杉道助 すぎみちすけ

団体

掲載時肩書大阪商工会議所会頭
掲載期間1956/06/06〜1956/06/12
出身地山口県
生年月日1884/02/20
掲載回数7 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他萩中学
入社久原鉱業(日立)
配偶者八木幸吉参議員姉
主な仕事浪速紡績・大阪商工会議所会頭・ジェトロ理事長
恩師・恩人井上馨老侯、武藤山治(仲人)
人脈中司清、鮎川義介、小泉信三(慶応1下)、小林一三、津田信吾、伊藤忠兵衛
備考父・杉民治(松蔭の実兄)の孫(私)
論評

1884年(明治17年)2月20日 – 1964年(昭和39年)12月14日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後における大阪・関西財界の代表者。曽祖父は吉田松陰の父である杉常道、祖父は松陰の兄の杉民治。
八木商店社長となり、大阪商工会議所会頭を23年間務め、日本商工会議所副会頭、新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)社長、海外市場調査会(現・日本貿易振興機構(略称:JETRO(ジェトロ)を設立後、理事長となる。鳩山一郎内閣において日ソ交渉全権顧問、日韓会談首席代表として政界にも関与した。

1.吉田松陰と杉家の関係
私が吉田松陰の実兄の杉民治の孫に当たることを、知っている人も多くあろうかと思う。この杉、吉田両家の関係は実に深く、松陰までに三代、杉家から養子に行って吉田の名を継いだものである。松陰以後も私の伯父の杉小太郎、弟の彦能が吉田家に養子に行っている。ところが、ここに不思議な因縁がある。
 松陰の伯父の吉田大助、それに松陰、私の伯父の小太郎と、何れも二十代から三十代で死んだ。そこで私の弟が養子に行くと話が決まったときも、母の滝子は非常に嫌がったものだった。

2.慶応義塾仲間
明治34年(1901)に慶応義塾に入学したが、福沢諭吉翁が亡くなられた直後で、小泉信三君は私より一級下だった。近所には農科大学で農業経済を教えていた河上肇先生が居られたが、まだ進歩的な思想を持った人ではなかったようだ。同じ学生仲間に鐘紡の社長になった津田信吾もいたが、柔道の“見物初段”と自称して大いに講釈ばかりぶっていた。その頃は紡績に就職する学生は、就職口が他にないものと相場が決まっていた。多分仕事が大変だったからだろう。ところが彼は学生時代から紡績志望で、卒業論文にも紡績論をものにして、さっさと就職してしまった。学生時代から「将来の日本紡績を背負って立つものは武藤山治か津田信吾か」と豪語していたが、実際その通りになったわけである。

3.武藤山治氏の助言
仲人になってくれた鐘紡の武藤さんの肝いりで浪速紡績をやることになり、その挨拶に行って「なにぶん繊維の知識が皆無なので・・」とご指導をお願いした。すると、私に工場を見せた後、こう言われた。
 「別に言うことはないが、私のやったことを参考に申し上げましょう。私は三井銀行から紡績に入ったので何も知らなかった。そこで毎日工場に入って一心にじっと機械や人の動きをみながら、何か工夫改良することはないかと考えた。するといつとはなしに頭へパッとくるものがある。これは神様のお指図だろうと思い、それに従って工場を整理した。また、人の話をよく聞きなさい。その中に何かタメになることがあれば、それを応用していけばいい」。
とにかく、仕事をやれば身も心も打込めということだと解釈して、私はできるだけこの言葉にしたがった。

4.大阪商工会議所
私の会議所生活は昭和4年(1929)からずっと現在まで23年間続いており、生涯を通じて一番長い仕事だろう。だが、私が初めて会議所に入った動機は、いわば偶然のことだった。当時、会議所の経費は今のような会費で賄ったのではなく、商業会議所経費賦課法という法律により、営業税などの何パーセントかを取って会議所の経費に充てていた。したがって綿糸布業者や砂糖業者、建築業者などは商いが多いから会議所に収める額が多いわけだ。そこでこれらの業者の中から会議所の議員に出て営業税廃止運動をしたり、会議所の経費(当時年25万円ぐらい)を抑えようという話になって、入所を私に勧められた次第である。

すぎ みちすけ
杉 道助
1961年
生誕 1884年2月20日
山口県山口市
死没 (1964-12-14) 1964年12月14日(80歳没)
大阪府
国籍 日本の旗 日本
出身校 慶應義塾大学理財科
職業 大阪商工会議所会頭
日本商工会議所副会頭
日本貿易振興機構理事長
団体 八木商店社長
受賞 正三位
勲一等瑞宝章
藍綬褒章
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杉 道助(すぎ みちすけ、1884年明治17年)2月20日 - 1964年昭和39年)12月14日)は、日本の実業家第二次世界大戦後における大阪関西財界の代表者。曽祖父は吉田松陰の父である杉常道、祖父は松陰の兄の杉民治

八木商店社長となり、大阪商工会議所会頭を23年間務め、日本商工会議所副会頭、新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)社長、海外市場調査会(現・日本貿易振興機構(略称:JETRO(ジェトロ)を設立後、理事長となる。鳩山一郎内閣において日ソ交渉全権顧問、日韓会談首席代表として政界にも関与した。 位階は正三位、勲等は勲一等

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