本田弘敏 ほんだ ひろとし

電気・ガス

掲載時肩書東京瓦斯会長
掲載期間1968/03/07〜1968/04/06
出身地熊本県御船
生年月日1898/10/18
掲載回数31 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
一橋大学
学歴その他熊本中
入社東京ガス
配偶者会社所長娘
主な仕事勤労部長、営業部長、社会人野球協会、バトミントン協会、如水会理事長
恩師・恩人太田半六(上司・社長)、実・長兄
人脈小泉信三、山下三郎、高田五郎、安西浩、田中恭平、小唄(稲山嘉寛、今里広記)
備考代々庄屋、清元
論評

1898年9月22日 – 1981年10月18日)は熊本県生まれ。実業家。東京ガスの社長や会長、日本ガス協会会長、東京商工会議所副会頭や日本社会人野球協会会長、日本バドミントン協会会長等を務めた。戦後の首都圏の都市ガス整備を行った。

1.非常時に人間は本性をさらけ出す
大正12年(1923)9月1日、関東大震災にみまわれた。東京の町の半分ぐらいが一瞬にして崩壊し、余震は夜まで続いた。地震と同時にいたるところで発生した火災は、翌2日になっても消えなかった。私が勤務していた芝営業所長は杉山直吉という人だったが、家が焼けたので毎日出てこられない。やむを得ず、当時庶務主任だった私が所長代理として後始末の陣頭指揮をとることになった。交通が途絶えていたので、本郷根津片町の下宿から営業所まで歩いて2時間もかかった。そこで私は下宿には帰らず、事務所の机の上にフトンを敷いて寝泊まりすることにした。
 弱冠26歳にして200人余りの所員を指揮したこの時の体験は、私には極めて貴重なものであった。私は所員の中に真実の姿を見ることができたのである。ふだん要領よく、所長に取り入っていた人たちは、会社が潰れると見て取ったのか、顔を見せる者が少なかった。反対に、遠くから毎日2時間も3時間もかかって歩いてきて「今日は何をしますか」と真剣に聞いてくるのは、日ごろぶっきらぼうで要領の悪い人に多かった。人は非常事態に直面すると、臆面もなくその本性をさらけ出す。ふだん要領のいい人、かならずしもあてにはならぬ。逆に日ごろは目立たなくても、いざという時に本当に頼りになる人がいる・・ということを発見した。これは今日まで人を使う面でどんなにためになったかわからない。

2.人物は直接会って判断すべき
昭和19年(1944)9月、私は勤労部長を命ぜられた。社長は太田半六さんだったが、社内では”ケチの半六“の異名まで付けられて評判は良くなかった。この役職を断わるべきか、当時東京の商業興信所の常務をしていた長兄に相談すると、「人の噂だけで判断するのは間違っている。自分で直接ぶつかって心情を吐露し、それでも通じなければ、そこで進退を決めればよかろう」と言われた。
 数日後に辞令をもらうと、私は社長室に行き、意を決して「空襲必死の現在、同じ公共事業である電気と水道では、これまでにこれに対する非常体制が整っているそうですが、ガスにはそれがありません。これではガスだけが天下に醜態をさらすことになりますから、早く空襲に対する体制を・・」と訴えた。すると太田さんは、話半ばで椅子から立ち上がり、「本田君、僕も同感だ。早速そうしようじゃないか。君が仕事を急ぐことがあったら、担当常務を抜きにしていいから直接ぼくのところへ持ってきたまえ」と言われたのである。
 見ると聞くとは大違いという言葉があるが、私は社長の意外な言葉に、その器の大きさを見た。そして、その瞬間にこの人のためなら命を投げ出してもいいと決心したのである。太田さんは万事に控えめな方で、自分を売るようなことは決してなさらない人だった。私も直接ぶつかって、初めて胸襟を開いていただいた。

3.座右の銘「人生は貸し方になる」
私は30数年間、お灸の田中恭平先生のお世話になった。先生は若いころ政界入りを志し、それを果たされないうちに酒がもとで胃潰瘍になられた。危うく命を落としかけたところを灸で救われたことから、一念発起して灸を研究され、生涯をそれに捧げられた人である。世の中の浮き沈みを体験されているだけに、人間が練れていて魅力があった。
田中先生は私によくこう言われた。「人間は人生において借り方になってはならぬ。負い目があっては、正しく大きく生きることはできない。貸し方におなりなさい。それを態度に出してはならぬが、人にしてあげることによって、心に喜びとゆとりを持つように・・・」と。私はこの言葉を座右の銘として日夜かみしめている。

本田 弘敏(ほんだ ひろとし、1898年9月22日 - 1981年10月18日)は日本の実業家東京ガスの社長や会長、日本ガス協会会長、東京商工会議所副会頭や日本社会人野球協会会長、日本バドミントン協会会長等を務めた。勲二等旭日重光章受章。

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