戸田利兵衛 とだ りへえ

建設・不動産

掲載時肩書戸田建設会長
掲載期間1981/02/01〜1981/03/01
出身地茨城県笠間
生年月日1886/01/15
掲載回数29 回
執筆時年齢95 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他四高
入社大倉土木(大成建設)
配偶者初代戸田利兵衛に養子
主な仕事博覧会屋、渡米、慶應記念館、請負業地位向上、東京都本庁工事(丹下氏設計)・議事堂、財・戸田育英会
恩師・恩人飯村丈三郎、中条精一郎
人脈堀越三郎(東大同級)、渡辺清、菅原通済(鉄道工業会長)、鹿島精一、竹中藤右衛門、安藤清太郎、竹中錬一
備考建築請負業の身分改善行動
論評

1886.1.5(明治19)~ 1981.3.28(昭和56)は茨城県生まれ。大正・昭和期の実業家(戸田建設会長)。初代の戸田利兵衛が築いた戸田組を、’24横浜出張所を皮切りに、’31(S6)名古屋、’36大阪、’37釜石と出張所を開設し、全国組織の総合建設業者へと成長させた。この間、’36資本金200万円の「株式会社戸田組」とした。’61新八重洲ビルに本社屋を完成させ、同年社長を退き、子の戸田順之助に譲り会長となる。

1.建築請負業者の地位向上3要求
大正8年(1919)から昭和5年(1930)にかけて、我々の業界が政府に対しての要求は3問題である。「業界の3問題(片務契約の是正、営業税の改廃、被選挙権の獲得)に関する請願」である。一般の人々の常識からすれば、当時の衆議院議員選挙法で、請負業者は被選挙人になり得ないという規定があったのである。まさに驚きに値する事柄であろう。後に普通選挙法が1925年に実施されるまでこれは生きていた。
 また官側に一方的な片務契約の是正、営業税の改廃については、当時の、いろんな業界団体の必死の働きかけにもかかわらず、長い時間をかけてほんの少しずつしか改善されなかった。業界主流団体の理事会の末席にいた私も、先輩や同僚理事と一緒になって、請願や陳情で何度もお役所詣りをしたのでした。

2.全国建設業協会の結成
鉄道工業社長の菅原通済氏と私の二人が世話人となって、新団体結成の呼びかけの懇談会を開催したのが、昭和23年(1948)2月6日であった。当時私は東京建設業協会の初代会長に推挙されていた。
 全国建設業協会の創立総会は3月16日に開催。ここで私と菅原氏の両名が会長候補に指名された。ところが、私を推すグループと菅原氏を推すグループが、真っ二つに割れ、議論百出の総会となった。両者がそれぞれの推薦理由を固執して互いに譲らず、まことに不快な思いをさせられたものである。議論の焦点は、業界と政治との結びつきが是か非かというところに絞られていた。これまでの建設業が不当に低い取り扱いに甘んじていなければならなかったのは、政治との結合が弱かったからだと主張する人は菅原氏を強く推した。
 一方の私の見解は、元来建設業のみならず、産業の興隆というものは、その業界が努力して培った成長力が、時を得た時に初めて果たせるもので、いたずらに国政の権力者や特定の政界の庇護を受けるべきものではない、という持論であった。私としては対立候補者と、それを支持する側の見解は絶対に容認できなかったのである。結局、両者は候補を辞退し、安藤建設の安藤清太郎社長が初代会長に就任で、一件落着した。

3.丹下健三氏設計の東京都本庁舎を受注
戦後コンクリート構造の本格的な建物が施工されるようになって、今でも忘れられない2つの工事がある。最初のものは24年(1949)12月に受注した東京都議会議事堂で、次いで28年4月に新たに受注した東京都本庁舎工事である。特に後者は当時珍しかった指名競技設計によったもので、当時の新鋭建築家の丹下健三氏の作品が当選して、大変注目を集めた話題作であった。
 この本庁舎の設計理念が、建築の工業生産化という思想の先駆であったことは、あまりにも有名である。建築の隅々にまで、寸法でもきちっと寸法どおり押して行くという設計理念を、実際の建築作品で実践されたのは、おそらくこれが最初のものであったといえよう。カーテンウォールという新しい建築外装が、本格的に登場してくる先触れが、この東京都本庁舎であり、わが社は、この先駆的な仕事の先鞭を務めるという光栄を体験したわけであった。また、戸田組の社旗を現場に翻したことは、建築業者として、名誉この上もないことでした。

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