田口利八 たぐち りはち

交通(陸海・海運)

掲載時肩書西濃運輸社長
掲載期間1973/06/20〜1973/07/17
出身地長野県読書村
生年月日1907/02/25
掲載回数28 回
執筆時年齢66 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社田口自動車
配偶者村娘見合い
主な仕事西濃トラック運輸、大垣トラック合同、水都産業、西濃運輸、高等技能学校
恩師・恩人長尾芳郎(名鉄社長)
人脈中沢孝吉、大野伴睦(後援会長:息子結婚の媒酌人)、吉川智慧丸、江口夜詩
備考母親思い(人情家)
論評

1907年2月25日 – 1982年7月28日)は長野県生まれ。実業家、西濃運輸(セイノーホールディングス)創業者。1948年に西濃トラック運輸、次いで1955年に西濃運輸(後のセイノーホールディングス)と社名を改称した。1947年には、トラックによる長距離輸送計画を立て、当時の運輸省に免許を申請し、交渉を重ねて最終的に長距離トラック輸送を実現する。これは長距離輸送では鉄道を用いるという、当時の常識を覆すものであった。同社は車両6千台を超える規模に成長し、田口は「トラック王」と称されるまでになった。

1.「田口自動車」開業
昭和5年、私は23歳で結婚するとすぐに「田口自動車」を開業した。女房が電話番、トラック置き場は隣の空き地、私が経営者兼運転手兼修理屋兼小使いである。私は運送注文のありそうなところを回り、個々に契約をとってきた。そのころの大型の荷を運送できる業者は少なかったのでトラックは人気があった。
 当時はトラック運輸の一日の収入は10円というのが普通とされていた。私は早朝から夜遅くまで働いたので一日平均15円ぐらい稼げた。月にすれば300円は堅く、うち燃料費として三分の一を引いても大きな実入りだ。雇われ運転手の月給で60円程度の時代だから、やはり自主経営に乗り出したのは成功だった。

2.規格外体格で軍隊から放免される
30歳を過ぎたころから急に肉がつき始めた。背も当時としては図抜けて高かったから体重は26貫(97.5k)。入隊して「面目ない」思いをしたのはこの太りすぎのためだった。昭和12年(1937)の金沢の時は軍隊に合う服がないからと即日帰郷になった。そのいきさつは、被服係に連れて行かれ、いろいろ服を着せられたが、軍服の大規格にも合わなかった。すると「医務室へ行け」と言われた。軍医は私に腹を出させ、右腹を思い切り力を入れて押さえた。「痛いだろう」という。勿論痛いから、「痛いです」と答えると「虫様突起炎だからすぐ帰って治療せよ」との”診断“であった。ついでに旅費まで付けて丁重に”放免“された。

3.14業者による西濃運輸株式会社が発足
昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争に突入すると、翌年初めには「交通の実情に基づき道府県を数地区に分け、一地区一業者を原則として統合を行う」という鉄道大臣訓示が出た。
 この統合政策で最終的には全国の業者が統合前の約十分の一、340の業者に集約されたのである。 岐阜県下でも当時53あった業者を「7つに分けて統合せよ」との命令である。その先頭を切って17年3月15日、大垣を中心とする一市五郡の14業者が寄り集まって「西濃運輸株式会社(資本金90万2550円、トラック93台)をつくった。

4.長距離トラック輸送に進出
私は以前から長距離輸送に着眼していた。それまでのトラック輸送は一県内が建前で、県境にある業者でも2県にまたがる程度であった。昭和22年(1947)秋、私は思い切ってこの長距離輸送構想を行政当局に持ち込んだ。岐阜県当局ではラチがあかず、運輸省への直談判となった。夢物語のような申請内容だけに、「丁重」に断られ続けたが、正念場だと思って通い続け、係長、課長、部長、局長と厚い壁を一つずつ突破しながら、上京して20日目、「まあ検討するから正式申請を出すように」と、遂に内諾を得たのである。
 このあと公聴会などが開かれ、長距離トラック輸送にも免許を与える制度が確立、西濃運輸は23年11月29日、大垣―名古屋58キロ路線免許を皮切りに、第二次大垣―大阪間、第三次名古屋―東京間と次々に営業範囲を拡げていったのである。これは長距離輸送では鉄道を用いるという、当時の常識を覆すものであった。

田口 利八(たぐち りはち、1907年2月25日 - 1982年7月28日)は、日本の実業家、西濃運輸セイノーホールディングス)創業者[1]勲二等旭日重光章受章者。

  1. ^ 20世紀日本人名事典『田口 利八』 - コトバンク
[ 前のページに戻る ]