宮本洋一 みやもとよういち

建設・不動産

掲載時肩書清水建設会長
掲載期間2022/11/01〜2022/11/30
出身地東京
生年月日1947/05/16
掲載回数29 回
執筆時年齢75 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他日比谷高校
入社清水建設
配偶者上智卒、教授秘書
主な仕事横浜、1級建築士、都庁工事(JV)、DNタワー21,安震技術、ものづくり塾、シミズ・オープン・アカデミー、インフラ輸出
恩師・恩人内田祥哉、大矢正、野村哲也
人脈宮武保儀、浅川智恵子、井上和幸、庄山悦彦、
備考社交ダンス、河東節、
論評

建設業界からの「私の履歴書」登場は、鹿島守之助(鹿島)、石川六郎(鹿島)、樋口武男(大和)、石橋信夫(大和)、田鍋健(セキスイ)、和田勇(セキスイ)、中山幸市(太平)、戸田利兵衛(戸田)、矢野龍(住友林業)に次いで10人目である。氏は建設業の仕事の中身を詳しく紹介してくれた。建築の見積もりや現場所長の業務内容、大手ゼネコンとのジョイント・ベンチャー(JV;共同事業体)の在り方などのほか、現在の業界が直面している時間外労働問題等の建設業改革などである。建設業や業界の内容はよくわかったが、他業界との人脈づくりの言及はあまりなかった。

1.清水建設の歴史
創業は文化元年(1804)。11代将軍・家斉が治める社会の安定期で、江戸の町では滑稽本「東海道膝栗毛」の十辺舎一九や浮世絵師・葛飾北斎、俳人・小林一茶らが活躍する町人文化が花開いていた。越中小羽(現・富山市)の富農の家に生まれ、日光東照宮で大工の修業を積んだ初代清水喜助が江戸に出て、神田鍛冶町で仕事を始めた年を「創業の年」としている。この時、喜助は21歳。天保9年(1838)、江戸城西丸の造営工事に参加し、幕府御用を務めるようになる。
 清水家では1881年に2代目喜助が65歳で死亡した後、3代目の満之介(2代喜助の長女・ムメの婿)が29歳の若さで後を継いだが、6年後に急逝する。跡継ぎの長男・喜三郎はまだ8歳。満之介夫人のムメは夫の遺言に従い、喜三郎の後見役として実業家の渋沢栄一翁に相談役就任を依頼した。渋沢翁は深川の自宅建設を任せるほど2代喜助を信頼していたことから、清水店(維新後の商号)の相談役就任を快諾してくれた。そして「建築、土木の両方をやる資金的余裕は今の清水にはない。建築に専念するがよかろう」と進言。官工事主体の御用商人にならず、民間工事を中心に「定用工事(小さな仕事)」も親切丁寧に」と諭した。「論語と算盤」である。初代喜助からモットーとしていた「顧客第一主義」「出入り大工の精神」とも一致することから、当社はこの翁の教えを連綿として受け継ぎ、現在は社是としている。

2.見積り研修
1977年4月、本社の建築見積部に転勤になる。社内では「見積り研修」と呼ばれていた。工費積算の手法を期間限定(12月迄の9か月)で学ぶのだ。入社5~6年の十数十人が対象。まず設計図面を元に必要な鉄筋、枠型、生コンの数量などを拾い出す。これを「数量拾い」といい、それに単価を乗じて建設費を弾き出す。次に作業の足場やクレーン、作業用エレベーターなど工事終了後撤去する架設設備の費用に工事期間中の電気代、水道料金などを加えた「架設見積り」がある。しっかりやっておかないと、後で追加コストが発生して採算を圧迫する。研修期間中に見積もった建築物は実際の案件である。

