矢口洪一 やぐち こういち

行政・司法

掲載時肩書元最高裁長官
掲載期間1992/02/01〜1992/02/29
出身地京都府
生年月日1920/02/20
掲載回数28 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他三高
入社佐世保鎮守
配偶者友人妹
主な仕事大阪地裁、最高裁事務局(司法行政)、報酬制度改善、和解尊重、留学制度、メモ解禁、陪審制、
恩師・恩人仁科恒彦(師)
人脈高木文雄、安原美穂、江田五月(指導)、我妻榮、落合京太郎(鈴木忠一)、角田礼次郎、高島益郎、曽野綾子
備考父・弁護士
論評

1920年(大正9年)2月20日 – 2006年(平成18年)7月25日)は京都生まれ。裁判官。裁判官生活の3分の2を法服ではなく背広姿で過ごした人は、矢口以外にはなく、事務総長をはじめ、総務・人事・行政・民事・経理と7局のうち、5局までを経験した。普通は、この中の1局でも担当すれば、最高裁行政の専門家として重きをなすのだが、矢口の場合は想像を超える最高裁の表裏のすべてに通じていた。そのため、「ミスター司法行政」の異名を取った。熊本水俣病(チッソ)、新潟水俣病(昭和電工)、イタイイタイ病(三井金属鉱業)、四日市ぜんそく(昭和四日市石油・三菱化成・三菱樹脂・三菱モンサント(前記3社は現:三菱ケミカル)・中部電力・石原産業)の四大公害訴訟のときは、民事局長として、被害者の立証の難しさを緩和する理論を提唱し、早期解決に尽力した。第11代最高裁判所長官を務めた。

1.司法行政の仕事と判事補
判事補任官2年目にして、私は最高裁人事局付となり、東京へ転勤した。長官退官までの大半を最高裁で過ごし、司法行政に関わるのだから、運命的といっていい人事である。
 仕事は書記官、家裁調査官、事務官、廷吏など、全国の裁判所で働く人々の職階制、つまり職務内容の策定とこれに応じた給与の格付けであった。裁判官については、独自の報酬制度の検討である。
 判事補として普通、任官した裁判官はほぼ3年毎に各地を転勤する。東京、大阪などの大都市裁判所、地方都市の裁判所本庁、地・家裁支部の大中小3つの規模の裁判所をほぼ均等に回る。任官後10年で判事に任命されると、やがて転勤は4,5年間隔となり、合議制の裁判長、支部長や地・家裁の所長となる。

2.江田五月君
昭和40年(1965)、東京地裁で司法修習生の指導官を務めたが、そこで出会ったのが社民連代表の江田五月君である。江田君たち20期の司法修習生とは模擬裁判、部の合議への参加、見学を兼ねた熱海への一泊旅行などで4か月ほどつき合った。彼は修習生としては抜群で、やんちゃな人懐っこい人柄に好感が持てた。遊びごとにも自信を持っていて、熱海ではマージャン卓を囲んだ。彼は理屈好きだが、理に走るタイプではなく、人間としての幅は裁判官として好ましい資質に見えた。

3.裁判官の資質
振り返って、裁判官の資質というものを考えてみることがある。合議の裁判の場合、裁判長が左右の陪席裁判官に期待するのは法律的な知識だけでなく、広がりのある柔らかい思考である。合議は密室で行われるが、事件の争点についてまず若手の左陪席が意見を述べ、右陪席、裁判長の順で発言、主任の左陪席が判決文を書くといった形が普通であろう。裁判長は合議の進行を主宰するが、できるだけ陪席に意見を述べさせるように配慮しなくてはならない。議論を尽くしたうえで、意見がまとまらなければ最後は多数決と言うことになる。

4.マスコミ研修など部外研修の拡大
裁判所には法学界以外の社会から何かを学びとろうとする発想はなかった。裁判所外の仕事で見習うとすれば、と思い至ったのが、新聞社での研修だった。初年度は任官10年目クラスの判事補を中心に8人が、マスコミ4社で3~4週間、取材や内勤、製作工程に至るまで実地に研修した。参加者からは「時間に拘束されながら正確さを追求する取材の現場を見て刺激を受けた」といった声が多かった。
この後、この部外研修制度は民間企業(短期、長期)、行政官庁(2年間)、在外公館(同)などにも拡大され、すっかり定着した。これと合わせて充実させたものに、裁判官の海外留学制度がある。1972年から判事補の英、米、独、仏特別留学制度が発足し、現在では年間10数人の枠に拡大された。短期間の視察者を含めれば、年間50人を上回る者が海外に出向くことになる。

矢口 洪一
やぐち こういち
生年月日 (1920-02-20) 1920年2月20日
出生地 日本の旗 京都府京都市
没年月日 (2006-07-25) 2006年7月25日(86歳没)
配偶者 矢口 一子
出身校 京都帝国大学法学部

任期 1985年11月5日 - 1990年2月19日
任命者 昭和天皇
第2次中曽根内閣が指名)
前任者 寺田治郎
後任者 草場良八

任期 1984年2月20日 - 1985年11月5日
任命者 第2次中曽根内閣
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矢口 洪一(やぐち こういち、1920年大正9年〉2月20日 - 2006年平成18年〉7月25日)は、日本の裁判官。第11代最高裁判所長官を務めた。父の矢口家治も裁判官。

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