生田正治 いくた まさはる

交通(陸海・海運)

掲載時肩書商船三井最高顧問
掲載期間2011/01/01〜2011/01/31
出身地兵庫県
生年月日1935/01/19
掲載回数30 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他芦屋高校
入社三井船舶
配偶者職場結婚
主な仕事商船三井、英国、社長秘書、船舶世界同盟(コンテナ)、LNGタンカー強化、ナビックス合併、初代郵政公社総裁
恩師・恩人永井典彦、轉法輪奏
人脈梁瀬次郎、堀憲明、社外取(福井俊彦・椎名武雄)、小林陽太郎、小泉純一郎、竹中平蔵、加藤寛
備考父:三井船舶
論評

1935年1月19日 – )は兵庫県生まれ。実業家。株式会社商船三井社長・会長、日本郵政公社初代総裁(2003年 – 2007年)を歴任。郵政公社の総裁就任後の経営にあたっては、赤字累積していた郵便部門を黒字化するなど、堅実かつ確実な実績を上げており、郵政事業の「中興の祖」との評価がある。コーポレートガバナンスについて一家言持っている経営者として知られる。また、規制緩和などによる市場原理主義について肯定的論者とされる。

1.商船三井の誕生
1961年当時、日本の海運は輸出の拡大に伴って多忙を極めながら収益性は低く、いわゆる利益なき繁忙で、財務的には破綻への道をたどっていた。鉄鋼を含め重工業の戦争被災率が30~40%であったのに対し、護衛艦が付かなかった商船は約90%が撃沈され、残った船もほとんどが戦時下の急造船。まともな船は殆どゼロに近かった。海運・水産合わせた船員全体の約43%、93万人が戦死した。ちなみに陸軍の戦死率は20%、海軍は16%だ。それに追い打ちをかけ、GHQ指示で船舶の戦時補償が打ち切られた。
 そこで日本海運の再建に関する2つの法律が制定され、64年末までに運航トン数が100万トン重量トン以上になる海運企業を対象に利子補給、利子の支払い猶予など様々な支援がされることになる。当時は大手12社すべてが100万トン重量以下だった。その要件を満たすため、三井、住友というグループを超えて早期に合併する決断をした。
 1964年4月1日、新会社「大阪商船三井船舶」はスタートした。合併後の欧州課は加藤寿三郎課長と私だけが三井側で、残り7,8人は大阪商船出身だった。

2.海運のグローバルアライアンス(コンテナ船)
1993年4月肝臓がんが発見され、5月連休前に手術を受け、6月初旬から会社に復帰した。定航部門の最高責任者である私の最大の課題はニューヨーク航路休止という痛みをバネとして、コンテナ航路を再構築することだった。幸にも欧州の大陸側最大手、オランダのネドロイド社のベルデン会長が訪ねて来て「欧州航路で組みたい」と言われた。それなら、当時世界最強のコンテナ船会社、米APLのジョージ・ハヤシ社長にニューヨーク航路の共同開発を提案した。するとハヤシ社長が「やるなら東岸だけでなく、西岸も一緒にどうか」と提案してきた。
 その瞬間、私の心の中に、この際、米国だ、欧州だ、アジアだと言わずに、思い切って太平洋、大西洋、インド洋なども含めた本当のグローバルなアライアンス(提携)を組んではどうか、とひらめいた。そこで香港の董建華会長(後の初代香港特別行政区行政長官)に会いこの構想を話すと、氏が率いる南東アジアの名門、香港のOOCLも参加することになった。いろいろ最終的な詰めをして翌年5月10日記者発表した。
 イメージとしては4社おのおの30隻のコンテナ船を各航路で重複しながら運航していたものを、今後は合計120隻をもって世界中の全主要航路で最も合理的に運航する。それに伴い、寄港地を大幅に整理統合して航海に要する日数も劇的に合理化できる。また飛躍的なサービスの質の改善とスケールメリットによるコスト削減が一挙に実現する。世界の海運界で大きなニュースとなり市場からも歓迎された。でもわずか1,2年で世界中の主要船社がこの方式を踏襲し、いまは空の世界にも広がっている。

3.郵政公社改革は民間の知恵を生かす
私は郵政民営化の賛成論者だった。「郵便貯金、簡易保険、郵便の郵政3事業、住宅金融公庫などの政府系金融機関は民営化すべきだ」と主張していたので、小泉純一郎首相から郵政公社総裁の就任要請に最後まで断り切れなかった。そして私は2003年4月1日に日本郵政公社の初代総裁に就任した。
 私は常勤28万、非常勤12万、合計40万人に上る「官」の組織を預かるため、副総裁には二人のうち一人は官から郵政事業庁長官の團宏明さんに、民からは元トヨタ自動車常務の高橋俊裕さんにお願いした。そして設立式典で、より良いサービスの提供・健全経営・働く人たちに働き甲斐と将来展望を与えることを目指すと発表した。
民間の知恵を生かす具体的な取り組みとして、購買に関しては、一定金額以上はすべて一般競争入札を義務付け、調査委員会が厳しく審査することにした。その結果、購買費は公社化前の年間約8300億円から約5800億円と、約30%ほど合理化できた。同時に情報開示、経営の透明化に努めた。公社2年目からは公社法にはない執行役員制を導入し、月1回の理事会はガバナンス、毎週の執行役員会は具体的な経営会議と位置付けた。官庁特有のキャリアとノンキャリアの壁を撤廃し成果主義をとった。
 郵便は約5800億円累積債務からのスタートだった。この問題に立ち向かったのが高橋副総裁の下、全サービス商品の総点検と改善が始まった。トヨタから7人の指導員を長期に派遣してもらい、各郵便集配局が自己流でやっていた集配作業を標準化するなど、抜本的な効率化にも取り組んだ。
 集配作業の拠点局は約4800あったが、これは徒歩と自転車で集配した戦後間もない時代の配置が継承されてきたものだ。それが高速道路があり、バイクと自動車が当然の現状に合わせて再編し、約1050の集配局とそれを支援する約2600の配達センターに集約することにした。これにより、ようやく郵便は初年度から黒字に転じ、その後4年間は黒字基調となった。

