徳川義親 とくがわ よしちか

学術

掲載時肩書徳川林政史研究所長
掲載期間1963/12/07〜1963/12/31
出身地東京都
生年月日1886/10/05
掲載回数25 回
執筆時年齢77 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他学習院
入社生物研究所設立
配偶者尾張徳川の 長女に(婿養子)
主な仕事徳川生物学研究所、源氏物語絵巻発見、北海道開墾、熊、虎、象狩り、辞爵届、聾口話普及会、ラッフルス博物館長、辞爵届、社会党結党資金
恩師・恩人宇田川信三先生、井上馨(養子縁組説得役)
人脈大倉喜七郎、岡本一平、大川周明、小磯国昭、小林一三、石原廣一郎、諏訪根自子
備考松平春嶽 息子
論評

1886年10月5日 – 1976年9月6日)は東京生まれ。尾張徳川家第19代当主、政治家、植物学者、狩猟家。父は越前松平家・松平慶永(春嶽)で、1908年に尾張徳川家の婿養子となり、家督を相続。戦前の侯爵・貴族院議員で、第25軍軍政顧問。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた。日ソ交流協会会長。戦前マレー半島で虎狩りをしたことから虎狩りの殿様として親しまれた。自伝に『最後の殿様』がある。

1.源氏物語絵巻の発見 (徳川家当主になって間もなく)
源氏物語の絵巻は尾張・徳川家に二巻、蜂須賀家に一巻あることは、既に知られていたが、明治43年、私が徳川家の什宝を整理した時、この徳川家の二巻の他、世上に伝えられていないもう一巻を見つけ出した。それがこの絵巻で、今ならおそらく、新聞のビッグニュースになっていただろう。明治になって一般公開した。観覧者の中には、岡倉天心の姿もあったことを覚えている。

2.熊狩りの殿様(アイヌに狩猟を教わる)
熊狩りは面白い。この熊狩りの模様を朝日新聞の漫画家・岡本一平君が漫画にしたので、私はすっかり「熊狩りの殿様」というありがたくない名をつけられたのだった。
 熊の穴のことを説明しておこう。アイヌが熊を獲るのは冬である。それは毛皮と胆(きも)が最も良いからだ。熊は秋の内に十分栄養を貯え、雪の降りかける12月ごろから穴を見つけて入り、翌春雪の消える4月初めまで寝ている。熊は無精な動物と見えて、新しく穴を掘るものもあるが、多くは”他人“の掘った古い穴を見つけて入っている。アイヌはこの穴にいる熊を見つけて歩くのだが、この穴がアイヌの財産なのだ。父祖代々からの穴だから、多い者では数百も持っている。しかもアイヌ同士は、決して他人の穴を犯さないのだ。
 熊狩りは、穴から冬眠している熊を追い出し、それを待ち撃ちするだけのことであるが、その場合、肩を狙う。襲われる危険はあまりなかった。むしろ、その熊を見つけ、追うためにかんじき、ゲートル姿で3mも積もった雪の山々を走り回る方が難儀であった。しかし、やはり熊が現れると心は引き締まった。

3.マレー半島で虎狩り(転地療養先で)
皮膚の神経衰弱―迷走神経の過敏症と医師に診断され、転地療養を勧められた。どうせ転地するならと外国のマレーに行くことにした。私は2か月のんびりと船旅を続けた。ところが、シンガポールに上陸するとジョホールの王様が「待っていた」という。「何のことですか」と聞くと「新聞であなたが虎狩りに来ることを知った。その準備をしているから今から出かけようではないか」という。私は、これを聴いてびっくりした。
 この王様(サルタン)に虎狩りの方法を聞くと、鹿やイノシシと同じく“追い出し“の方法である。虎を発見すると、その辺一帯を多数の勢子で遠巻きにする。そして石油の空き缶や爆竹で虎を一定の方向に追い出す。それを射手が地上で迎え撃つ戦法である。サルタンの経験談によると、「怒った虎が正面から襲撃してくるのを地上に立って迎え撃つのは大変危険だが、反面きわめて痛快である。自分はこの方法で40頭の虎を倒した」とのことだった。
 サルタンの専用車で現地に着いてみると、すべて万端整っていた。何しろサルタン主催の虎狩りだから大掛かりなものだ。現地では村民が200人ほど狩りだされていた。マレー人は虎を非常に恐れている。しかし、その虎よりも恐ろしいのがサルタンである。彼らはしぶしぶやって来たのだ。
 それから貨物自動車数台と兵士と虎狩り用の犬14頭、それに石油缶、爆竹が届けられてきた。やがて夕方五時。勢子の叫び声がいよいよ近づいたと思うと、前方の草がかすかに動いて、草むらの間からぬうーっと大きな虎の顔が現れた。距離は100m、少し遠すぎるので、躊躇していると「射撃!虎は後ろに戻るかもしれない」の助言。私はとっさに決心した。バーン。虎はその銃声に一声「ウォー」と叫んで、私に突進して来た。私は危険を忘れて飛び出し、次の射撃を行った。次の朝、獲物の「虎テキ」を食べたが、クマと違って、肉も柔らかく臭みもない。牛肉といってもとおる味だった。

徳川 義親
義親
床の虎は彼が狩った虎で「虎狩りの殿様」の由来となった[要出典]
人物情報
別名 投出しの尾張侯、熊狩りの殿様、虎狩りの殿様、最後の殿様
生誕 松平 錦之丞
(1886-10-05) 1886年10月5日
日本の旗 日本東京府小石川区
越前松平家本邸
死没 (1976-09-06) 1976年9月6日(89歳没)
日本の旗 日本東京都豊島区
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学
配偶者 徳川米子
両親 父:松平春嶽、母:糟屋婦志子
子供 義知、絹子、春子、義龍、百合子
学問
研究分野 植物学林業史、美術史
研究機関 徳川生物学研究所徳川林政史研究所
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徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年明治19年)10月5日 - 1976年昭和51年)9月6日)は、日本政治家植物学者狩猟家尾張徳川家第19代当主。位階勲等爵位従二位勲二等侯爵[1]。戦前の貴族院議員で、第25軍軍政顧問[2]。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた[2]。日ソ交流協会会長[2]。戦前マレー半島狩りをしたことから虎狩りの殿様として親しまれた[2]。自伝に『最後の殿様』がある[2]

  1. ^ 『官報』第5823号「帝国議会」1946年06月14日。
  2. ^ a b c d e "徳川 義親". 20世紀日本人名事典. コトバンクより2020年7月10日閲覧
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