池森賢二 いけもりけんじ

その他製造

掲載時肩書ファンケル会長
掲載期間2019/11/01〜2019/11/30
出身地三重県伊勢市(現)
生年月日1937/06/01
掲載回数29 回
執筆時年齢82 歳
最終学歴
中学校
学歴その他
入社朝日製菓
配偶者音楽仲間 (妻実父:北条秀司)
主な仕事小田原ガス(10年間)、ファンケル、有料化粧サンプル、健康食品、サプリ、ファンケル大学、シニアゴルフ大会
恩師・恩人
人脈鈴木敏文、藤原謙次、宮島和美(義弟)、原辰徳、
備考不安、不満、不便の解消がビジネスに
論評

1937年6月1日 – )は三重県生まれ。日本の実業家、エンジェル投資家。ファンケル創業者で、同社代表取締役社長や、代表取締役会長ファウンダー、日本通信販売協会会長等を歴任した。氏は健康食品(サプリメント含む)分野から初めての「私の履歴書」登場者である。化粧品メーカーとしては資生堂の福原義春氏が既に登場している。

1.入社時から何事にも徹底
氏の優れたところは、何事にも徹底することであった。小田原ガスに就職するとプロパン部に配属され、朝から晩まで担当地域の顧客のもとに出向き、プロパンガスを配達し売りまくる。その上、プロパンガスの取引主任、作業主任の国家試験に合格し、配管工事までこなす徹底ぶりだった。経理部に移っても商業簿記をマスターし、会計管理の勉強をおこない会計システム導入する。次に営業部に移ると、小田原市から開催する消防展や建築展の企画を頼まれたり、顧客にも愛されてトップの営業成績をあげた。これが社内では「規格外の人物」と疎んじられたことで退職する。

2.ファンケル社を設立
73年に卸仲間数人と洗剤など雑貨店の経営を始め失敗するが、自力で抱えた負債を2年半で完済する。そして次に始めたのが無添加化粧品だった。きっかけは、氏の奥様の吹き出物を治したい正義感からの起業でした。生来の徹底イズムで皮膚科医にその理由を訊ね、「無添加化粧品なら吹き出物はでないが、使用期限は1か月」と教えてもらう。同時に女性の化粧の悩みを聞きながら、「肌が荒れますから、使いすぎないように」のチラシを作成し、販売を開始する。チラシは新聞風に仕立て、「素肌美ニュース」と命名。文章、イラスト、撮影、レイアウトもすべて自分で手掛けた。これらが氏の真骨頂である。80年に社名をファンケル社とし、化粧品の小瓶販売で革命を起こすことになるが、それも新聞チラシに目を付け、全国紙の折り込み広告で知名度を上げ成功に結び付けたのだった。次の飛躍は、他の化粧品メーカーは無料サンプルの配布だったが、「無料はありがたみがない。鏡台の引き出しにしまわれたまま、捨てられる」と考え、有料サンプルにしたことだ。そして、洗顔パウダー5包、化粧液1本、乳液1本と一週間分相当のセットにし、代金を1000円にするとバカ売れにつながったという。

3.健康食品事業に進出
氏はこの後、ローヤルゼリーなど健康食品事業も進出するが、化粧品などの原価はおおむね10%程度。売価の大半がブランド料と容器代。そこで超一流ブランドに対して3分の1の価格で提供し、高級感のあるブランドに仕上げ、有力なコンビニエンスストア、ドラッグストアなど販路を強化し販売場所を全国6万カ所に広げて今日の規模に至っている。

4.ビジネスの目の付け所は「不満、不安、不便の解消」
氏のビジネスの目の付け所は、「不満、不安、不便の解消」だった。これは、グリコの江崎利一氏の「商売のネタは、アタマとマナコの働かせ次第で、商売の妙味がいかに無尽蔵であるかとつくづくと感じる」考えと、また太平住宅の中山幸市氏が「商売のネタは生活の中にある」と喝破し「大衆に喜ばれるもの」を探して、月賦住宅販売や電話の月賦販売で大衆のニーズを満足させたビジネス感覚が共通する。何事も人間の五感をフル活用し、その大衆のニーズを発見し、事業への決断、徹底する能力、統率する能力、先見する能力などが、創業者には求められる。池森氏はこれを具現化した人物だった。

いけもり けんじ
池森 賢二
生誕 (1937-06-01) 1937年6月1日(86歳)
三重県宇治山田市(現伊勢市
出身校 産業能率短期大学中退
職業 実業家投資家
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池森 賢二(いけもり けんじ、1937年6月1日 - )は、日本実業家エンジェル投資家ファンケル創業者で、同社代表取締役社長や、代表取締役会長ファウンダー、日本通信販売協会会長等を歴任した。

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