追悼

氏は2023年11月13日、88歳で亡くなった。この「履歴書」登場は2011年1月、76歳の時でした。氏は「履歴書」にマイナス面も記述している。

1.社長を怒らす
1974年に欧州課長を拝命。各航路のコンテナ化を進めたが、運賃とコストをプールして分担し合う当時の企業連合はグループ内に安定をもたらした半面、グループ外との競争力を次第に弱める結果になった。
 この反省点を見直していたある日、4,5人の仲間と一杯やるつもりで帰りかけたら、エレベーターホールで永井典彦社長と出くわした。「いいところで会った。ごちそうするよ」との言葉にみんなで付いて行く道すがら、永井社長が私に笑顔で「しっかりサポートしろよ」と言う。だが私には何のことか分からない。「一体何のお話でしょう」「まだ聞いていないのか。君は日本船主協会長になる僕の政策秘書だよ」「そのような役目はとても務まりません」「いいからやれ」。
 飲み屋に着いてからも「やれ」「それは無理です」の応酬は続いた。酒の力だろうか、私の口から「私の人事権は社長ではなく定航本部長にあります」という言葉がついて出た。その瞬間、普段は温厚な永井社長が椅子を蹴るようにして席を立ってしまった。それまで黙って成り行きを見守っていた仲間たちは心配顔をして「社長に対して失礼にもほどがある」と口をそろえる。
 翌朝出勤したら本部長に呼ばれ、その場で経営企画部への内示を受けた。そしてすぐ社長のところへ行けとの指示。恐る恐る社長室に顔を出すと、永井社長はニコリともせずに「そーら見ろ」と言った。

2.システム開発で失敗(2年の空費)
国際競争の激化につれてサービスの内容は一段ときめ細かくなり、システム産業化が深まった。既に米船社のIT(情報技術)は最先端レベルに達している。水をあけられた当社はIT開発を急いだが、本社情報システム部の作業はなかなか進まない。
 そんな折、米子会社から耳寄りな情報が寄せられた。「ラルフ・グラントという天才的なIT専門家がいる。彼に任せれば収支、船舶、コンテナ管理はもちろん、荷主や関係官庁などあらゆる関係先とも接合できて、米船の機能を大幅に上回る画期的なシステム開発が可能」という。
 情報システム部は懐疑的だったが、私自身は信頼し得ると判断した。強引に常務会の承認を取り付けて、ニューヨークに北米部門のシステム開発会社を創設。「コスモス」と名付けた開発プロジェクトが動き出し、米国人専門家約200人が約2年の歳月をかけて心血を注いだ。開発費用は百数十億円の巨額に達した。
 1991年4月、いよいよ施行の時が来た。前夜ほとんど眠れないまま東京のモニター。で始動の模様を見守っていた私は肩を落とした。反応に時間がかかりすぎデータも不完全だった。高望みをしたせいで、ハードが対応しきれなかったらしい。許されないはずの失敗。開発費用の損失もさることながら、2年間を空費したことが大きかった。私の重大な判断ミスだ。轉法輪奏社長に頭を下げて「責任をとります」と申し出た。取締役を辞すべきだと思っていた。だが、社長の口から出たのは「たしかに多少乱暴であったことは事実だが、一層努力してくれ」という遺留の言葉だった。

3.日本経済新聞「評伝」2023.11.21より
早くからロンドン支店で勤務するなど国際海運の場で活躍し、国際感覚も豊かだった。「赤字の海」だったコンテナ船の定期航路の再建に奮闘。95年には日・米・欧・香港の4つの船社で共同運航する世界初のグローバルアライアンスの実現にこぎ着けた。
ナビックスラインとの合併に際し、全社員に示した3原則の冒頭は「和のための和をもって尊しとせず、自由闊達に議論せよ。その中から真の和は生まれる」だった。前例のない「創造的改革」の一方で、議論を重ねる慎重な一面も持ち合わせていた。
同友会副代表幹事としては日本経済のありようをめぐる厳しい発言が多かった。同時に、言いっぱなしもよしとしなかった。だから2003年、小泉純一郎首相(当時)の要請で日本郵政公社の初代総裁職を引き受けた。巨大郵政の民営化事業-。火中の栗を拾った以外のなにものでもない。(千葉支局長 佐藤大和)

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