樋口武男 ひぐち たけお

建設・不動産

掲載時肩書大和ハウス工業会長
掲載期間2012/03/01〜2012/03/31
出身地兵庫県
生年月日1938/04/29
掲載回数30 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
関西学院大学
学歴その他県立尼崎高
入社商社大源
配偶者4か月上の嫁
主な仕事大和ハウス、4M工法、大和団地再建、団地とハウス合併、役員1年任期、中国市場、(風力、太陽、水)エネルギー社、大阪交響楽団
恩師・恩人石橋信夫
人脈小田弥之介、中坊公平(監査役)、下妻博(住金)、井上礼之(ダイキン)、桑野幸徳、吉田博一、和田勇
備考虎ファン(川藤、金本、矢野)
論評

1938年4月29日 – )は兵庫県生まれ。実業家。1993年にグループ会社の大和団地代表取締役社長に就任。2001年4月に大和団地と大和ハウス工業の合併により、合併後の大和ハウス工業の社長に就任。大和ハウス工業最高顧問。2005年から2013年3月まで大阪商工会議所の副会頭を務めたほか、2006年4月より大阪シンフォニカー協会(現・公益社団法人大阪交響楽団)理事長も務めている。

1.石橋信夫オーナーは現場主義者
オーナーは「現場主義」を信条とし、日本中の支店や営業所を視察で回っていた。福岡支店に着くと「樋口君、いま熊本はどないなっとるねん」と尋ねた。隣には九州全体を統括するブロック長がいる。「私は福岡の支店長ですから」とだけ言ってお茶を濁そうとした。
 オーナーは許してくれない。長崎は、鹿児島は、と質問が続く。最後に「福岡支店は九州の玄関口で、九州の母店や。九州全部で社員は何人いてる」と聞かれ、「工場も入れると460~470人やと思います」と答えた。「たったそれだけか。わしは23歳でソ連軍の捕虜になり、1000人の兵隊を連れてシベリアに行った。1000人全員に気配りでけないかん。400人や500人の顔ぐらい覚えとかんかい」とばっさり。
 福岡支店長だった私に九州各地のことを聞いたのは「常に一つ上の立場を意識して仕事をやれ」という教育だった。支店長はブロック長の、取締役は常務の仕事を把握しておかなければ昇進した時に即戦力になれない。これを後になってオーナーに「あれは教えていただいたのですね」と聞くと、「気が付くヤツと、気の付かんヤツがおる」とボソッと答えが返ってきた。

2.独自工法「4M工法」の提案
1984年6月に取締役になってから常務、専務と昇進していった。86年4月、本社の特建事業部長に就き、「建築の工業化」にチャレンジした。これは現場施工を減らし、自動化した工場生産の部材をたくさん使えばお客さんは高品質の建築物が早く、安く手に入る。それを徹底するために「4M工法」と名付け提案した。「無足場、無コーキング(充填剤)、無塗装、無溶接でやれ」と言った。「M=無」だ。
 足場は建ち上がった建物の外壁塗装に使う。それなら工場で事前にパネルに塗装しておけば足場も現場塗装も不要になる。パネルとパネルの隙間は充填剤で埋めるのが常識だが、それをシリコーンゴムに代えれば早い。鉄骨を溶接するとコストがかかり、しかも溶接上の腕前次第でばらつきが出る。高張力鋼を使うハイテンションボルトで締めれば、誰がやっても仕上がりは均一だ。
 技術者たちが「そんなことはできません」と猛反発した。私は「試しもせんと、出来ないとは何じゃ。お前らの頭の中は既成概念でカチカチや。やってみてから言え」とカミナリを落とした。高層ビルに塗装の足場がないのに2~3階建ての建物に足場が必要不可欠とは思えない。耐火性のあるシリコーンゴムのメーカーは自分で探し出した。足場もコーキングも不要の商品開発に繋がった。

3.片道切符で大和団地社長に
「大和団地に行って、社長をやってくれ」。石橋オーナーが1961年に、富士製鉄(現新日本製鉄)、野村證券、小野田セメント(現太平洋セメント)との共同出資で設立し、後に上場した会社だ。62年には住友銀行(現三井住友銀行)と提携し、住宅ローンの先駆けとなる「住宅サービスプラン」という独自の仕組みを編み出した。自社開発の宅地購入者に提供するためだ。独創的なアイデァの大和団地だったが、宅地開発ブームが去り、バブル経済の崩壊で深手を負った。
 私は「勘弁してください。今の専務で十分満足しています」と言った。大和ハウス特建事業部の売上高を300億円から1000億円に増やし、専務として脂がのっていたからだ。一方の大和団地は売上高714億円で、有利子負債が2倍の1418億円もある。債務超過寸前だった。
 オーナーの顔がみるみる怒気を帯びた。「わしがつくって上場までさせた会社を潰すわけにいかんから頼んどるのに、何が不服じゃ」と頭ごなしに怒鳴った。いつもとは明らかに口調が違う。身がすくんだ。93年4月15日、私の大和団地行きが決まった。グループ会社に出て本社に戻った役員はいない。片道切符だ。
 オーナーは「社長に就任する6月までに大和団地が保有するすべての土地を見てこい」と厳命した。2か月間、日本中を飛び回った。九州も北海道も日帰り。朝昼晩、雨と晴れ、条件を変えて自分で土地も目利きした。そして社長に就任すると、大規模宅地開発から撤退し、マンション事業と木造住宅にシフトした。どこにどんなマンションを建てるかはオーナーの教え通りに「全部おれが見て、おれが決める」と宣言した。土地購入で10個以上もハンコが押してある稟議書が届いてからでは遅い。手元に届く前に2週間はかかる。本当に良い土地なら売れてしまっている。
 書類作成は後回し。容積率、最寄りの学校・駅・病院・スーパーまでの距離などを事細かに調べ、近隣のマンションの売値と照合。その場で私が購入の可否を決めた。

ひぐち たけお
樋口 武男
生誕 (1938-04-29) 1938年4月29日(85歳)
日本の旗 日本 兵庫県
出身校 関西学院大学法学部
職業 実業家
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樋口 武男(ひぐち たけお、1938年4月29日 - )は、日本実業家大和ハウス工業最高顧問。

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