3.共同企業体(JV)で学ぶ(東京都庁工事)
1988年4月に東京都庁の工事は私にとって初の超高層案件だった。高さ243m、地下3階、地上48階建ての巨大建築で、工期はわずか3年弱だった。主幹事の大成建設、副幹事の清水建設、竹中工務店などで構成する計12社のJVで工事に臨んだ。
 大成から来た現場副所長は超高層建築をいくつも手掛けたベテランの方。豊富なアイデァと緻密なオペレーションで私自身大変刺激を受けた。例えば「揚重」という現場用語がある。クレーンなどの重機を使って、建築資材や重量物を指定の階と場所へ運ぶことを意味する。超高層建築の現場で使うタワークレーンは、200mを超える高さになると、上下する間の所要時間は約15分、1時間に3往復するのがせいぜいだ。
 しかも、強風などの影響で1か月に7~8日間は使えない日がある。そうなるとタワークレーンのオペレーションをいかに効率よく行うかが大きな意味を持つ。「揚重を制する者が現場工程の死命を制す」ということだった。大企業の組織はどうしてもタテ割りとなり、その弊害で横の連絡が乏しくなりがち。建築と土木をとってみても、双方の知恵を結集すれば不可能を可能にする力が出てくる。よい勉強になった。
 もう一つの学びは、コストセーブの多様性である。平たく言えば、費用の削減にはいろいろな方法がある。それまで私は現場での作業をできるだけ集約し、一つの業者に一式任せた方が効率が上がり、コスト削減に結び付くと思っていた。ところがスポンサーである大成建設は違う手法を採用した。例えば、石を打ち込む外壁用プレキャストコンクリート。切断・加工した石を設計デザインに合わせ並べた後、コンクリートを流し込み板状(PC板)に仕上げる。この一連の作業を1社に任せるのではなく、石の買付け、加工、海外からの運搬・通関・国内運搬、石の配置、コンクリート打設などをそれぞれ別の業者に発注したのである。
 製作業者が一気通貫で手掛けるより、商流をきちんと分析し細分化・単純化した作業をそれぞれ専門業者にやらせた方が経費を切り詰められるとの考え方だ。そして実際コストは下がった。会社が違えば仕事の手法も異なる。目からウロコが落ちるようなこんな体験がいくつかあった。

4.希望の架け橋(土木の技術力)
2011年3月11日、最大震度7という巨大地震が東北地方を中心に発生した。東日本大震災である。被災地の復旧・復興で多くの工事を手掛けた。その一つに津波被害を受けた岩手県陸前高田市の震災復興まちづくりがある。気仙川右岸の今泉地区と左岸の高田地区を高台移転地として造成したのだが、両岸の掘削土量と盛土量はそれぞれ1280万㎥と1100万㎥。合計東京ドーム20杯分近くの土砂を掘削・盛土した。
 このうち500万㎥を右岸から左岸に運び盛土に用いた。ただ、ダンプトラックによる運搬は交通渋滞や環境汚染、当時の車両需給状況を考えると現実的でなく、ベルトコンベアー(ベルコン)で運搬することにした。約3kmに及ぶベルトコンルートを築き、加えてベルコンが川幅約200mの木仙川を跨げるように釣り橋を架設した。ベルコンの運搬能力は毎時6000トン。この量は10トンダンプトラックで毎時600台に相当する。ベルコンでの運搬を採用した結果、ダンプトラックを100万台分、CO2排出量を2700トン近く削減したうえ、土砂運搬時間を三分の一に短縮した計算になる。
 つり橋は地元の小学生から「希望の架け橋」と名付けられ、「奇跡の一本松」が工区の近くにあったこともあり、見学者が絶えず訪れた。(当日の「希望の架け橋」写真には虹も映っていた)

宮本 洋一(みやもと よういち、1947年5月16日 - )は、日本実業家、建築技術者。清水建設代表取締役会長。日本建設業連合会会長(代表理事、2021年度就任)。2007年6月から2016年4月まで同社代表取締役社長を務めた。日本国際フォーラム顧問静岡県沼津市生まれ、東京都出身[1]

  1. ^ 宮本洋一”. 企業家人物辞典. 2013年5月12日閲覧。
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