松沢卓二 まつざわ たくじ

金融

掲載時肩書富士銀行相談役
掲載期間1994/09/01〜1994/09/30
出身地東京都
生年月日1913/07/17
掲載回数29 回
執筆時年齢81 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他六高
入社安田銀行
配偶者母友人娘
主な仕事風船爆弾、富士に改名(S23)、日本共 同証券、銀行の国債販売、大光相互銀の救済、国鉄監査委員長
恩師・恩人岩佐凱美
人脈赤司俊雄、結城豊太郎、黒川久、川又克二、石原俊、桜田武、稲山嘉寛、浅利慶太
備考あだ名:ナポレオン
論評

1913年(大正2年)7月17日 – 1997年(平成9年)9月8日)は東京生まれ。銀行家。富士銀行頭取、会長のほか、全国銀行協会連合会会長、経済団体連合会、日本経営者団体連盟副会長等を歴任した。その風貌と行動力がフランスの英雄を彷彿させるとして金融界のナポレオンと呼ばれた。カードローンの取扱の開始、現金自動預け払い機の設置、オンラインシステムの構築などの新基軸を続々と打ち出した。78年4月、全銀協会長に就任し、金利自由化の第一歩として譲渡性預金(CD)の創設に取り組み、創設を審議する金融制度調査会では殆どの委員が反対する中、松沢が徳田博美大蔵省銀行局長などを説得し業界をまとめ上げ、CDは創設にこぎ着けた。

1.新円への切り替え(戦後インフレ退治)
昭和21年(1946)1月末に貸付課から業務部業務課へ配属替えになった。その2週間後の2月17日午前零時、GHQの指令で日本の金融市場特筆すべき預金の封鎖と新円の切り替えが始まった。
 10円券以上の日銀券は3月2日限りで通用力を失った。一人当たり100円だけは新円への切り替えを認められたが、残りは預金するしか使い道がなくなった。しかも、その預金は自由に下ろすことができない封鎖預金だ。封鎖預金から引き出しは世帯主で1か月300円を限度に新円の札で払い出しに応じた。給料も500円までが新円で支給され、残りは自動的に封鎖預金だった。これくらいやらないとインフレが収まらないとGHQは考えたのだろう。
 例外的な新円の払い出しの理由には、医療費や葬式の費用などが該当した。しかし、銀行窓口の第一線でお客さんと対応する支店の窓口では判断に悩むことが多く、出来る出来ないで窓口は混乱した。

2.悪しき金融慣行(歩積み・両建て)への釈明
昭和40年〈1965〉前後に、この悪しき金融慣行が国会で糾弾された。歩積み・両建てとは銀行が手形割引や貸し付けを行う際、借り手の企業にその資金の一部を定期預金などに預け入れてもらうことで、銀行にとっては担保を補強するという意味合いがあり、一方で借り手側にも資本蓄積が進むという利点がある。それなりの合理性を持つ古くからあった金融取引だ。しかし、預金金利ばかりか貸出金利も産業育成を目的に人為的に低く抑えられていた、いわゆる低金利政策の時代だ。銀行は実質的な利回りを高くしようと、適正水準を超える過当な歩積み・両建てをもとめるようになった。
 昭和39年(1964)に私を含む都銀5行の常務クラスが衆議院の大蔵委員会に呼び出された。質問したのは民社党の春日一幸氏だった。例の独特の口調で大演説をぶち、「歩積み・両建ては不当である。大蔵省は銀行に自粛措置をとらせよ」という。そこで私たちは歩積み・両建てのイロハを説明したうえで、「先生は不当と指摘されたが不当ではない。過当なところが問題なのだ」と釈明した。つい最近まで大蔵委員を続けられた社会党の堀昌雄氏も委員会で大いに発言された。結局、自粛措置で一件落着となった。

3.都銀懇話会の提言
昭和42年(1967)12月に三菱の黒川久専務、住友の安藤太郎専務らと共に都銀懇話会をつくった。志を同じくする都銀(東京銀行を除く12行)で旗揚げをし、初代の代表幹事には第一銀行の清原薫常務が就任、私は二代目の代表幹事をやった。この会は内輪で自由に議論を重ねる親睦会のようなものにした。
 私が都銀懇の代表幹事だった昭和43年の暮れに「金融制度の意見書」をつくった。夏から始めて年末まで、10回ぐらいメンバー銀行の会議室に集まって話し合ってまとめた。その内容は一に資本市場の育成で、二が競争原理の導入、三が業務の同質化、多様化を進め業務分野の垣根を低くすることで、四は政府系金融機関の整理、統合だ。当時、経済評論家の土屋清さんがこれを読んで、「資本市場育成を銀行が言うとは卓見だ」と絶賛してくれた。この後、金融効率化行政が始まり、銀行の合併と続いたのだった。

まつざわ たくじ
松澤 卓二
生誕 (1913-07-17) 1913年7月17日
東京
死没 (1997-09-08) 1997年9月8日(84歳没)
死因 肝不全
出身校 東京帝国大学法学部
職業 銀行家
栄誉 勲一等瑞宝章
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松澤 卓二(まつざわ たくじ、1913年(大正2年)7月17日 - 1997年(平成9年)9月8日)は、日本の銀行家。富士銀行頭取、会長のほか、全国銀行協会連合会会長、経済団体連合会日本経営者団体連盟副会長等を歴任した。その風貌と行動力がフランスの英雄を彷彿させるとして金融界のナポレオンと呼ばれた。

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