杉山元治郎 すぎやま もとじろう

政治

掲載時肩書衆議院副議長
掲載期間1957/07/26〜1957/08/06
出身地大阪府
生年月日1885/11/18
掲載回数12 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
東北大学
学歴その他大阪府立 農学校
入社牧師
配偶者失恋
主な仕事伝導指導、農業技術指導(農民運動)、農民組合結成、議員、歯科医
恩師・恩人加藤一夫、賀川豊彦
人脈森村市左衛門、沖野岩三郎、西尾末広、浅沼稲次郎、安部磯雄、永井柳太郎
備考クリスチャン、賀川豊彦から 君は農民運動にと
論評

1885年11月18日 – 1964年10月11日)は大阪府生まれ。大正・昭和期の政治家・農民運動家。牧師。1909年卒業後、仙台市の東六番丁教会の牧師に招聘される。さらに福島県小高町の小高教会に移り、ここで月給1円50銭で牧師を務める傍ら、種苗・農機具・肥料の取次販売を行ったり、近在の村々を巡回して土壌学や肥料学の出張講義を行ったりしていた。やがて社会運動に挺身するべく大阪に戻り、沖野岩三郎の仲介で賀川豊彦に会い、そこで農民運動への協力を求められる。以後、昼間は大阪市の弘済会育児部で働き、夜は大原社会問題研究所に通いながら、運動立ち上げの準備を進めた。1932年、第18回衆議院議員総選挙に旧大阪5区から全国労農大衆党公認で立候補し当選。以後戦前・戦後合わせて9回当選する。大戦中は翼賛政治会に所属していたこともあり、戦後は公職追放となる。解除後の1951年には大阪府知事選に立候補するも落選。翌1952年の第25回衆議院議員総選挙で右派社会党から立候補して当選。1955年衆議院副議長となる。

1.神学生で辻説法
東北学院在学中の思い出は、仙台一の繁華街東一番丁での辻説法である。私は4人の友人とクロス隊(十字架隊)を作り、東一番丁に立って説教をした。すると群衆が集まるので、付近のヤシ(香具師)はさっぱり商売にならないので文句を言ったり妨害したりする。私たちはそれに負けずにやっていると、ヤシの仲間から妥協を申し入れて来て「何時から1時間とか、きちんと決めてやってくれ。私たちはその間、休んでいる」というので、協定して仲良く働いた。

2.日本農民組合結成
大正11年(1922)4月9日、神戸のキリスト教青年会館で日本農民組合創立大会が開かれ、私が満場一致で組合長に選ばれたのである。その時の日農創立の宣言は、賀川豊彦氏の筆になる名文であった。私と賀川氏が宣伝活動、オルグは川崎造船所の争議でクビになった行政長蔵氏、それに岡山から賀川氏宅に飛び込んできた青年文士仁科雄一君が補佐し、会計は住友伸銅所の争議でクビになった岩松国松氏という内容であった。
 かくて地主たちに大きな脅威を与えた日本農民組合は発足し、本部員は各地の小作争議の応援と組織の拡大に飛び回ることになった。

3.賀川豊彦氏の人柄
私は大正9年(1920)、神戸葺合新川の貧民街に賀川氏を訪ねたときの初印象は忘れることができない。賀川氏の家は三畳長屋の2軒分である。長屋の路地はジメジメしていて、一棟ごとにある共同便所の戸は破れ臭気が路上に溢れて、汚く、臭いことおびただしい。賀川氏はそのとき、ヨウカン色になった木綿の羽織袴であったと記憶するが「一つ貧民窟を案内しょう」と自分が先に立ち、細い路地をグルグル歩き回った。
 三畳の間に泊めてもらっていると、夜中に親子喧嘩が始まった。「子供が親を勘当すると言って追い出すから、仲裁に来てくれ」と賀川氏を呼び出しに来る。喧嘩をおさめて帰り眠りかけたと思うと、酔っ払いが来て金を無心する。金をやらないといつまでも怒鳴っていて、寝かさない。そうこうするうちに、誰かの家の子供が危篤だから先生来てくれと言ってくる。私は一晩の貧民窟生活でも大変だと思い、これを一年中世話している賀川夫妻に頭が下がった。

4.歯科医となった理由
①当時社会主義運動をしていると「あれはアカだ」と嫌われ警察の尾行がすぐ付くので、運動をやっていくには、何か自由職業を持つ必要があった。②また、「牧師だけでは飯が食えない」と思っていたからだった。勉強を始めて2年半かかったが、大正13年(1923)にやっと歯科医の免許を取ることができた。

杉山元治郎

杉山 元治郎(すぎやま もとじろう、1885年11月18日 - 1964年10月11日)は、大正昭和期の政治家・農民運動家。牧師

[ 前のページに戻る ]