001年ビジョン」の推進責任者になった。
 すると98年6月に藤原菊雄社長から後任社長に指名された。しかし力足らずもあり、02年3月期決算の赤字額は103億円。私は3か年計画の初年度が終わる03年3月期に40億円以上の黒字を計上する「V字回復」の実現を内外に宣言した。改革は緩やかでは失敗する。
 幹部のみならず、全社員への「改革マインド」の浸透が絶対に不可欠だ。全社員向け「Vターンへの指針」という15分間のビデオをつくって全職場に流してもらった。私は改革が今なぜ必要なのか、何を考え、何をなすべきなのかを全社員に一生懸命に自分の言葉で語りかけた。その中で私は「計画は5%、実行は95%」と強調した。
 創業以来初めて、経常赤字を発表して5か月後の2002年10月、田中耕一君がノーベル賞を受賞した。業績のVターンを公約、全社一丸で必死に取り組むさ中の朗報に社内は沸き立った。効果は絶大だった。厳しい再建計画に取り組む社員たちの士気は大いに上がった。「京都の島津から世界の島津へ」が長年の悲願だったが、知名度は一気に世界的になった。

追悼

氏は‘21年7月7日に86歳で亡くなった。「私の履歴書」に登場は’04年7月の69歳のときでした。

1.国産旅客機YS-11を5機売り込み成功
氏は交渉能力が優れていた。日本航空機製造に勤めた際は、ロールス・ロイスの双発ターボプロップエンジンの輸入価格交渉で上司部長を差し置いて、相手も説き伏せ成功させた。また、国産旅客機YS-11の売り込みも、「5機売るまで帰って来るな」と言われ、アフリカ担当を命ぜられる。社内では誰も成功するとは思われていなかったが、象牙海岸(コートジボワール)、コンゴ、ガボンを回り、ついにガボンの大統領専用機として1機売ることで達成した。飛行機のメカにも強く交渉力もある島津製作所が氏をスカウトする。

2.「お公家さん一家に紛れ込んだ野武士」の尊称
YS-11の「飛行機売り」が島津に転じて「航空機部品売り」になったが、私はきかん坊で猪突猛進。「お公家さん一家に紛れ込んだ野武士」と陰口を叩かれたが、実績を上げ社長に上りつめた。「そんな私を受け入れ、思う存分仕事をさせてくれた島津は、懐が深い会社であり感謝一杯」と書いていた。

やじま ひでとし
矢嶋 英敏
生誕 (1935-01-25) 1935年1月25日
日本の旗 日本 群馬県前橋市
死没 (2021-07-07) 2021年7月7日(86歳没)
出身校 慶應義塾大学文学部独文科
職業 官僚・実業家
受賞 藍綬褒章
旭日重光章
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矢嶋 英敏(やじま ひでとし、1935年昭和10年)1月25日 - 2021年 (令和3年) 7月7日 [1])は、日本の防衛庁官僚実業家株式会社島津製作所代表取締役社長、代表取締役会長、相談役。社団法人京都工業会会長、社団法人日本分析機器工業会会長、財団法人関西文化学術研究都市推進機構理事長、慶應義塾評議員を歴任。勲章は旭日重光章、褒章は藍綬褒章

  1. ^ 矢嶋英敏氏が死去 元島津製作所社長”. 日本経済新聞 (2021年7月12日). 2021年7月12日閲覧。
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