湯浅佑一 ゆあさ ゆういち

電機

掲載時肩書湯浅電池・商事社長
掲載期間1980/10/31〜1980/11/30
出身地京都府
生年月日1906/12/17
掲載回数31 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他三高
入社湯浅商店
配偶者5歳上宮城高女
主な仕事陸上インタハイ優勝、自社見習い店員、父から懲戒免職、社長復帰、関西経協会長、高校野球連盟顧問
恩師・恩人小山文吉、石野琢二郎
人脈辻嘉一・小西得郎(野球)湯川秀樹(同級)渡辺忠雄、原吉平、石田礼助、奥村綱雄、青木均一、藤林益三、千宗室夫妻
備考夫婦クリスチャン、弟の才能を惜しむ、
論評

明治39(1906)年12月17日―平成6(1994)年4月17日は、京都府生まれ。父親の封建的商家を改革し湯浅グループを育てた。また関西経済同友会初代代表幹事、関西経営者協会会長などを歴任。湯川記念財団理事長、50年より日本高校野球連盟最高顧問もつとめた。

1.湯浅電池の歴史
父は大正2年〈1913〉、京都五条の自邸内に研究所を設け、蓄電池の研究を始めた。日露戦争後の国力の急発展により、蓄電池の用途も実験用、通信用から列車点灯用、予備電源用などに拡がり、工業的規模に成長していた。大正4年、堺市にあった湯浅七左衛門商店直営の鉄工所内に湯浅電池製造所を創設し、島津製作所から尾山、甲子両技師を招き、フランスから技術を導入して工業化の第一歩を踏み出す。
 そのころ海軍軍人が独シーメンス社から賄賂をとった、いわゆるシーメンス事件が起こり、軍需品国産化の世論が高まっていた。湯浅も三井物産から潜水艦用を始め大型蓄電池の製造を要請され堺から本拠を移して大正7年〈1918〉4月、大阪府高槻市に本社を置く湯浅蓄電池製造株式会社が誕生したのである。
 三井物産は株式の過半数を所有して販売総代理店となり、前田家(父の旧藩主前田利為侯)、湯浅家も出資し、父が社長に選ばれた。なお、当時三井家の実力者だった早川千吉郎(後に満鉄総裁)は父の実兄であった。このように設立当初から湯浅電池と三井物産は深い関係にあった。父はその後会長に退き、小山文吉氏(物産出身)が社長に、私が専務に就任したのである。

2.終戦2日前に工場が被災(死者13名)
昭和20年〈1945〉8月13日午前8時30分ごろ、突如、米艦載爆撃機10数機が小田和工場に来襲、工場施設を大破し、13人の人命を奪った。爆弾、焼夷弾のほか機銃掃射を伴う熾烈を極めた空襲であった。
 私はこの時期、小田和工場長も兼ねていたので第一報を聞くや直ちに東上、8月15日朝、工場に着いてそのまま終戦の詔勅を聞いたのである。そしてその日のうちに殉教者の遺族を弔問したが、終戦2日前の尊い犠牲に対して誰一人グチをこぼされず、逆に職場を守った夫、子を誇りとする言葉を聞いた。その感銘は今に至るも忘れ得ない。
 13人が社葬によって手厚く埋葬されたのは無論であるが、3人の遺体はついに外に取り出すことができず、永久に工場にあってその守護神となっている。現在も13名の名を刻む慰霊塔が建ち、由来が語り継がれている。

3.社長就任時の施策と実行
昭和20年10月10日、戦争中の責任を痛感された小山社長は会長に退かれ、私がその後を継ぐこととなった。私は社長就任の当日、次の施策を発表し、断行した。
(1) 職員、工員の身分差別を撤廃し、全て社員として月給制を採用する。
(2) 従業員の給料は即日2倍とし、週休制と一日実働7時間を実施する。
(3) 役員と従業員全員をもって社友会を結成し、これに私所有の株式を信託する。社友会は職場代表制と経営協議会によって従業員に経営参加の場を提供、民主化を促進する。
以上のうち、社員の給料倍増はさすがに小山会長が「これでいいのか」と心配されたが、私は思うところを貫いた。そのほか、入社時に取った誓約書を破棄し、従業員が積み立ててきた身元保証金(毎月、基本給の5%)も全額返還したのである。
 今振り返ってみれば、思い切ってやったものだと思う。無謀ぶりを冷笑する声も聞かぬではなかったが、私はひるまなかった。若さと蛮勇で、押し切ったのである。とはいうものの、「社友会」が象徴する経営理念は、湯浅七左衛門商店で革新の“のろし”を挙げて以来のもので、私としては終始一貫、基本的な考え方は今も変わらない。

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